追憶
由井晶。
それが私の名前だ。
「私、自分の名前があまり好きじゃなくて……ほら、男の子みたいな名前だから……。友達や周りの人には『ユイ』って呼ばれているんです。私のことを『晶』って呼ぶのは、愛海さんくらいでした」
「そうだったの。……愛海に名前を呼ばれて嫌だなと感じていたなら、ごめんなさいね。愛海に代わって謝るわ」
「いやいや、全然、全然嫌なんかじゃなかったです。自分でもよくわからないけど、愛海さんに呼ばれる分には、嫌じゃなかったんです」
白石愛海と出会った当初、彼女に『晶』と呼ばれることに抵抗はあった。はっきりと名前で呼ばないでほしいと伝えたこともあったが、彼女は私の訴えを笑顔一つでかわしただけだった。
『晶っ!』
『嫌がらせなの?』
『違うよ! だってすっごく良い名前じゃない。呼ばないともったいないよ!』
『本人が嫌がってるのわかってて言うんだから、嫌がらせじゃん』
『はっ! そう言われるとそうだね……でもさ、晶って漢字は左右対称だし、水晶の晶だよ! ほうらっ! 良い名前じゃん!』
自分の名前でもないのに、誇らしそうに胸を張る。一体なんなんだ、この子は。地雷を迷うことなく踏んでくるのに、悪気が一切感じられないのが恐ろしい。
『私は、漢字のことを言ってるんじゃないの。響きのことを言ってるの。『アキラ』っていう響きが嫌なの』
声のトーンを落として、声で睨んだ。大抵の人はこれで引き下がる。彼女もその時初めてたじろいだ。効果覿面だと思った。これでもう名前を呼ばれることも、絡まれることもないと高を括っていた。
彼女との出会いは、記憶に残るほどのものではなかったのだ、と。
それが見当違いだったと気づくのに、時間はかからなかった。私の牽制は、白石愛海からすれば何の意味もないものだったのだ。
次の日も懲りずに彼女は私のことを『晶』と呼んだ。
『言ったよね? 名前で呼ばないでって』
『ごめんって。でもね、あれからちょっと調べてみたの。あなたの名前にどんな意味が込められているのか』
嬉しそうに話す彼女に苛立つ。ただ、話を聞かなければこの子はやめない、これはこれからも続くものだと私は思い、口を閉じて彼女の話を聞くことにした。形だけ、形だけでいいのだと自分に言い聞かせれば、苛つきは、逆立てた毛を下ろした。
『あのね、そもそも晶って漢字はね、星の光を表す日を三つも使ってるわけ。三つだよ? 三つ! すっごい贅沢じゃない? それで星々の輝きを表現してるんだってさ』
話す彼女の目が、輝いていた。それが眩しくて仕様がなかった。星の見えない夕暮れ時に、自ら輝きを放つ光。嫌になるくらいの強烈な光だった。
『だからね、あなたのご両親は、あなたの人生がきらきら輝いているものになりますように、あなたが歩む道を明るく照らしますようにって、そんな気持ちを込めて『晶』って名前にしたんだと思うの。ほら、やっぱりすっっごく良い名前でしょう!』
『……ねえ、どうしてそんなこと調べたの? 私が自分の名前を気に入らないことは、あなたとは何の関係もないことでしょう? それなのに、わざわざ調べて、わざわざ伝えに来るなんて……私にはあなたの目的がわからない』
むしゃくしゃして、前髪を乱暴にかきあげた。おかげでぱちぱち瞬きを繰り返す顔が、はっきりと見えた。
『目的? 目的なんかないよ? 前にも言ったでしょ? もったいないと思ったからって。自分の名前が好きか嫌いかなら、絶対好きの方がいいじゃん。嫌いなら好きになればいいと思ったの。こんなに素敵な意味が込められているんだよ? ちゃんと名前を呼んであげなきゃ、もったいないよ』
もったいないって、何よ、それ。
『だからさ、これから好きになればいいじゃん! アキラって呼ばれることに慣れよう。それから日常の中にある楽しい、嬉しいと思えることを増やしていくの。そこにアキラって名前が必ず付いてくるから。いつか昔を思い出す時、みんながあなたの名前を呼んでる。あなたはそれに違和感を感じなくなってるの。ね、そんな未来になってたら、最高じゃない?』
白石愛海との会話は、終始静電気をくらっているみたいな感覚だった。どうなるかなんて触れるまでわからないから、触れて、驚いて手を引っ込める。
正直、苦手なタイプど真ん中の人間だった。私には無理矢理心をこじ開ける無責任で無鉄砲、自己中心的な人間にしか見えなかった。関わってはいけない人種。それが、白石愛海。
『勝手なこと言わないでよ。私は別に自分の名前を好きになりたいなんて、思ってないの』
どんなに説得されても、気が乗らない。マイナスのイメージしか持てない提案に、はいそうしましょうと、簡単に頷くことが出来るはずない。何より、もうユイと呼ばれることに慣れてしまっていたし、私のフルネームを知っている人はごくわずかだと思うから、このままでも問題はない。
『色々考えてくれてることは有り難いけど、要らない。私はこのままでいい。どうせ社会人になったら名前よりも苗字で呼ばれることの方が、圧倒的に多くなるんだから』
学生でいられるのも、あと数年しかない。数年後には『ユイ』と、苗字呼びが定着する世界に足を踏み入れる。私だけじゃない。みんないつかは、そうなる。
『慣れ』から抜け出すことはとても難しいから、現状維持が一番楽だ。
この時の私は、楽な方をばかりを選んでいた。「だったら……」と未だに食い下がる彼女みたいな光属性に、私はなれない。
『だったら、尚更名前を呼ばれなきゃダメだよ。大人になったらあなたの言う通り苗字呼びが当たり前になる。だから、『ユイ』と『アキラ』であなたと、あなたに関わる人達との関係性を区別する必要がある。『アキラ』って呼ぶ人は、ちゃんと由井晶っていう一人の人間を見てくれる人になるから』
その時の白石愛海は眉をむっと吊り上げていて、わかりやすく『怒り』を表現していた。私はのんきにこんな子でも怒ることがあるんだ、怒りを人に向けたりするんだと、彼女に関心を抱いていた。
今思えば、好奇心だったのだと思う。
好奇心で白石愛海という人間を知りたいと、密かに思った。彼女の必死の説得は理解出来ないし、馬鹿みたいに笑っているのも、初めから距離感がおかしいのも苛立つけれど、彼女に『アキラ』と呼ばれたことは、むず痒いだけで、嫌ではなかったから。
その『嫌ではない』と思う気持ちの正体を、知りたかった。白石愛海との繋がりが欲しいと思った。
『……そこまで言うなら、証明してみせて。名前で呼ばれることが私の人生を変えたって証明を。言葉だけじゃ、私は納得しないからね』
わざと横柄な態度をとり、白石の本気度を確かめた。これで怒り、離れていくのなら……こんなことで離れていく彼女なら、興味はない。
『どうする? やっぱりやめる?』
壁に寄りかかり、腕を組んで答えを待った。
やるかやらないか、白石がどちらを選ぶのかはわからない。彼女の出す答えに緊張して腕に力が入る。そんな自分がいたことで、彼女の口から『やる』と言ってほしいと思っている自分がいることに、気づいてしまった。
白石愛海は、カラッと笑う。
『やるよ。任せて! 絶対証明してみせる! 絶対晶は自分の名前が好きになるから! 私が好きにしてみせるからね。明日から覚悟しといてね!』
カラカラ笑い、嬉しそうに握手を求めてくる。
『ということで、よろしくね! 晶!』
無意識に差し出した私の左手を掴み、上下に優しく振る笑顔の人に、何度目をしばたたかせたことだろう。
これからの日々を想像すると、不安と期待が交錯した。私は墓穴を掘ってしまったのではないかと、満面の笑みを前にして、頭を抱えたくなった。
『安心して、このことは二人だけの秘密だから。あなたが自分の名前を好きになるまで、人前では絶対にアキラって呼ばない。二人の時だけ名前を呼ぶからね。私のことは、アキラが呼び方を決めて。苗字でも名前でも、あだ名を付けてくれてもいいよ!』
天気雨みたいな予測不可能な日常に振り回されることになる自分に、同情する。カラッと晴れた空を睨んでも無意味だと私は知ってしまったから、諦めて笑うしかなかった。
『……そうだなあ……じゃあ私はーー』
こうして私と白石愛海は繋がりを持った。
ずっと昔のことのようで、昨日のことのようでもあったーー。
白石のお母さんは、私の話を静かに聞いてくれた。話終わる頃には、線香が半分以上燃えてしまっていた。二十分ほど私は昔話をしていたようだ。
白石愛海が亡くなって、こんな風に安らかな気持ちで彼女のことを思い出すのは初めてだった。白石のお母さんなら、私達のことを受け入れてくれるとどこかで思っていたのかもしれない。
「愛海はお節介ね」
「ごめんなさい、私も初めはお節介だと思っていました。そこが愛海さんの長所だと、今ならわかるんですけどね……でも、もう……ごめんなさい、今更……ごめんなさい……」
俯いて、スカートを握り締める。
「……ユイさん、ちょっと待っててね」
椅子から立ち上がる白石のお母さんの気配がして、そっと顔を上げてみると仏壇の引き出しから何かを取り出しているところだった。
ーーあれはきっと、手紙だ。晶宛に書かれた手紙。
最後の一通が私宛だなんて……。
もっと繋がりの強い誰かが居るとばかり思っていた。私なんかが受け取っていいものなのだろうか……。
手紙を受け取ることに躊躇う。宛名面に『アキラちゃんへ』と間違いなく白石愛海の字で書かれていた。私が読まなければいけないものなんだと思った。
いつまで経っても手紙を手にしない私に白石のお母さんは、優しい声で「読んであげて」と言った。断りきれず、手紙を受け取る。
書かれている内容が気になるが、やはり見るのは怖い。もしかしたら、もしかしなくても、私への恨みが綴られている可能性だってゼロじゃないんだ。
ここで読みたくないなあ……。
目の前に人が居ると思うと、落ち着いて文字を追えない気がした。それが白石愛海の身内なら尚更。
ちらりーー白石愛海のお母さんを見る。
ばちりーー視線がかち合い微笑まれた。
「ユイさん、無理をして今読まなくてもいいのよ。家に帰ってからでもいいし、何年か経ってから読んでくれたってかまわないわ」
「あ、の……あの、手紙、持ち帰ってもいいですか?」
「もちろんよ」
お礼を言い、頭を下げて両手でしっかりと手紙を持つ。指先は冷え切っていたけれど、身体は熱い。手紙が重い。この重みが、私の罪と後悔だ。読まないわけにはいかない。
もう一度お礼を言うと、白石のお母さんの目には涙が溜まっていた。
「ユイさん、今日は本当に来てくれてありがとうね。……やっと胸のつかえが取れたわ。やっと……やっと全員に手紙を渡すことが出来たのね……はぁ……よかったわ……」
「本当に、来るのが遅くなってごめんなさい!」
「ごめんなさい、ユイさんのことを責めてるわけじゃないのよ。『アキラちゃん』が誰なのかわからなくて、こちらからは何も出来なかったから。『アキラ君』なら思い当たる子が居たのだけれど……」
「もしかして、山本彰のことですか?」
「そうそう、山本君。そういえば三人とも同じクラスだったわね。山本君、愛海とは中学生の時からのお友達でね。お焼香も上げに来てくれたのよ。だから愛海とは……そうなのかしら? と思っていたの。私の勘違いだったみたいだけれど」
「彼氏かどうか聞かれたと、山本から聞きました」
「あら、ユイさんは山本君とも仲が良いのね。実はね、山本君や他のお友達に『アキラちゃん』のことを聞こうと思ったこともあったけれど、やめたわ。待つことにしたの。『アキラちゃん』の方から来てくれることを」
何故白石のお母さんは、待つことにしたのだろう。早く『アキラ』を突き止めてしまえば、多少なりとも気持ちは前に進むことが出来ただろうに。
「どうして、待つことにしたんですか? もしかしたら、一生来ない可能性だってあるじゃないですか」
私の質問を聞き、より一層笑みを深めると白石のお母さんの頬に涙が伝った。
「だって、愛海のお友達なのよ? あの子の……あの子が大切にしてきた人達は、同じようにあの子のことを、大切にしてきてくれたはずだから。愛海が亡くなったからって簡単にその繋がりは消えたりしないって、私は信じてたの。あの子が積み上げて来たものは、今もしっかり根を張っているの。これから先もずっと。ずっと、ね……」
「……そう、ですね」
「ユイさん……いえ、晶ちゃん。あなたの中にもしっかり愛海が居るのよ。切っても切れない太くて強い根が二人の間に存在するの。だから、会いに来るしかなかった。ずっと愛海のことで悩んでくれていたんでしょう? ありがとう。今も愛海を思い出してくれて、本当にありがとう。これから先も、たまにでいいから愛海のことを思い出してあげて」
手紙を握り締める。気を張っていないと、涙が出そうだった。切っても切れない何かがあると言われたことが、どうしようもなく嬉しかった。目には見えない不確かな何かが、確かにここにあるのだ。例え誰かに否定されても、私も信じてみたいと強く思った。それは、相手が白石愛海だからだ。
白石愛海だから、成立するのだ。
「……はい"!」
振り絞って出た声は、情けないほど震えていた。それでも白石のお母さんには、私の思いが伝わったと信じている。
だって、白石愛海と同じ笑顔が見れたのだから。




