アキラ
食欲がない。こんなこと今まで一度もなかった。風邪を引いた時でさえ食欲だけはあったのに、それなのに、私の体はどうも様子がおかしい。
36.8度、平熱。数時間おきに測り直してみても、体温に異常はない。自覚症状としては、食欲がないこと以外に体がだるいだけだった。
だるい。だるい、だるい、だるい。学校に行くのは無理だと判断し、二日連続で学校を休んだ。ここで私の皆勤賞は途絶えてしまった。
「大丈夫?」と心配して、円と山本からお見舞いメッセージが届いた。一方で梓からは「元気ですかー!」と、病人に向けるにはどうかと思うメッセージが送られてきた。
元気なら学校行ってるわ。
文字を打つのもだるくて円と山本には一言、大丈夫、とだけ返信を。梓のメッセージはそのまま放置。私は悪くない。
目が疲れてしまう前にスマホの電源を切り、枕元に置いた。鯨井さんとの会話を反芻しながら、これから自分がどうすればいいのかを考えた。
残り1通の手紙。アキラへ。
アキラ、アキラーー。
目頭が熱くなって、目を閉じた。考えることから逃げるために、この症状が出てきたのかもしれない。とすれば、体調が良くなってからでないと私は、使い物にならないということか。
困った。ーーいや、助かった。
沈みゆく意識の中、目を開け、カラーボックスの上に飾ってある虹の絵を見た。絵が、私を観ていた。明日晴れたらいいなと思いながら、眠りに落ちた。
翌日、学校に登校すると朝から梓のマシンガントークに付き合わされた。病み上がりだからという考慮は一切なかった。円は休んでいた間のノートをとってくれていた。さすが気の効く親友。
「ありがとう。めっちゃ助かる」
「どーいたしまして。それと、はいこれ、休んでた時に出た課題プリントと、あと休んでた日が提出期限だった課題を、今日中に提出してって伝言預かったよ」
「うわあ……ありがとー」
受け取りたくないが、プリントを受け取るしかない。
「ところで、どうだった? 鯨井さんと白石の家に行ったんだよね? 手紙はあったの?」
「私は鯨井さんが出てくるのを、外で待ってたけどね。……あったよ、鯨井さん宛の手紙」
「おお! で、残りの一通はどうなったの? 誰宛かわかった?」
「それはわからなかった」
間を空けずに答えた。私のついた嘘に気づかない円は、残念そうに「そっかぁ」と呟く。
胸の中で小さな嘘が、どんどんどんどん大きくなってゆく。本来なら背を向け合うはずの罪悪と道徳が、手を取り合う。嘘が本当になる、そんな未来が見える。
楽な方に行かないことに決めた鯨井さんに感謝された私は、自分の都合のいい方向に舵を切ろうとしている。
嘘が本当になれば、それが本当だーーそんな言葉が聞こえてくる。
「最後の手紙が、ちゃんと渡したかった人のところに届けばいいねぇ」
白石愛海の席を見つめながら円は言った。少し寂しそうな背中に、私は「そうだね」とだけ言って、目を伏せた。
放課後になって、休んでいた時の分の課題を提出しに職員室まで向かった。荷物は全部教室に置いてきた。教室で円と梓が待ってくれているけれど、病み上がりだしと言い訳をし、急ぐことはなかった。
課題プリントに目を通しながら、廊下の端を歩く。一問解き間違いがあることに気づいたが、書き直す気が起きなかった。最終確認した意味はなかった。プリントの下端に折り目がついていた。折れた三角形が上を向く。それも元に戻す気が起きなかった。
課題を提出すると、先週提出していたノートが返却された。付箋が付いていなかったから、再提出は免れたようだ。
「体調はもういいのか?」
数学教師がコーヒーを飲みながら訊く。職員室のドアに向かおうとしていた足を止めて、私は答える。
「はい。もう大丈夫です」
「そうか」
コーヒーカップを机に置き、あまり無理するなよと、私ではなくパソコンを見ながら教師は言った。自分から話しかけておいて、最後までいい加減な対応だった。形だけでも心配する素振りを見せてみろ、と思った。
最後に失礼しますと言った私の声は、教師の耳には届いていないだろう。
うんざりしながら職員室を出ると、出たところで、鯨井さんと鉢合わせてしまった。驚いて後退りする。職員室のドアに足をぶつけた。然程音は立たなかった。
「ユイちゃん! 大丈夫? 二日も学校休んでたでしょ? 心配で連絡しようと思ったんだけど、体調悪い時にそんなことしない方がいいかなって思って、連絡しなかったの。ごめんね」
鯨井さんは私が学校を休んでいたことを、知っていた。知っていたこともそうだが、何より心配してくれていたなんて、随分と親しい関係になれていたのだなと、面食らう。
「大丈夫だよ。ありがとう、心配してくれて。ちょっと身体がだるかっただけで、もう全然平気!」
何故か二の腕に力こぶを作ってみせる。これでは元気よりも筋肉アピールしているだけだが、鯨井さんがよかった、と安堵の表情を見せてくれたから、ある意味正解だ。
「本当に大丈夫だから! ……じゃあ私、友達待ってるからもう行くね。またね!」
出来るだけ早くその場を離れたかった。横を通り過ぎる瞬間に、鯨井さんが呼び止めようとしてきたことに気づいたが、気づかないフリをして進んだ。
自分の名前が書かれた、一冊のノートが恐ろしく重たかった。
息つく暇もないほど慌ただしい展開が、私の中で続いている。腹を括らなければならない時が、今なのだろう。
ーーでも、怖い……。
「待って! ユイちゃん!」
いきなり左腕を掴まれた。反動で身体がぐらつく。不覚にもノートを落としてしまった。
「あっ、ごめん!」
ノートを拾おうとする鯨井さん。
ーーやばい、見られる。
我に返り、急いでノートを拾おうとしゃがみ込んだ。鯨井さんよりも速くノートに触れ、拾い上げる。もう落とさないよう強くノートを抱え込む。が、視線を感じてもう遅いと悟った。
鯨井さんは私より早くしゃがみ込んでいた。なのに、私の方がノートを拾うのが早かった。それは、鯨井さんが途中でノートを拾うのをやめたからだ。
その理由はきっと、
「……ユイちゃん、ねえ、そのノート……名前……」
自分の顔から血の気が引いていくのがわかる。
「待って……だって、ユイちゃんは……」
鯨井さんが驚倒するのも、無理はない。
体も思考も、呼吸さえも止まる。こんな形でバレてしまうなんて思いもしなかった。なんて、間抜けなんだ。
揺れる眼が、私を見る。ぎゅっと目を瞑ると、真っ暗になった。
続きを言わないで。聞きたくない。聞きたくないのに、耳に意識が集中するのは、どうして?
「ユイちゃん……ユイちゃんが……『アキラ』なの?」
大量の酸素が一気に肺に入ってくる。
私はーー走り出した。
鯨井さんが私を呼ぶ。聞いた事のない大きな声で。だけど私は止まれなかった。走って、走って、逃げ出した。
円も梓も荷物も全部、置いてきた。
息が上がっても走り続けた。怖くて、怖くて、とにかく走り続けた。
スマホが鳴る。鯨井さんからに決まっている。何度鳴っても無視して、走る。
気づけば、白石愛海の家の前にいた。
もう、ここに来るしかなかった。
家の前で立ち尽くし、息を整える。そしてスマホを見た。連絡は全部円と梓からだった。
『ユイまだ〜?』『流石に遅すぎるって! 何処で何してんの?』『おいこら、電話出ろっ!』と、ひっきりなしに二人からの連絡が並ぶ。
『急用が出来て先に帰った! ごめん!』
ノートを脇に挟んで返信を打つと、既読が付きすぐにスマホが鳴る。仕方なく電話に出る。
『もしもし、ユイ! あんた今何処にいるのよ! ってか荷物忘れて帰るやつがあるか!』
『ごめん! ほんっっとうにごめん! 荷物はあとで取りに行くから、そのまま放置して帰っていいよ!』
『はあ? ちょっと詳しく説明して! 何があったの?』
『ごめん! 今は話せない……本当、ごめん……ごめんね、二人とも』
一方的に電話を切った。ポケットの中でスマホが暴れるものだから、心苦しく思いながらも電源を切った。
白石愛海の家に目を向ける。腕を上げ、インターホンに手を伸ばすが、震えてしまう。勇気が出ない。でも、もう隠し通せない。私の名を呼ぶ声に背中を押され、人差し指に力を込めてインターホンを押した。
数秒後、『はい』と女性の声が答える。
「あ、あの! 私、愛海さんのクラスメイトのユイといいます。あの……」
言葉に詰まっていると「ちょっと待ってて下さいね」と、優しい声を耳が拾った。私の言いたいことを察してくれたようだった。
玄関のドアがいつ開くのか、待っている間に緊張がピークに達する。手に汗が滲む。何をどう話せばいいのだろうか? 話す内容が全然まとまりそうにない。焦る。
そうこうしている内に、玄関のドアが開いた。
「こっ、こんにちは」
九十度に頭を下げる。
「こんにちは。ユイさんだったかしら? どうぞ上がって。愛海に会っていってちょうだい」
顔を上げ、声の人物を見る。女性は、この前鯨井さんと話をしていた人だった。白石の母親だろう。とても痩せて見える……というよりも、やつれている。疲れ切った顔だ。
「お、お邪魔します」
まじまじと見つめていては駄目だ。もう一度頭を下げて、足元を見た。手汗は止まらない。覚悟はないが、ここに来たことに後悔もない。
白石の母親に案内され、リビングに入る。リビングの奥の和室に仏壇があった。
「同じクラスのお友達が来てくれるのは久しぶりだから、愛海もきっと喜んでいるはずだわ」
出された座布団の上に正座で座り、真正面から仏壇を見た。遺影がある。山本の言っていた通り、そこには笑顔の白石愛海がいた。
山本がどんな気持ちでこの笑顔と向き合ったのか、わかった気がした。どれだけ痛かったことか……。
笑顔が眩しい。懐かしい。
「……あの……お焼香を上げさせてもらってもいいですか?」
「もちろんよ。どうぞ」
「ありがとうございます」
笑顔を見つめ、手を合わせる。瞼に浮かぶ姿に、心は震える。伝えたかったことを、やっと伝えられる。
来るのが遅くなって、ごめん。まさか、私のことを待ってくれてるなんて夢にも思わなかったから。だけど、忘れた日はないし、忘れることは出来なかった。本音を言うと、こんな中途半端な気持ちのまま来ちゃいけないと思ってる。ごめん、何ひとつ整理出来ていない状態で来てしまって、ごめんーー。
両手を膝の上に置く。目を開け、笑顔を脳裏に焼き付ける。懐かしい笑顔だと思うことが、これほどまで悲しいとは……。
生きた笑顔を二度と見られない現実が、辛い。
遺影と骨壷を見て白石愛海の死を実感したと、山本は言っていたっけ。私の目の前にもそれがあるのに、どうしてか、実感がわかない。亡くなってしまったという事実は受け入れているというのに、実感はない。
「ユイさん、今日はわざわざ足を運んでくれてありがとうね。オレンジジュースくらいしか出せないけど、飲んでいって」
「あ、ありがとうございます」
足は痺れていなかったから急に立ち上がっても、大丈夫だった。リビングのダイニングテーブルに座り、オレンジジュースを頂く。視線は仏壇に向けたままだ。
「ユイさんとは、初めましてよね?」
白石のお母さんは、私に興味津々な様子だった。玄関で見た時よりも顔色が良くなっている気がするのは、気のせいじゃないだろう。
「はい、初めましてです。私、体調を崩してしまって通夜にも行けていないんです。……それで、今日……。あの、連絡もなしに突然伺ったりして、すみません」
「いいのよ、気にしないで。ありがとう、愛海のこと忘れないでいてくれて。……ユイさんは愛海のクラスメイトなのよね? 愛海の口からユイさんの名前を聞いたことがなくて……」
話していると、線香の香りが漂って来た。私の心を落ち着かせようとしているように感じた。実感はなかったのに、やっぱりそこに居るんだと思わざるを得なかった。
「……愛海さんは私のことを、『ユイ』とは読んでいませんでした」
「あら、そうだったの? じゃあ、あだ名で呼ばれていたのかしら?」
ユイだから、えーっと、と考え込む白石のお母さんの姿に懐かしさを覚える。仕草がそっくりだ。目元が特に似ている。懐かしくて、泣きそうだ……。
「あだ名ではありません。……すみません、まだちゃんと自己紹介していませんでしたよね。……はじめまして、愛海さんのクラスメイトのーー『由井晶』です」
線香の香りが深くなって、記憶が蘇る。
白石愛海と出会った時の気持ちを、今でもちゃんと覚えている。
初めて私の名前を呼んでくれたあの眩しい瞬間を、私は今もまだ、大事にしている。
白石のお母さんの瞳に私の姿が映る。優しそうな目元が、やっぱり似ていた。




