相対III
数ヶ月前から、世界の均衡は崩れ始めていた。
私が聞いた音は巨大な何かが崩れ落ちるような、そんな壮大な音なんかじゃなかった。例えるなら、そう、砂の城が波にさらわれ少しずつ、静かに、その形を崩してゆくーーそんな感じの音だった。
" 少しずつ " 形を変えてゆくことが不気味だった。
いつか、初めからそこになかったものになる日が来ることが、どうしようもなく怖かった。
そのカウントダウンは止まらない。そうなる未来に向かって行っているんだと、毎日カレンダーを目にすることで思い知る。
ずっと、息苦しかった。
生活は何一つ変わっていない。だから、日常生活に支障はないはずなのに、なのに、息苦しいのだ。
それでも、容赦なく夜が明けて、朝はやって来る。晴れない気持ちを無視して、無駄に輝いた朝日を見せつけて来る。
日々 " 新しい毎日 " を更新する。
それなりに大きくなったはずの身体なのに、想定外の重みには反応出来ず、抱えきれなかった。落としたくなくて、必死に全てを持ってみるけれど、この器に見合ったものじゃないから、文字通り、ただ持つことしか出来なかった。
持ったまま、呼吸を繰り返す日々。
息を吸って、吐いて、吸って、吐いて、それだけ。
意識して、無意識に呼吸をするように努めるしかなかった。
どんな気持ちで朝を迎えればいいのか、壊れた世界をどう修復すればいいのか、白石が居なくても、それは可能なのか、自答する間もなく自問していた。
時間が癒してくれると言うけど、そんなのは詭弁だ。時間なんかが解決してくれるものか。そんな簡単な話じゃない。何かをしなければ、この気持ちは消化出来ない。
人間だから、感情があるから、馬鹿みたいに傷ついて、泣いて、笑って、怒る。
大人になれない私達は、ずっとそうやって生きてきた。だから、想定外のことを対処する能力がまだ備わっていない。
泣いて、笑って、怒って……どれも、自分という人間を表現するための手段でしかなくて、何かを解決するのに何の役にも立たないものだと、今になって知った。
役に立たないのなら、こんなもの、要らないのに。
喜怒哀楽の自己表現で、状況は変えられない。それを知ってしまったから、私は平静を装うしかなかった。
諦めではないが、無駄だと心が言う。心が言うものだから、表には出さない。出せない。
心の中でだって、私は自由じゃなかった。
信じて欲しいのなら、正直に自分を見せなさいと、何度も身体中をその言葉が循環した。
その言葉に従おうとした。だけど、どうしてもそれが出来なかった。見せられる範囲だけを見せて、ここまで、と急ブレーキを踏む自分が居る。親友二人にさえも、私はそうだった。
振り切る時は、今じゃない。
私は、その瞬間を待っている。
だから、息苦しい。
彼女はもう過去の人間。そう、所詮過去の人間でしかない。
もう二度と、私達とは交われない存在なのだ。
元々、互いを認識しても意識することも、複雑に絡むこともなく、どこまでも平行線で進むーーそんな関係だった。
そして、当たり前に別の道を歩む。ずっとそうなるものだと思っていた。
ううん、寧ろそんなことを考える必要もない間柄だった。
だから、鯨井さんほど私が白石のことを知らないのは、当然のこと。
もしかしたら、私が思っているよりも白石愛海は完璧な人間じゃないかもしれないし、優しくもないかもしれない。実は人見知りが激しいとか、普段の彼女からは想像の出来ない、意外な彼女がいたのかもしれない。
私は、鯨井さんより白石のことを知らない。
けれど、鯨井さんのことよりは、白石のことを知っている。
「白石愛海が仮に、鯨井さんのことを避けていたとしたら、それには絶対に理由があってのことだと思う。……だから……鯨井さんからだよね? 白石のことを、避け出したのは」
街灯がチカチカ点滅する。顔が見え隠れする。迷いのある鯨井さんの気持ちが、街灯に憑依したように見える。
「ねえ、そうなんだよね?」
明暗のタイミングが悪い。鯨井さんがはっきりと見えないのを、街灯のせいにした。
そうやってまた見せられる範囲を、絞り込もうとしている。
不安定に、不規則に、光り続けろ。
「愛海は、本当にすごいなあ……」
「えっ?」
「本当にすごい、あの子は。だって、特別親しくもない人からも、そんな風に思われてるなんて……。それに、本当にユイちゃんの言う通りの子なんだもん。……勝ち目ないよ」
灯りに魅せられた蛾が、街灯に近づき接触する。瞬間、バチッと音を立てて、呆気なく地面に落ちた。暗闇の中で、小さくて黒い物体が弱々しく落ちる。それだけははっきりと見えた。
「勝ち目って、何の話をしてるの?」
「何の話だろうね。……はあ、まさか愛海のことを一番に聞きに来るのが、ユイちゃんだなんて、想像もしてなかったなあ。絶対一番に来るのは、あの子達だと思ってたのに」
「一番は、私じゃないけどね」
「一番はユイちゃんでしょ? 他に聞いて来た人居ないよ?」
「山本のこと忘れてるよ。あいつが最近鯨井さんに話しかけようとしてたのは、白石愛海のこと聞きたかったからなんだよ?」
「……あ、そうだったんだ……それであんなに必死で」
「そうだよ。それなのに、鯨井さんめっちゃ山本のこと避けるから。だから、私が、ね」
「そっか……そう、だよね」
「? そうだよね?」
「ううん、何でもない、気にしないで。何か、スッキリした。そういうことだったんだ」
どこもスッキリしたようには見えなかった。
鯨井さんもまた、見せられる範囲だけを私に見せるつもりなんだ。
「気にしないで」は、これ以上は聞かないでってことだ。追及は出来ない。
「ユイちゃん、あのね……私の方から愛海を避け出したの。それはね、愛海のことが嫌になったとかじゃなくてね、なんて言うのかな、私は、愛海に嫉妬したの。嫉妬して、どうすればいいのか分からなくなって、避けた」
歩き出した鯨井さんのスピードに合わせて、私も歩き出す。一度振り返って、街灯の下に落ちた蛾の死骸を見た。小さくて、黒い物体でしかなかった。
「……イカロスの翼かよ」
その呟きとその存在に鯨井さんが気づくことは、なかった。
「愛海のおかげで学校生活も楽しかったのに、酷いよね、私。嫉妬なんかして、傷つけて……ほんの少しの間、気持ちの整理をするために離れたつもりだったのに、気づいたら、随分遠いところに愛海が居た」
「喧嘩した、とかじゃなかったんだね」
「うん、喧嘩なんてしたことなかったよ」
だったら、尚更、鯨井さんの後悔は深いだろう。
「でも、そんなの言い訳でしかないよね。怖がって関係を修復出来なかった私が悪い」
「……白石の方は、どうして鯨井さんに話しかけたりしなかったんだろう」
私の知っている白石愛海なら、 " そのまま " にしないと思う。
「初めの頃は話しかけようとしてくれてたよ。次第にそれもなくなっていって……愛海は、私なんかに執着したりしないだろうし、私が傍に居た時も、色んな人と話をしてた。みんなの人気者だったから」
白石は誰とでも仲良くなれる人だけれど、誰でもいいからと人を傍には置かない人だと思う。いつも自分の席から教室内を眺めていてたから、私はそれを知っている。白石の、大切な人達に対しての愛情は、他の人とはまた別物だった。
鯨井さんは、近くに居過ぎてそれに気づいていない。これを言ってしまうと、彼女の後悔がより深くなってしまうだろう。
「鯨井さんの言う嫉妬って、白石が、その……人気者だったっていうこと?」
嫉妬の種類もたくさんある。その中でも一番分かりやすく、一番白石に当てはまりそうなものが、 " 人気者 " だった。
ただ少し、その嫉妬には違和感がある。
鯨井さんはそうゆう類のものに、あまり関心がなさそうに見えるから、白石の人気に対して羨ましいなんて感情が芽生えるのだろうか?
「……それは、違う、かな。愛海が人気者なのは、逆に誇らしかったの。私の親友はすごいんだぞ! って感じで。自慢だった。自慢の親友だったの」
「だったら……」
だったらーー、
他にどんな嫉妬がある?
「気になるよね? 愛海の何に嫉妬したのか」
立ち止まって鯨井さんは、ある家の二階の窓を見ながら言った。
その家の表札には [ 白石 ]と書かれていた。
二階の窓はカーテンが閉められている。白石の家の向かいには、[ 鯨井 ] と書かれた表札のある家があった。
「鯨井さんは白石愛海の何に嫉妬したの? 教えて。私には、分からない」
門扉に手を掛けた鯨井さんに、声を掛ける。「だったら」の先を、口走った。鯨井さんは門扉から手を離し、また向かいの家の二階の窓を見る。
ーーそこが、白石の部屋なんだね。
「ユイちゃん、私ね、好きな人がいたの。その人がね、愛海のことを好きだって気づいたの。それがどうしようもなく、嫌だった。大好きな親友に好きな人を取られちゃうって思った。……笑えるよね、本当に馬鹿みたいな理由で、愛海から離れた」
悲しそうな顔が、言葉を詰まらせた。何も出てこない。掛ける言葉も見つからないから、声が出るはずもなかった。
過去を思い返して、鯨井さんの後悔の色が濃くなっていっている。目を逸らしたいはずの白石の部屋を、しっかりと見て、そうやって自分を責めている。
何故か、白石の部屋を見ている鯨井さんを、私は見ている。
違う。私は鯨井さんを客観的に見る立場ではない。なのに、何で私はここから鯨井さんを見ているんだろう? 私は……私も、鯨井さんの隣に立って、そこを見なきゃいけない側なのに、何故、この足は動かない。
せめて言葉だけはーー、
「私、思うんだけど、罪悪感と後悔には時効がないんだよ。ずっと、そのまま仕舞っておいたら、死ぬまで自分を許せない。エゴかもしれない、自己満足かもしれない、でも、声に出して白石に伝えなきゃ、ずっと、ずっと、ずーっとそいつは、心に居るんだよ! 蝕んでくの。あなたを一生!」
白石の家と鯨井さんの間に立った。鯨井さんの視界に私だけを入れた。鯨井さんに向けた言葉は、また自分に跳ね返って来る。鯨井さんにだけ響けばいいのに、私の言葉が私自身の背中を押す。
「誰にも言ってないし、全部終わるまで誰にも言うつもりなかったんだけど、鯨井さんだから、言うね。私、ずっと、白石に罪悪感があった。後悔もある。どうにかしたいの! この、やりきれない思いを。私も伝えなきゃいけない、白石愛海に、ちゃんと自分の気持ちを。私なんかがそう思うんだから、鯨井さんはもっとあるはずたよ、白石に言わなきゃいけないことが!」
二人だけの世界に居るみたいだった。互いの息遣いしか聞こえない。はっ、と短く息を吐いたと思えば、鯨井さんの頬に一筋の涙が伝った。私も泣きたくなった。
泣かない代わりに、鯨井さんを抱きしめた。
「……もう、最悪。一日に二度も人前で泣くなんて」
「……ごめんね」
ごめんね、一緒に泣けなくて。ごめんね、感情的になって。
「ユイちゃん、私、決めた」
「うん」
「だから、ちょっと待ってて」
「……うん、分かった。待ってる」
私は聞かない。鯨井さんも聞かない。いずれ全てを打ち明ける時が来ると、私達は分かっている。
温もりが、離れる。その目はまたあの窓を見つめていた。
何かを決意した人間は、強い光を放っていた。
バチッと、音が鳴った。
私は、絶対に堕ちないと決めた。




