相対II
赤と紫が混じり合う空。紫の方が強い。夜が近い。顔は正面を向いているのに、気持ちが下へ、下へと沈んでいっている感じがする。綺麗な顔に、暗い影がかかる。
鯨井さんに引っ張られるように、こっちの気持ちまで下を向きそうになる。
綱渡りしているみたいだ。
一歩踏み外せば戻ってこれないところに、私は立ってしまっていた。そこは、下を見てしまったら足がすくんで動けなくなってしまうほど、高所で危険なところだ。でも、そこに立っていることにすら後悔はなかった。
溺れていると円から遠回しに指摘されたが、それを私自身が認めたことは、一度もない。
あの日から、溺れてたまるかと踏ん張った。自分が他人という存在に影響されているなんて、認めたくなかった。なのに、溺れてたまるかと、そんな風に思った時点で溺れかけていたことに、薄々気づいていたことに、私は気づいてしまったのだ。
誰かの手のひらの上で踊らされいるみたいで、嫌だった。
不快だった。たかが同級生一人のために振り回されていることが。嫌なくせに、どうでもいいと割り切れずに抱え込んでいる自分が。
「鯨井さん、白石愛海の自殺の理由を知ってる?」
鋭利な言葉が飛び出す。
このままそれが鯨井さんに真っ直ぐ刺さったまま、引き抜けなくなればいいのに。深く刺され。そうすれば、鯨井さんも忘れたフリが出来なくなる。
横風が吹き、不安定な感情と足元がぐらつく。耐えるか、落ちるか。二つに一つ。
真正面に鯨井さんが居る。死なば諸共、なんて今の時代には使うことのない物騒な言葉が頭に浮かび、そして、冷静に思う。自分はこんな人間っぽい人間じゃなかったのに、と。
それもこれも全部、白石愛海のせいだ。
私の中から出て行けと思うのに、思い出すのは、やはり笑顔の彼女で、消えてくれやしない。
「……知らないよ。……愛海が自殺したって知ったのも親づてだったくらいだから……」
そんな気はしていた。白石愛海と話すことのない生活を、何年も続けていただろうから。
そんな彼女が思い出す白石愛海も、私と同じように眩しい笑顔の彼女なのだろうか? もし、そうだとしたら……。
「親友、だったんだよね? どういう経緯で二人の間に距離が出来たのか知らないけど、白石愛海は亡くなった。……どうしてそうなったのか、知りたくはない?」
「……」
この沈黙を、肯定と受け取る。
「……ごめん、愚問だったね。知りたくないわけないよね。本当は、知りたくてたまらないよね?」
世の中には、誰かに気づいてもらえていたら消えなかった命が星の数ほどあったはずだ。だから、せめて、今度こそは目の前にいる、この女の子だけは絶対に失わないように、見逃さないように、気づいてあげられるように、その一挙一動に目を光らせた。
記憶の中で、とびきりの笑顔を見せていた白石愛海の表情が変わる。眉をハの字に下げ、寂しそうに笑っている。
一度だけ、私はその表情を見たことがある。
胸が痛い。鯨井さんに向けた言葉が、見事に自分に跳ね返って来た。心の深い場所に刺さって抜けない。無理に引き抜けば、全てが溢れ出してーー死ぬのだろう。
私も、誰かに助けてほしい。苦しい。息が出来ない。
色んな感情が大きな波となって押し寄せてくる。それに呑まれて、溺れて、必死に足掻いて、馬鹿みたいに上へ上へと手を伸ばす。それは、夜空に輝く星を掴むような、そんな途方もない絵空事のような願いなのかもしれないのに。
惨めで、情けなくなって、なのに泣けなくて、とにかく今は水面に顔を出すことだけを考えて夢中で動いている。
ねえ、鯨井さんも、そうなの?
「……どうしてユイちゃんが愛海のこと調べてるの? 愛海とそんなに仲が良かったの? そんな風には、見えないけど」
「うん、ぶっちゃけそんなに仲良くなかったよ」
「だったら、どうして愛海のこと調べてるの? ただの好奇心?」
「違うよ。そんな理由で私は動かない。そんな理由で他人を探る人間は大っ嫌いだし」
「……だったら、どうしてよ……。お願いだから、愛海のこと思い出させないで……もう、忘れさせてよ……!」
「私もそうしたかった。……なのに、こびりついて離れないんだよね、白石愛海っていう人間が。引き離すには、ちゃんと知らなきゃ駄目なんだって、気づいたの」
どんな感情で引き出された表情なのか分からぬまま、記憶の中の彼女の真似をして、眉を八の字に下げてみた。
鯨井さんの両手に遠慮気味に触れてみる。出来るだけ優しく握りしめる。自分自身を諭すように。
「私だって知りたいよ! そんなの! ……でも、今更……怖いの……。今更どうやって愛海のことを想えばいいのか、分からなくて……ねえ、ユイちゃん……私、どうすればいいのかなあ? どうすれば、もう……遅いかなあ……」
目が潤んで、声が、すがり付いてくる。そのままにしていたら、崩れてしまう。触れても、崩れてしまう。
目の前に居るのは、まるで、 " 私 " そのものだった。
だったら……。
両手を離し、震えながらそれを広げ、優しく、でも絶対離さないと強く、溺れてしまいそうになっているもうひとりの " 私 " を抱きしめた。
山本の時には出来なかったことが、今の私なら出来る。
恐る恐るといった感じで私の背中に両手をまわし、腕の中で震えている鯨井さんを、絶対に助けたいと思った。助けたいなんて、とても上から言える立場じゃないのに、そう思った。あわよくば、自分も一緒に救ってほしいという欲が顔を出した。
ぐっちゃぐちゃの感情をかき集めて、その全部を抱きしめた。
結局、自分を救えるのは自分だけなんだと気づき、抱きしめる腕に力が入る。耳元で鼻をすする音が聞こえた。顔を見る必要はなかった。
「私が山本とつるんでるのは、白石の自殺の原因を調べてるからだよ。だから、仲が良いっていうのはちょっと違う。友達っていうよりも、同志って言った方があってる」
上下に頭を振り、頷く鯨井さん。溜め込んでいた本音が、涙となってポロポロと溢れ出す。抱きしめているからその顔は見えないけれど、泣き顔も綺麗なんだと思う。こんな時にそんなことを思う私は、まともじゃないのかもしれない。それでいいと思うのだから、やっぱり私はまともじゃないのだろう。
他人を抱きしめるのは初めてで、抱きしめるタイミングさえ合っていたのか分からない。だから、どうこの両腕の力を緩めればいいのかも、分からない。
どのくらい時間が経ったのかも分からなかった。街灯の灯りが点き始めて、夜が来たことを知った。
こちらに来いと言わんばかりに等間隔に光が灯り、道を照らす。
「鯨井さん、お願い。私が出会う前の、あなたが知っている白石愛海のことを、教えて。どんなことでも構わない。誰よりも、あなたが白石に近い人だっただろうから」
「……昔のことなんて、何の役にも立たないかもしれないよ?」
「役に立たないことなんてないよ。私の知らない白石愛海を知れることに、意味があるから」
抱きしめあったまま会話が続く。
「分かった。……その代わりに、ユイちゃんの知ってる愛海のことを教えて。私が側に居なかった時の愛海のことを」
「えっ! いやー……それはちょっとご期待に沿えないと言いますか……。さっきも言った通り、白石とはそんなに仲良くなかったから、鯨井さんの知りたいことは何一つ私も知らないと思うんだよね……」
抱き締めていた腕をほどき、ごめんと謝った。
涙を拭いながら、どんなことでもいいと鯨井さんは言う。ただのクラスメイト視点から見た白石のことでいい、それだけで充分だ、と。
私とは比べ物にならない綺麗な想いに応えきれず、その場を曖昧に笑って誤魔化した。
胸が軋んだ。
より深く刺さったことに気づかないフリをして、息を深く吸った。そんな、嘘ばかりを塗り重ねて行く自分に、嫌気が差したのはこれで何度目だろう?
変わった部分もある。だけど、根っこの部分は、何一つ変わっていない。
「私、こういう日が来るのを待ってたのかもしれない。愛海のことをはっきり聞いてきたの、ユイちゃんだけだよ。親だって、私に気を遣って何も聞いてこなかったんだから」
右手を握り締められた。離れるのを惜しむような握り方。
「忘れたかったけど、忘れたくなかった。だから、ありがとう。楽な方に流れて行けないようにしてくれて……ありがとう」
可笑しな光景だ。精神的に追い詰めてきた人間に感謝するなんて、彼女もまともじゃない。罵ることをしないなんて、山本と同様に優しい人。
もし、私達二人の白石愛海への想いを天秤にかけたなら、間違いなく私の方が沈む。これはどちらが白石愛海のことを想っているとか、そんな簡単なものを比較した結果じゃない。
同志が増えることは心強くて、嬉しい、と同時に、重荷になった。口では同志だと都合よく言うが、志が同じだとは言い切れない後ろめたさがあった。
同じ重さでぴったりと釣り合うことはないから、右手を握り返すことは出来ない。自分から抱きしめることは出来ても、相手からそれをされるのは違う。
握り返すことも、突き放すことも出来ずに、ただ鯨井さんの方から手を離してくれるのを待つしかなかった。
夜が来て、影が消えた。目を閉じてみても、そこにはもう彼女の姿はなかった。私に怒っているのかもしれない。だけど、それは私も同じだ。お互い様なのだ。
「鯨井さん、帰ろう。家まで送るよ」
「大丈夫だよ、一人で帰れるから」
「ううん、送らせてほしい。家に着くまで白石のこと話して」
「……分かった。お言葉に甘えて送ってもらおうかな」
やっと解放された手が力なくだらりと垂れる。街灯の灯りが眩しい。隣を歩くのは気が引けたが、後ろを歩いていたら迷子になってしまいそうだった。だから、離れられなくなった。
今、一番強い光を発しているのは、鯨井さんだ。隣にいれば、迷子にはならないと、そう信じている。
「鯨井さんと白石は、いつからの仲なの?」
「小学生の頃からだよ。家が近いから愛海のことは知ってたけど、幼稚園が違ったから友達になったのは小学生になってからだったの」
「そうなんだ。初めて声を掛けたのはどっちだった?」
「聞かなくても分かるくせに」
ひねくれた言葉なのに、言葉とは裏腹に嬉しそうな顔をする。丁度灯りの真下を通り、重なり、輝きが増した。
映画のワンシーンみたいで、目が離せなくなった。
鯨井さんがヒロインならば私はカメラマンで、今だけは誰よりも近くでその瞬間を捉えることが許される肩書きを得た、特別な人間になれた気がした。
それでも、まだ、何かが足りない。
「ユイちゃんはどうだったの? どっちから声を掛けた?」
「……白石愛海の方から」
「やっぱりね。愛海はそうだよね。だから愛海なんだよね」
自分のことのように誇らしげに話す。意味不明な結論を出し、ひとり納得する姿に、幼さを見た。
肌寒い風が吹いた。
足りないものが何なのか分かった。似ているが、似ていない。光り方がまるで違う。
私は知っている。この世で一番強く発光する存在を。
「ユイちゃん? どうしたの? そんな顔して」
「そんな顔って……。いや、何か意外でさ。こんな風に鯨井さんが白石のことすんなり話してくれるとは思ってなかったから、驚いて」
「……タガが外れたのかも。今まで他に話せる人が居なかったから。それに、ユイちゃんは愛海とそこまで仲良かったわけじゃないって言ってたから、それが逆に話しやすいみたい」
他人だから話せること、ってことなんだろうけど、何か、嫌だな。
「鯨井さんはさ、白石愛海のこと本当に好きなんだね。好きなくせに、離れた。……どうして?」
私のひねくれた言葉は、受け取り方を変換されることなく、そのまま鯨井さんに届くだろう。
怒りに任せた言葉だったが、それでいい。
「……私の方から離れたと思う?」
一瞬で空気が変わった。
表情がなくなった顔からは何も読み取れない。初対面の時の、あの感じを思い出した。温度が下がって、目には見えない薄氷が足元に広がってくる。あの時と違うのは、私が鯨井さんに対して分かりやすく怒りの感情を向けてしまっていることだけだ。
「違うの?」
「愛海の性格からして、他人を避けたりしないって思ってる? そんなことする子じゃないって」
何も言い返せなかった。図星だったから。私の知っている白石愛海は " そんな人間 " じゃない。イメージでも理想でもない。誰にでも平等で親切だったと、同じ教室で過ごしてきたクラスメイト視点から断言出来る。それだけは、確かだった。
もしも、白石の方から離れたと言うなら、それは、私の知らない白石愛海で、もしかしたら、それが本当の白石愛海なのかもしれないーーということになってしまう。
それを認めてしまうくらいなら、自分が溺れていると認めてしまうことの方が、ずっっと楽だった。
どうして振り回されなきゃならない。どうしてこんなにも悩まなきゃならない。
勝手に消えた人間に、勝手に終わらせようとする人間、そして、納得出来ずに掘り返す人間が居る。誰も彼も、自分勝手すぎる。
その中でも自分が一番、滅茶苦茶だと分かっている。
「私の知ってる白石愛海は、親友を絶対に避けたりするような子じゃない」
断言する。足元に亀裂が入っても気にならない。崩れ落ちてしまう前に、鯨井さんの元に駆け寄ってしまえばいい。
「ただのクラスメイトが、そこまではっきり言う?」
「うん、だって、それが白石だから」
「愛海だからって、それは根拠にならないよ」
「なるよ。さっき鯨井さんが言っていたことと同じだよ。 " 白石愛海だから " それ以上の根拠は要らない!」
滅茶苦茶だ。滅茶苦茶なことを、理路整然と話した。
白石愛海の親友だったというのなら、彼女には、私の言っていることが理解出来るはずだ。
" 白石愛海だから " それだけで、充分。
それだけで、成立してしまう。
それが、私達の世界だから。




