浮生
お泊まり会最終日、あろうことか寝坊してしまった。横を見ればきちんと畳まれた布団が二組仲良さげに並んでいて、それを見てからしばらくの間動けなくなった。やってしまった感が寝起きの無防備な脳を攻撃してくる。ああ、頭が痛い。
暗い空気をまとった人間には似つかわしくない、清々しい太陽光が当たる部屋の中で寝坊したことへの言い訳と、これから絡みに来るであろう梓と、悪ノリしてくる円の対処法を考えてみたが駄目だ、脳が寝ぼけていて使い物にならない。
考えるのも面倒になって諦めモード全開で立ち上がり、三組目の布団を並べて部屋を出た。部屋同様に太陽光を存分に浴びた廊下はサンルーム状態になっていたからとにかく熱くて、暑くて、出来るだけ早足に歩き居間に向かった。
だけどそこには誰も居なくてポツンと一人たたずんでいると、ふと、昔見た男の子が一人ぼっちで家に残される有名な映画のことを思い出してしまった。その男の子のようにみんな消えてほしいなんて思ったことはないから、この状況に喜べるはずもなくただ、心細くなるだけだった。
まともに機能しているのはたぶん聴覚だけで、今はそれに頼るしかない。物音と声、どちらでもいいから拾えるように耳を澄ます。
セミ、セミ、セミ。流石家の周りが木に囲まれているだけあって、セミの鳴き声が凄まじい。耳を澄ますと一層力強い声に聞こえてくるし、一方が鳴きやんだと思えばすかさずもう一方が鳴き出し、それが途切れる瞬間がない。何だこの団結力は。
それでもなんとか小さな声を拾うことが出来て、その声を追って足を進めた。
「おっ! ユイが来たっ! ユイー、おそよー!」
「お、おそよー」
おそよーとは、朝遅くに来たことに[ 遅い ]の意味を込めた挨拶で、三人の間では日常的に使う造語だ。基本的にこれをよく言われるのは意外にも円で、私は言われ慣れていない。だから返事がぎこちない。
「何してるの?」
庭に梓と円だけでなく、おばあさんとおじいさんも居る。四人の背後にあるのはーー竹? それと地面にはナタと金槌。
「あっ! もしかして、流しそうめん?」
「あったりー! ユイが遅いから朝昼ご飯一緒にしようってことになって、今作ってたとこー! もうちょっとで完成するよ!」
細い竹で作った支柱もあって、後はもう固定するだけの状態まで出来上がっている。朝ご飯を食べていないうえに私がぐーすか寝ている間、四人で作ってくれていたのかと思うと凄く、申し訳ない。
急いでサンダルを履き庭に出て、私に出来ることがあるか聞く。何もしないままそうめんを頂くことは出来ない。申し訳ないということ以外に、ここに来て知ってしまったから。自分達で作るご飯の美味しさというやつを。
おじいさんに教わりながら竹を固定していく。試しに水を流してみると修正箇所が何ヵ所か見つかった。当然のことながら、ただ組み立てればいいという訳ではないらしい。
水を流して微調整して、それを何度か繰り返し手作り流しそうめんが出来上がった。最後の方しか手伝えていないが、それでも何もしないよりはマシだ。
「あのー、寝坊してしまってすみませんでした。朝ご飯も私に合わせて食べていないんですよね?」
「いいのよ、そんなこと気にしないで。みんなで作るの楽しかったわ。ねえ、おじいさん?」
梓が小さい頃は毎年おじいさんが流しそうめんを作ることが恒例になっていが、もう何年もそれをしていなかったから、久しぶりで腕が鳴ったとおじいさんは嬉しそうに話してくれた。そう言ってもらえると、胸が軽くなる。
「でも遅れた罰として、ユイは一番最初にそうめんを流す役だからね?」
「喜んでその役やらせてもらいます。おばあさんもおじいさんもお箸とお皿持って下さい」
おばあさんとおじいさんの背を押し流しそうめんの前に立たせ、私はそうめんの入ったボウルを抱えスタート地点に立つ。ここからだとみんなのワクワク顔が見れて面白い。案外特等席なのかもしれない。
ウォータージャグを使って水を流し、そうめんをそっと水につける。しっかりセッティングした甲斐があって、止まることなくそうめんは流れてくれる。
やっぱり一番にそうめんを取ったのは梓だった。遠慮なしの清々しい取り方に拍手を送りたくなるほどだが、手を止めることなく第二弾を流す。
「美味しいっ!」、「最高っ!」と明るい声が飛び交い、そこに私の声も加わる。さっきまでの暗い空気は何処かに消えてしまっていた。簡単に浮き沈みする自分の感情に呆れながら、いとも簡単に引っ張り上げてくれる存在がすぐ近くにいることが誇らしく思えた。
「油絵を描いてみて、どうだった?」
流す役を交替し、一人アウトドアチェアに座ってそうめんを食べていると、隣のチェアに腰掛けたおじいさんが、まだ流しそうめんを楽しんでいる三人を見ながらそんなことを言ってきた。
二人きりで話すのは、これが初めてのことだった。
「楽しかったです、凄く。でも、描き始めるまでに色々悩んじゃって、自分には向いてないなって思いました」
自分で描いた絵を思い出す。特に技術も技法も要らないものが被写体だったにもかかわらず、完成した絵はおじいさんが描いた絵には程遠い不恰好なもので、自分で自分にがっかりしたっけな。それでも、楽しかったことには変わりなかった。
「梓はまだ記憶に新しい物を、円ちゃんは目の前にあった物を描いていたのが見てすぐに分かったが、ユイちゃんはどうしてあれを選んで描いたんだい?」
どうしてって……。
「何となく、です。簡単そうだし、簡単な割に色鮮やかに見えるし、だから、描きました」
わざと大きな音を立ててそうめんをすする。おじいさんには、円みたいに追及してきてほしくなかった。良い思い出だけを作って帰りたい。だから、これは悪い嘘じゃないはずだと自分に言い聞かす。
「そうか……」
私の願いが届いたのかおじいさんは油絵の話を止めて、腰を上げ梓達の所へ戻って行く。遠ざかる後ろ姿に謝罪しながら太腿に飛び散った麺つゆを親指で拭う。
そして、本心を話せないまま別れの時が来た。
「また遊びに来てね。いつでも大歓迎よ」
「またおいで」
おばあさん達の言葉に、何故かこの中で一番多く会える機会を持っているはずの梓が泣きそうになっていた。「えー、何であんたが泣きそうなのよ」と円が言えば、ついに梓の涙腺が崩壊し、面倒なことに私に泣きついて来る。泣きつく相手を間違えている気がするが、黙って受け止めておく。
「四日間ありがとうございました。本当に楽しかったです。もしご迷惑じゃなければ、来年もまた遊びに来てもいいですか?」
「もちろんよ。遠慮しないでまた遊びに来てちょうだい」
グダグダになったところを円が綺麗にまとめる。
本当にこれでお別れなんだ。
私は円のように気の利いた言葉がすらすらと出てこない。考えれば考える程言葉に詰まる。「お世話になりました。ありがとうございました」、このテンプレ以外思い浮かばない。伝えたいことはあるのに、まとめられない。円を羨んでも、仕方ない。
結局、最後に「ありがとうございました」としか言えなかった。
おばあさん達の家を後にする。
帰りは横一列に並んで帰った。
電車に乗り込んでから、あれが良かった、またやりたいと二人の楽しそうな会話に適当に相槌を打ちながら、窓の外を眺め続けた。段々と増えてくる建物に、隣から聞こえる「楽しかった」という感想。おばあさん達がもう思い出になってしまうことが、悲しかった。
私は、記憶をアップデートすることが苦手だ。
地元の駅に着いたのは午後四時頃のことだった。
「じゃっ、お疲れ様! また後で連絡するね!」
おばあさん達と別れる時はあんなに悲しそうだったくせに、私達との別れはどうってことないってことなのか、梓はそれだけ言ってとっとと去って行った。残された者同士目を合わせ、苦笑いする。
「円はこのまま帰るの?」
「うん、もうクタクタだしねぇ。帰って寝る。ユイもそうでしょ?」
「私は……これから萌香と会う約束してるから」
「まじか。昨日の今日でもう会う約束してんの? フットワーク軽っ」
「まあ、そうゆーことだから行くね。またね、円」
「いってら。報告待ってる」
同時に片手を軽く上げ、手を振る。小さな声で「頑張れ」と激励してくれた円に力強く頷き、私の方から先に背を向け歩き出す。ボストンバックが思った以上に人とすれ違う時に邪魔になったから、帰宅ラッシュに巻き込まれる時間帯じゃなくて良かった。
萌香が指定したのはビルの地下一階にある珈琲店。きっと人目を避けるためにここを選んでくれたんだな、と地下へ続く階段を下りながら萌香の配慮に感謝する。
木製の重たい扉を開けると上部に付いているドアベルがカランカランと鳴り、店員さんの視線を集める。「いらっしゃいませ」と落ち着いた声に迎えられ、控えめに頭を下げる。こういう場所には慣れていない。
待ち合わせをしていると告げれば、店員さんが通路の端に寄り頭を下げるものだから、私もまた控えめに頭を下げた。落ち着きすぎている雰囲気が、落ち着かない。萌香と会ったところで、この雰囲気から解放はされないだろう。
だって、私達はただのクラスメイトでしかないのだから。
店内を見渡すと席に着いているのは二人しか居なかった。どちらも私に背を向ける形でソファー席に座っていて、頭しか見えない。
「ごめん、待った?」
けれどもそのソファーからのぞく頭だけで萌香だと断定出来た方に背後から声を掛ける。学校の時と変わらないポニーテール姿と白色のシュシュのお陰で、一目で分かった。
私の声に反応し萌香がゆっくりと振り返る素振りを見せるが、完全には振り返らなかった。前髪が目にかかり、表情が読めない。
「……遅い」
低い声で責められる。でも言い返せない。私が遅れたことが原因で怒っているわけじゃなさそうだった。そこに触れていいのか判断しかねるので、ごめんと素直に謝り向いのソファーに腰掛け、見えなかった顔をそっと盗み見ることにする。
……見なきゃ良かったと後悔した。
こういう時どう切り出すのが正解なのかと席に着いてから考え続けていたせいで、遅れたことへの謝罪から一言も声を発していない。
落ち着かない。気まずい。
助け舟は店員が注文を聞きに来てくれたことだった。
萌香と同じアイスコーヒーを頼み、また沈黙。重苦しい空気を全身で感じる。話すのはアイスコーヒーが来てからの方がいい気がする。
顔を見るのは気まずくて、萌香の目の前にあるアイスコーヒーを必然的に見る。グラスの下に置かれたコースターが随分と水分を含んでいるようで、深く、濃い色に変わっている。
一体いつから此処で私のことを待っていたのだろうか?
アイスコーヒーが運ばれてくると、いよいよ逃げ場がなくなった。時間稼ぎにしてはあまりにも短すぎた。もっと手の掛かる物を注文すれば良かったと悔やんでも、後の祭りだ。アフォガートの時もそうだった。学習しないな、私は。
とりあえず、アイスコーヒーを一口飲み舌が回るようにする。噛んだら更に気まずくなってしまう。もう助け舟は来ないのだから、しっかりしなければ。
「会うの、久しぶりだね」
第一声、またテンプレ。
「……そだね。ユイちょっと焼けた?」
こちらもテンプレっぽい。夏お馴染みのテンプレ。
「あー、焼けたかも。三泊四日で梓のおばあさんの家に泊まりに行ってて、外にいる時間が長かったから」
「ああ、だからそんなに大荷物なんだ」
萌香がボストンバックを見ながら言う。
「家出でもしたのかと思った」
「まさか、んなわけないじゃん」
的外れなことを真顔で言い、萌香は顔を伏せる。萌香のその行動は、落ち着かないとか緊張から来るものじゃない。私とは違う感覚で彼女は今、此処に座っている。
遅いと言った時もそうだった。一見文句を言っているように聞こえたが、不機嫌とは言い難い空気が萌香を覆っていた。
怒っていると言うよりは、悲しんでいる。
声だけでは判断し辛かったが、その顔を見れば一目瞭然。目を真っ赤に腫らした萌香が、いる。
悲しいというワードから連想されるのは間違いなく白石愛海のことで、だから、今日萌香が話してくれることは絶対に大切なことなんだと思った。
萌香の方からコンタクトがあったことで、薄々そんな気はしていた。白石愛海のことで、何かあったということが。
萌香と山本の姿が重なる。あの日の夜のように、痛みを味わわなければならないのだろう。
触れてもいいだろうか? 萌香の痛みに。
「目、真っ赤だよ。大丈夫?」
「……ん"……大丈夫」
ペーパーナプキンで目尻からこぼれ落ちそうな涙を受け止める。私はそれを見ていることしか出来ない。
痛みはみんな違う。山本には山本の痛みがあって、萌香には萌香の痛みがある。私には理解出来ないし、簡単に解ったなんて言えない。解らないから、解ろうとすることが大切なんだ。
「白石のことで何か分かったんだよね?」
だから、触れさせてほしい。
「……ゔん。だからユイに連絡した」
「ありがとう。連絡してくれて」
A4サイズがすっぽり入るトートバッグから一通の手紙を取り出しそれをテーブルの上に置くと、萌香は真っ赤な目で私を見る。
「これ、愛海が私宛に書いた手紙……ううん、遺書って言った方がいいかもしれない」
「……えっ、遺書って……」
聞き間違いかもしれない。白石に限ってそんなこと、まさか、ありえない。
だって、彼女はそんな人間じゃない!
「自殺だったの! 愛海は、自殺したの! 自分で! 愛海は……」
涙が溢れ出す。私じゃない。目の前に座る同級生の目からとめどなく涙が流れ落ちる。
私は信じきれなくて、信じたくなくて、両手を膝の上でぎゅっと力一杯握りしめていた。
何かが、壊れる音がした。




