夏の日Ⅳ
夏と言えども、早朝は肌寒い。
そのことを忘れていて半袖しか持ってきていなかったことが悔やまれる。太陽はとっくに顔を出しているが、ここにはまだその光が届いていない。山が立ち塞がり、町は朝日を浴びる時を今か今かと待ち望んでいる。
ふぁぁぁ、と我慢出来なかった欠伸がだらしなく開いた口から漏れた。太陽の日を浴びないことには、身体も本調子にはなれないらしい。脳も身体も寝ぼけた状態で、それでも出来るだけ丁寧に、おばあさんの畑の野菜の収穫を手伝った。
ナスにトマトにオクラ、そしてきゅうり。どれもみずみずしいのが食べてみなくても分かる。調理しなくても、生でも絶対に美味しいやつだ。
「お腹、すいた」
お腹が無遠慮に鳴く。
「すいたねぇ。今すぐかじりつきたい……」
きゅうりを見つめながらそう言った円の目はうつろだった。今すぐ食べたいという野生動物のような素直な欲求を何とか耐え、辛うじて人間でいられている。
日の当たる範囲が増えてきてお陰か、目が冴えてきた。ぼんやりと見えていたおばあさんの後ろ姿が、はっきり目に映り、実感する。
明日ここを発つということを。
名残惜しい。まだここに居るのに、寂しいと思い始めている自分がいる。
指先の体温は奪われ、土が爪に入り込む。普段なら顔をしかめてしまうであろう畑仕事さえ貴重で、バイトとは違う労働の汗をかくことは気持ちいいと感じていたし、土の香り自体は不快じゃなかった。自分達で収穫した野菜が朝食に並ぶこと、そんな些細なことが嬉しかった。
この二日間で、苛々が少しだけ浄化されたのかもしれない。
私が寂しいと思うようにおばあさんも寂しいと思ってくれているのか、今日は畑仕事を私達にも手伝ってほしいと言ってきたし、よく話しかけてきてくれた。畑仕事は話をするための口実だったんじゃないかな、と思った。おじいさんも無口ではあるが、一緒に居る時間が長かった気がするし。
五人での会話が増え、時折冗談も混じる。笑い声が絶えず、家の中が無音になることなんてなかった。「にぎやかだ」と三日目にして初めておじいさんが笑ってくれたことが何より印象的だった。目を細めて笑った時は驚いたけれど、この空気を壊すまいと驚いた表情は引っ込めて、私も笑い続けた。
私達に気を許してくれたからおじいさんは笑ってくれたんだと、私は自分の都合のいいようにとらえることにした。緊張は薄れ、親近感に似た安心がぽつぽつ気泡となって身体の中心から湧き上がってくる。その中の一つがパチンと弾けた瞬間、何かが私の背を押した。
私の意思ではなかったのかもしれない。けれど、止まらなかった。私はおじいさんに油絵を描かせてほしい、と自分からお願いしたのだ。もし、油絵を描くことがあるのなら梓に話を通してもらおうと思っていたが、いつの間にかそんな図々しい考えは消えていた。
梓じゃなくて、自分でお願いすることが私にとっては重要になっていた。
「後で蔵に来なさい」とそれだけ言って、おじいさんは昼食を終えると蔵の方に歩いて行ってしまう。たぶん、嫌がられてはいないと思う。作業の邪魔、だとも思われていないと思う。笑ってはいなかったけれど、怒ってもいなかった。この三日間で分かったことは、これがおじいさんの「いつも通り」なのだということ。
なんて、不器用な人。
「よかったねぇ、油絵。私もちょっとやってみたかったんだ。これを逃したら一生出来ないと思うし、いい思い出になりそう」
「私も久しぶり描いてみよーっと。一度やったことあるし、円とユイよりは上手いかな!」
「一回だけでしょ? よくそんなに威張れるよね」
「これで私とユイより下手っぴだったら、ウケる」
「ふふんっ、二人に梓画伯の腕前を見せてやろーじゃないか」
後先考えずに自分でレベルを上げるところもまた梓の悪い癖だ。大体こういうことを言うやつは、大したことないっていうオチがある。もしも、私達よりも残念な絵しか描けなかった場合、大袈裟に笑ってやろうと思う。そうでもしないと、このビックマウスは治らない。社会に出る前に治してあげなければ、一応大事な親友だから。
と、そんな風に人の心配ばかりしていられない。認めたくはないが、梓よりも私の方がどう考えたって今の社会に馴染めない人間だ。
ーー何がそんなに気に食わない?
私が私に問う。
答えは、もう、ある。
あるけれど、これまでの不明瞭な感情が私を黙らせる。
今じゃないだろう、と。
私は、漠然と社会に出ることが怖いと思っている。いや、違う、怖いんじゃなくて、抵抗がある。周囲が私を受け入れるかということももちろんだが、私自身が受け入れることが出来るのか、ということに対しての大きな不安が。
私はあのトランスジェンダーの人みたいに、 " 何か " が出来るのだろうか? " 何か " を変えることが出来るのだろうか?
そんな大層なことが出来るような人間ではない。けれど、 " 何か " をしなくてはならない。訳の分からない使命感がある。
離れないのだ。たった一文が。
アミからの返信は未だにない。スマホが震える度に、私は期待してしまう。アミからの返事を。けれど、その期待はいつも呆気なく裏切られる。
アミがどうしてあんなことを私に送ってきたのか、その意図を知りたい。
はじまりはあの日。終着点は、何処にある?
「ユイ、そっちの赤色取って。……ユーイ、聞いてる?」
「あ、ごめん、ぼーっとしてた。はい、赤」
「ありがと」
いけない、いけない。意識が飛んでいた。それもこれも、全部昨晩の円との会話のせいだ。……いや、それはただの言い訳でしかないか……。
向かいに座っている円はいつもとなんら変わりないし、私の心が乱されていることなんて知らずに熱心に手を動かしている。梓もラフ画を夢中で描いている。一人出遅れた私を嘲笑うかのように、背後で風鈴がちりんちりんと連続で音を立てた。
手元に意識を向け、邪念を払う。今は、ラフ画を描くことに集中しよう。せっかくおじいさんが道具を貸してくれたんだ、ちゃんとこの時間を大切にしなければ。
初心者ということと描きあげた絵を持ち帰るということを考慮して、おじいさんが私達に手渡してくれたのは、想像以上に小さくて可愛らしいキャンパスだった。F0というサイズらしい。
それと油絵具、柄の長い筆、使い捨てパレットと用途によって使い分けるオイル類をおじいさんは貸してくれた。
おじいさんは大方油絵の描き方と道具の使い方を説明して、また蔵の方に戻って行ってしまった。私達はというと、自分達が使わせてもらっている部屋でラフ画を描くことから始めた。分からないところがあれば、蔵に居るおじいさんまで聞きに行くスタイルだ。
円だけは始めから何を描くのか決めていたのか、もうラフ画を完成させて、一人次の段階に進んでいる。
一方で私のキャンパスは、真っ白のまま。
描きたいと言い出したのは私なのに、未だに何を描くのか決まっていなかった。二方向から聞こえてくる忙しない音に焦りが生まれる。
やばい、置いてきぼりだ。
焦れば焦るほど何を描けばいいのか分からなくなってしまう。別に競走しているわけでもないが、完成が二人よりも明らかに遅れるのは、嫌だった。
ただの遊びにすぎないのだからそんなに悩む必要はないのに、何でもいいからと適当に選ぶことにはどうしても抵抗がある。だって、それも " 妥協 " でしょう? だったら「目の前にあったから」なんて理由で被写体を決めたりするなんてことは、絶対にしたくない。
保守的な自分とは別離しないと、何も変わらない。
私らしくて、今までの私ではあり得ないものを選択したい。
ここに来てからの景色は? うん、悪くない。でも初心者に風景画は難しくない? キャンパスも小さいし、もっと別の何かを……。
勢いで油絵を描きたいなんて、何でそんなことを言ってしまったのだろうか。後悔はしていないけれど、描く理由がない。そもそも絵を描くのに理由なんてものは要らないのだろうけど、何故か理由付けしなきゃ踏み入れてはいけない、神聖なもののような気がする。
上半身を後ろに倒し、畳に寝転がる。そのまま天井の木目を意味もなく眺め、何かが自分の中に降りてくるのを待った。一見飽きたように見えるが、そんなことはないと分かっているからか、円と梓は何も言ってこない。もしかしたら、二人とも絵を描くことに夢中すぎて、私のことなんてこれっぽっちも見ていないだけなのかもしれないが、どちらにしても私的には都合がいい。
芸術には想像力と創造力が必要で、それが有るか無いかはどれだけ他人の意見に耳を傾けたのかということと、どれだけ自分で行動したかということで決まることだと思う。だから、私にはどちらも持ち得ない人間で、この状況も悔しいけれど、仕方のないことなんだろう。
自分の中の引き出しが空っぽだ。開けてみても埃が舞うだけの虚しい空間が広がるだけだ。これが虚無感なのだろうか? この気持ちを説明する言葉が他に見つからない。
私だけではないはず。だけど、それにとらわれた瞬間は " 私だけ " だと思ってしまう。それもまた、虚しい……。
不安が増幅する。
私も、社会も決して交わらず、ずっと平行線のまま生きていくのだとこれまた虚しい未来の想像をしてしまって、動けなくなる。こういう想像は出来るくせに、芸術には一切役立てることが出来ない。
ああ、虚しいな。
こんな時にどうすればいいのか私はその術を知らず、教えを乞う人もいない。模範解答も、ヒントすら引き出しにはない。これからそこに新しく何かを詰め込めばいいのかもしれないけど、先の見えない未来ではなく、今、どうにかしたい。
あれこれ考えている間に、冷えたサイダーを入れていたグラスの表面に水滴がつき始めていた。寝転がったまま下から見上げるように見たそれは、結露という現象ではなく、梅雨の容赦なく降り続ける雨のように見える。
梅雨。雨。傘。……空。
……そうだ。
何もないのなら、何もないからこそ、あの娘ならどうするかを考えればいいんだ。
ーーあの娘なら、どうする?
私達を繋ぐものは、一つしか思い浮かばなかった。
遅れを取り戻すかのように必死で手を動かし、ラフ画を完成させていく。難しく考える必要はないのだ。だけど、安易に決める必要もない。私が納得出来るものは、一つだけ。それだけは確かだ。
完成する前からきっといい絵が出来上がると、根拠のない自信があって、色を塗り重ねていくうちにそれは現実になっていった。
誰の評価も受けない。
私が納得すれば、それでいいんだ。




