夏の日
怒涛の二週間連続勤務をやり終えた反動からか、熱が出た。夏風邪だ。
お金を稼いだという実感も連続勤務日数更新の達成感も味わう暇もなく寝込む結果となってしまって、ベットの中でなんて間抜けなんだと自分を責めること二日、熱も下がって普段通りの生活に戻った。
つい最近絶対に夏風邪を引かないと決心したばかりだったのにその決心が呆気なく砕かれ、身体よりも精神的にやられた二日間だった気がする。
まさか自分が夏風邪を引くなんて、とそんなことで落ち込んでいる暇はない。私にはやらなければならないことがある。それは、お泊まり会用の荷造りだ。
熱が下がってまず取り掛かったのは夏休みの課題でも夕飯の手伝いでもなく、ボストンバックに着替えを詰め込むことだった。準備は楽しかった。柄にもなくはしゃいでいた。衛藤さんとの会話から勇気をもらった私は、自分が本当に着たいと思う服だけを選んだ。モノクロのシンプルな服達は今回はお留守番だ。
虫がたくさんいると梓から聞いていたから、虫除けスプレーとムヒも準備した。遠足でもないのにお菓子も馬鹿みたいに買い込んだ。メイクポーチには新色のアイシャドウが仲間入りし、今年の夏を鮮やかに彩ってもらう予定だ。
こんなにもワクワクするのは、いつぶりだろうか。
ただ、ワクワクすると同時にまた罪悪感の積み木が不安定に重なってもいった。崩れ落ちても何度も積み直される状態から抜け出せない不安と苛立ちを抱えた私を乗せて、今、電車が現実逃避出来る場所まで運んでくれている。
「楽しみだなあ、梓のおばあちゃん家」
「だね。私、昨日興奮してあんまり眠れなかった」
「子供か。円って意外とそーゆうとこあるよね」
私達が乗った駅から離れるにつれて、周りの席はぽつぽつと空いていった。高いビルがひしめいていた光景は徐々になくなり、田園風景が広がる。確実に都会から田舎に向かっていることが本当に現実逃避しているんだと実感させた。
電車に揺られ続けたことで、苛立ちを何処かに落っことしたみたいだ。邪魔するものが何もない自然な景色に、心が余裕を取り戻す。
「おばあちゃん家、周りに何もないから心のデトックス出来るよ! ストレス社会を生きる私達には、すごくありがたい!」
「梓は田舎に行かなくても毎日デトックス出来てそうだけどねぇ」
デトックスかあ。確かに電車の窓から見た風景だけで息がしやすくなった気がするし、梓の言うそれはあながち間違っていないんだと思う。
ーー束の間の現実逃避なら、白石愛海も許してくれるだろうか?
駅弁を食べて、持ち寄ったお菓子を食べて、くだらない話をして、落っことした感情とは別の感情で満たされた。ここに白石が居れば完璧な世界なのに、それだけはどれだけ願っても叶わない。せめて彼女の代わりにこの景色を目に焼き付けておこうと思った。そう遠くない未来に彼女に会いに行って、これまで何があったのかいっぱい話をしたいからーー。
「ユイ、着いたよー」
電車の揺れとは違う揺れで目が覚める。手加減というものを知らないのか、思いっきり体が前後に揺さぶられた。効果音が付くならぐわんぐわんって奇妙な音で表現されるだろう。気持ち悪いし、痛い。
半ば引きずられるような形で電車を降りた。ここで下車したのは私達だけだった。やっと着いたとほぼ三人同時に両腕を上げ体を伸ばし、空気を目一杯吸い込む。日差しが強くて暑いけれど、不思議と吸い込んだ空気はひんやりとしていた。こういうのを澄んだ空気って言うのだろうか? 私だけもう一度味わうように深呼吸した。
「さっ、此処から歩いて行きますよ」
「まじか。まじで徒歩なのか」
「ほら円、行くよ。梓、案内よろしく」
今度は文句を言う円が引きずられる形で改札を抜けることとなった。改札を抜けると梓がドヤ顔で先陣を切る。見慣れない風景を見ながら梓の後を見失わないように追う。道も広く車も走っていないのに、私達は何故か隣同士に並ぶのではなく縦一列に並んで歩き続けた。
二十分ほど歩き続けたところで後十分もすればおばあちゃんの家に着くと梓が言った。円がゴールが見えたその喜びを片腕を空に向け突き上げて表現するのを見て、私も真似てみた。子供みたいな喜び方が、案外自分に合っていた。
何だか、冒険しているみたい。
駅から徒歩三十分。梓のおばあちゃんの家に着いた。立派な家だと呟けば、円が無言で頷く。私達の目の前に建つ家を見れば誰だってそう思うだろう、と思うくらいに立派だった。木造の平家が歴史を感じさせる。ここだけタイムスリップしたみたい。
だらしなく口を開けて立ち尽くす私と円を余所に、梓は当たり前のように玄関の戸を開けて大声で「ただいまー」と、叫んだ。せめてインターホンを押してから開ければいいのに。というか、玄関が施錠されていないことに驚いた。それだけこの辺りの治安が良いのだろうか?
梓の声が家の中に響いたが、中から反応はない。
「留守なんじゃない?」
「留守なら鍵掛けるでしょ」
とりあえず、荷物を玄関に置かせてもらう。玄関に入っただけでほのかに木の香りがした。すごく落ち着くいい匂いだ。すんすん鼻を鳴らしていると、円から変な目で見られたが止めない。
「おばーちゃーん! たーだーいーまー」
二度目のただいま砲を放って、梓は玄関の段差に腰掛けた。サンダルを脱ぎ、意外にもそれを綺麗に揃えてから家に上がる。どうしようかと悩んだが、梓に「上りな?」と急かされたので同じようにサンダルを揃えてから「お邪魔します」と、まだ見ぬ梓のおばあちゃんに伝わるよう声を張り上げて、一歩を踏み出した。ギシッと床板の独特な音が鳴った。
家主が居ないのに勝手に上がり込んだことへの後ろめたさはあるけれど、こんな時でも私は冒険の延長線上を歩いている気分だった。胸が高鳴り悪いと思いながらも、家の中を見渡すことは止められなかった。太い木の柱と梁に桜柄の障子、どれもこれもなかなかお目にかかれるものではない。
「古民家っぽかったから家の中もあれかなーって思ったけど、すごい綺麗だね」
隣に並んだ円がそっと耳打ちしてくる。
「ね。もっと古いのかと思ってたけど、手入れが行き届いてるんだろうね、全然古めかしくない」
「あっ、見てユイ! 囲炉裏がある! 囲炉裏!」
「やば! 囲炉裏初めて見た。何か感動する」
「あそこで魚焼いて食べたい」
どうやら円も冒険の延長線上にいるようだ。二人して生まれて初めてみる物に、興奮を抑えきれずにいる。魚じゃなくてもあそこで食べればどんな物だって美味しいに決まっていると話が弾んだ。
「梓ちゃん? もう着いたのかい?」
突然の知らない声にピタリと話は止まり、囲炉裏から声のした方に顔を向けると、割烹着を身につけた小柄なおばあさんが立っていた。この人が梓のおばあちゃんか、と瞬時に悟る。
「おばあちゃーん! 久しぶり! 今着いたとこだよ。おばあちゃん裏の畑に行ってたの?」
おばあちゃんに駆け寄り梓は両手を広げた。おばあちゃんも慣れているのか、それに応えるように両手を広げハグを受け入れる。
「梓ちゃんとお友達が来るって言うから、今晩はご馳走にしようと思ってね。野菜の収穫をしてたんだよ」
「やったー! 楽しみー!」と梓のようにははしゃげないから心の中でガッツポーズをした。鼻のてっぺんに土を付けたまま、梓のおばあちゃんがにこりと微笑んだ。喜びが表情に出たのかもしれない。恥ずかしい。
「おばあちゃん、紹介するね。親友の鈴木円ちゃんと「円ちゃんとユイちゃんでしょ?」
梓の紹介に、おばあちゃんが声をかぶせる。私達のことを知っているらしい。おばあちゃんと目が合って、肩に力が入る。
「二人のこと梓ちゃんからよく聞いてるのよ。どっちが円ちゃんでどっちがユイちゃん?」
「私が円です」、「ユイです」と順番に言えば、嬉しそう目を細めて「いらっしゃい」と歓迎の言葉をくれた。
一生忘れられない夏が、始まった。




