思い出
五限目の授業も六限目の授業も、今日は珍しく一度も眠くならなかった。かといって、授業を食い入るように受けていたわけでもない。学生の本分は学業だと分かっていてもまだ二年生だし、という甘えた気持ちが何処かにあって、勉強を中心にした生活なんて今の私には考えられない。
三年生になれば、嫌でも勉強勉強の毎日がやってくるだろうし、目前まで迫った今年の夏休みだって馬鹿みたいに課題を出されることは目に見えている。だから、今はそんなに真剣にならなくてもいいじゃん? って、いい加減な気持ちで席に着いている状態だ。
要は、後数日でやってくる夏休みが待ち遠しくて仕方がないってことで、子供のように浮かれているだけなのだが、それは仕方のないこと。
だって、今年の夏休みは特別なものになるって、もう分かっているから。
そんなことを言うと、楽しい予定がいっぱいあるみたいに聞こえるかもしれないが、決してそんなわけじゃない。もちろん程よく遊んで、程よく勉強もして、バイトでお小遣い稼ぎだってするつもりだが、今年の夏は色々と気持ちの整理をするための時間だって、そんな風に思っている。
放課後、教室の背面黒板に終業式まで後二日、と書かれていた夏休みまでのカウントダウンを楽しそうに後一日と書き直すクラスメイト達の姿を見て、素直に喜べなかったのは、そのせい。これからの長い時間をどうやってやり過ごしていくのか、それが一番難しい課題なのかもしれない。
良い口実になっていた。学校に来れば一人で考える時間が強制的に減るから。学校を好きと思ったことはないけど、そういうものを一旦端に寄せておいても許される気がして、一時的に楽になれる場所でもあって、避難所のような役割を果たしていた。
好きではないと言いながらも、ちゃっかり学校を利用していた。私にとって学校は嫌な感情から逃げる場所で、自分自身を誤魔化すのにうってつけの場所だった。
だから、正直、夏休みが楽しみと思う反面、怖いとも思っている。時間も忘れて没頭出来る何かがあれば、こんなに悩むこともなかったのに……。
出来るだけ毎日何かしら予定を入れてみようとしてみたものの、どれも味気のない内容ばかりで、悪あがきにしかならなかった。
こんなんじゃ、忘れられない。
そもそも、忘れようとすることで、余計に忘れられなくなっていることに気づいてしまった。結局、何処で何をしていても白石愛海が、いる。私の意思では、どうにも出来ない。
これはもう、円に言われたあの言葉の通りになっているのかもしれない。
ーーアフォガート、嫌いになりそうだ。
「あらあら、どうしたの? 暗い顔しちゃって」
清美おばあさんから受け取ったラムネは、キンキンに冷えていた。
「えっ、そんな風に見えます?」
「何か悩み事でもあるの? さっき、ため息もついていたわよ」
「……明後日から夏休みに入るんですけど、課題が多くて、それで……」
あまりにも心配そうな顔で聞いてくるから、嘘をつくのに罪悪感があった。それでも、これはついてもいい嘘だと自分に言い聞かせ、あたかも本当のことのように話す。少し、おどけて見せて、年相応の悩みだと信じ込ませるように。
暗い空気の理由を聞いて清美おばあさんは、何だそんなことか、とほっと息を吐いた。私の言葉をそのまま信じてくれたようで、今はもう、いつもの福の神の笑顔がそこにあった。
「もう夏休みなのねぇ、大変ねぇ、高校生は。勉強も大事だけど、程々にね。はい、これ、サービス」
勉強頑張ってと、手に握らせてくれたのは一口大のチョコだった。
「これね、夏の間はうちの店では取り扱わないのよ。だから、レア物なのよ。みんなには内緒よ?」
人差し指を口元に持っていき内緒だと言う清美おばあさんは、お茶目な人だ。
「そうなんですか、ありがとうごさいます!」
私を見て満足そうに笑うと、清美おばあさんはまた心配そうな顔をして、何故か「よかった」と言った。
意味が分からず、首を傾げる。店の中に他の客が居なかったから、私たちの会話を邪魔する人も居ない。心置きなく、会話が続けられる。
「あの、よかったっていうのは、どういう……」
「いやね、暗い顔して一人で来たから、ほら、あの可愛らしいお嬢さんと喧嘩でもしちゃったのかしらと思って」
私の勘違いだったみたいね、よかった、と清美おばあさんは言った。
「夏休み中はこの道通らないかもしれないけど、気が向いたら遊びに来てね。話し相手になってちょうだい」
清美おばあさんは、もう一つチョコをくれた。
「チョコ、ありがとうございます。夏休みの間にまた来ますね」
楽しみにしてるわ、と笑顔で言った清美おばあさんに、ぎこちない笑顔しか返せなかった。
胸ポケットにチョコを入れて、店を出る。たった二個のチョコ、たった二個なのに、それ以上の重さを感じた。買ったばかりの冷たいラムネを飲んで、体を冷やす。そうすれば、幾分か身軽になった気がした。
自転車に乗ることもせず、ラムネをちびちび飲みながら歩く。夏休みの間に、この道を通る回数も減ることが分かっていたから、景色を楽しむように歩いてみた。
山本と寄った花屋さんの前を通り過ぎて、小さな公園の前を通る。この前通った時は何も植えられていなかった公園の花壇に、いつのまにかひまわりが植えられていた。行儀良く綺麗に並び、同じ方向を見ているひまわりが健気に思えて、思わず立ち止まる。
季節感のなかった道に、夏を代表する花が植えられただけで、こんなにも景色が変わるのかと、不思議な感じがした。
ひまわりの写真を撮ってまた歩き出す。ふと思ったのが、四十九日にひまわりを持っていくのは有りか無しか、という馬鹿らしい疑問だった。
一般常識なんて知らないし、良し悪しの判断が私には分からない。気持ちが大事だと言うくせに、決まり事が多すぎると思う。それが日本人の美徳とされているのは解るけど、だけど、解りたくなんてなかった。綺麗なものは綺麗でいいじゃない、彼岸花を人に送ったっていいじゃない。私は彼岸花を貰っても、嬉しい。でも、世間一般はそれを許してはくれないんだろうな……。
墓地の近くで見かけた人は、菊の花を持っていた。あれが普通かーー。
「死んでから貰う花束って、嬉しい?」
アミが墓地へと続く階段を上がっていく人を見ながら言った台詞だ。私はこの時、すごいことを口にするもんだと驚いた。
「……死んでからも覚えていてくれてるっていう意味では、嬉しいんじゃない?」
「そうかなぁ……。でも、誰だってさ、生きてる時に花束貰った方が嬉しいでしょ?」
「身も蓋もない」
「そうだけど、そうでしょう? 私は生きているうちに花束を貰ってみたいなぁ。普通に生きてたらさ、花束もらうことなんて、なかなかないでしょ? 初めて貰う花束が死んでからなんて、悲しすぎるよ」
「まぁ、そうだね。生きてるうちに貰える方が、嬉しいね」
でしょ! と、アミは笑顔を見せる。
「だから私が死んでも、花束なんて形式に囚われたもの贈らないでね! もっと、別の物にして!」
「別の物って、例えば?」
「それは自分で考えて! あっ、間違っても香典なんか渡してこないでよ。楽しみにしてるからね!」
「縁起でもないこと言わないでよ、ここ墓地の下だし、洒落になんないから」
二人で馬鹿みたいな会話をして、馬鹿みたいに笑い合ったあの日を、随分と昔のことのように感じた。
たぶん、私はこのくだらない会話を一生忘れないと思う。
私とアミの間には、常識なんて関係なかった。
ラムネを飲み干して、自転車に跨る。頬を滑る生暖かい風が気持ちいいと思えた。




