またひとつII
教室に戻ると、すでに帰りのホームルームの前の十五分間清掃が始まっていた。私が戻って来たことを確認するなり、円が私の分の箒を手渡してくれる。なおざりにしてしまったことは怒っていないようで、ただ一言「大丈夫?」と、横から顔をのぞく。何に対しての「大丈夫」なのかわからぬまま、私は「大丈夫」だと答えた。
心配されるような顔をしていたのだろうか? しゃんとしなければ、と現国のおじいちゃん先生の言葉を拝借する。頭の中にある与えられたばかりの課題を、床を掃く要領で一旦端に寄せて、クラスの雰囲気に馴染む。それは案外簡単だった。
昔、テレビで見たことがあるのだが、生徒たちが自ら掃除をする国は世界に三割程度しか存在しないらしい。学校に通い始めてから当たり前のようにしてきたそれが他所の国から見たら当たり前じゃなかったことに、当時小学生だった私は衝撃を受けた。世界の広さも知らないし見たこともないけれど、その三割に自分が属していることを誇らしく思ったりした。
画面の中で繰り広げられる大人たちの、教育的効果があるとか人間形成にとって重要だとかそんな専門的な話のことはよく分からなかったけれど、テレビにかじりつき要らない知識を頭に詰めては、自分が賢くなった気でいたものだ。
綺麗な方がいいと思うのは普通のことで、だから、この時間は嫌いじゃなかったし、目に見えて分かる汚れを自分の手で落とすことは気持ちがよかった。むしろ、清掃員が掃除する方が嫌だった。何処をどういう風に掃除したのか気になる。ビフォーアフターを見れるところが掃除の一番の醍醐味だと思っているから、他の人に任せることはもったいない。それに、誰か知らない人に自分の生活圏内を整理されるのは、どうも許せない。
今日もまた掃除終わりの教室を確認するように見回す。床も窓も綺麗だ。唯一目につくのは、黒板だけ。黒板に書かれていた現国のおじいちゃん先生の達筆な字は、あっさりとクラスメイトの手によって消されていたが、完全には消えきれずに煙のようにぼんやりとまだそこにいた。それが、なんだか不快だった。
字の解読は出来ないくらいに消されているが、手直しが必要だと思った。
ベランダで黒板消し同士をぶつけ合いチョークの粉を飛ばしているクラスメイトは、ベランダと教室を繋ぐ扉を開けたままにしている。
風に乗り、それが教室内に侵入する。浮遊していた白い粉を容赦なく吸い込んでしまい、咳き込む。チョークは苦くて鋭い匂いがする。鼻の奥をツンと刺して、脳まで刺激する始末。刺激された脳が涙を誘うが、辛うじてそれが流れ落ちることはない。けれど、瞬きすれば目からあふれ出てしまうだろう。上を向いて目が乾くのを待つこと以外に、解決策は思い浮かばない。
こっちが苦しんでいることにも気づかずベランダで悪ふざけし始めた男子生徒に冷たい視線を送っても、当然気づきもしない。片付けなんてそっちのけで遊びに夢中になる子供と同じ。男子は女子に比べて大人になるのが遅いと誰かが言っていたけれど、その通りだと思った。
真面目にやってよ男子! なんて、お決まりの台詞で注意するような女子生徒はうちのクラスには居ない。「またやってるよ」、「馬鹿よね」とそんな呆れた声は聞こえて来るけど、その言い方にはそんな男子たちを見ていることが少し楽しいというニュアンスも混じっている気がして、苛つく。
このクラスの人間は、男女間の友情が成立すると思っている人が多い。だからなのか、男子の悪ふざけを見ても頭ごなしに注意する人は居ない。仲のいいクラスで学校生活は平和だと以前はそう思っていたけれど、白石愛海が居なくなってからは、そんな風に思えなくなっていた。私の中の評価は最悪だ。
このクラスは、気持ち悪い。
ベランダではしゃぐ声も、いい加減にしなよー、という野次も、自分には関係ないと掃除を続ける人たちも全員、ああ、苛つく。
私がベランダの扉を閉めに行けばどうなるだろうか? 空気の読めないイタい奴ってレッテルが貼られる? いいね、それ。こんな人たちにクラスの一員と認められるよりよっぽどいいじゃない、最高じゃない。
箒を片手で持ち、引きずりながら扉に近づいて行く。誰もそれに気がつかない。クラスメイトたちが居心地がいいと思っている世界を壊そうとしている人間に、誰一人として気づいていない。白石愛海が居ないように、以前の私は、もう居ないのだ。私は、こんなクラスよりも誰にも気づかれない空気に馴染みたい、そんな思いを持ちながら近づいて行く。
扉まであと少し。あの出入り口を閉じた時クラスメイトたちはどんな顔をするだろうか? 怒る? 驚き過ぎて声も出ない? 予想しても仕方ない、すぐに答えは合わせ出来るのだから。
ーーと思っていたのに後数歩のところで、私の願いは絶たれた。
「うっせぇよ、お前ら。はい、二人仲良くお外で戯れてて下さいねー」
ぴしゃりと扉を閉めるのは私のはずだったのに、何食わぬ顔でそれを横取りしたのは山本だ。馬鹿にした言い方だけど、クラスメイトの反感を買わない言い方でもあった。お調子者の返しはみんなに受け入れられる。
「おい! 開けろっ、彰!」
「ふざけんなよ彰! 開けろこのヤロー!」
「どーしよっかなあー、開けてほしかったら跪け、そして俺を敬え!」
随分な言いようである。無駄に威張って胸を張る姿は少年というよりガキだガキ、クソガキだ。この幼稚な言い合いで教室は笑い声に包まれるんだから、笑える。
もう私にすることはないと思い、箒を一番に片付けた。山本は一瞬私を見る。かばったつもり? だったら余計なお世話だ。私はせっかくの機会を逃したのだから、お礼なんか絶対に言ってやらない。「かわいくねーやつ」とわざと私だけに聞こえるように言ったことにも、何も言い返してやらないんだからな。
「ずるいよねぇ。私たちがやったら白い目で見られるだろうに、山本だったら笑いになるんだからー」
「私たちって言うけど、円がやってもみんな笑ってると思うよ。私ならドン引きされてる」
それを聞いて円は「確かに」とこぼす。……何故そこで納得する。私の親友は、親友に対して少し冷淡過ぎるところがある。でも、まあ、もう一人の親友は熱過ぎるところがあるから、バランスは取れているのかもしれない。バランスが取れているから、親友なんだろう。
「ね、円。白石愛海の親友って誰だか知ってる?」
山本が扉を開け、二人の男子生徒が解放されるのが視界の端に見えた。雑音も解放され、元の騒がしさに戻る。後五分くらいそのままにしといてよかったのに、と涼やかな声で円が山本たちを見ながら言う。私の質問は聞こえていなかったようだったので、雑音が和らいだ瞬間を狙って、もう一度言い直した。
「え? 何その質問。親友って、千佳たちじゃないの?」
他にいるの? と、目が問いかけて来る。ーー私もそれが知りたいんだよ。
「萌香曰く他にいるらしい……、いや違う、待って……」
廊下での会話を思い出す。取りこぼさないように丁寧にかき集めて、すくい上げて、それから大事な言葉だけを残すためふるいにかけて……、一言一句間違えないように。
確かあの時、萌香は ーー、
「親友だった人って言った! そう! " だった人 " って確かにそう言ってた!」
「……過去形? 親友だった人って……あっ! もしかして一年の時のクラスメイト! とか?」
円の言葉を聞いてすぐ今度は白石愛海が一年生の時、何組だったのかを思い出そうとする。
「何組だったっけ?」
「何組だったんだろう。梓、知ってるかな?」
「梓も二年になってからの友達だって言ってたから、一年の時のことは……」
私たちが行き詰まっていることなんて知りもしない山本の笑い声が、嫌というくらい聞こえて来る。山本の声だけやけにクリアに聞こえる。
「あ! 山本に聞けばいいじゃん! あいつ絶対知ってるわ!」
円の声は、山本の声をかき消してくれた。
それだ! と二人手を取り合い、興奮が抑えきれずにその場で何度も跳ねる。私たちにしては、珍しく普通の女子高生らしいリアクションだったと思う。
そんなテンション高めの私たちを見て、山本は「身震いがした」と後日、梓に話しているところを円に見つかり雷を落とされたとか、落とされていないとかーー。




