またひとつ
お昼ご飯を食べてからプールに入って、その後に現国の授業があるなんて地獄だ! と叫んで、梓はそのまま机に突っ伏した。周りを見ればプールに入っていたクラスメイトの大半が、同じ状態だった。
分かるわ、その気持ち。私が最後にその症状を発症したのは中学生の頃の話だけど、まだちゃんと覚えている。そのだるい感じ。プールに入った後ってめっちゃ体が火照って、きついんだよね。やばいくらいの倦怠感に襲われるんだよね。と、まるで他人事である。
プールサボった組から見ると、机に突っ伏したクラスメイトがゾンビにしか見えない。教室に入って来た現国のおじいちゃん先生が「大丈夫か?」と声を掛けるくらいだから、余程悲惨な状態に見えたのだろう。
「今日最後の授業だからしんどいと思うけど、みんな後一時間頑張ろうね。はい、しゃんとして」
おじいちゃん先生は一所懸命に力づけようとしてくれたが、そのおじいちゃん先生の発する声自体が、睡眠薬のような効果を持っているということに、本人は全く気付いていない。
おっとりした喋り方に落ち着いた低音が、耳から脳まで一直線に届き睡魔が顔を出す。追い出そうにもおじいちゃん先生がまた話し出すものだから、それが待ってました! と言わんばかりにどんどん前に出てきて、その他の感情を詰まらせる。私たちに残されたのは " 寝たい "という欲求だけだ。プールに入っていない私でも一時間も睡魔と戦い続けられる自信がないのだから、梓たちにはこの一時間が、とてつもない苦痛になるだろう。
瞼が重い。何度も閉じては開いてを繰り返す。少し夢の中に落ちたかと思えば、目を覚まして板書をノートに写す。深緑色の黒板にチョークで書かれた白い文字が知らぬ間に追加されていて、右手だけは忙しなく動いていた。内容は一切頭に入って来ない。必死に書き写した文字さえも私を眠りに誘う呪文のように見えて来て、書き取ることを躊躇してしまいそうになる。このままその誘いに乗って寝てしまおうかと意思の弱い心が傾きかけたが、また勉強し直さなければいけないということ考えると、そっちの方が面倒くさいと思い『眠たい』から『起きていよう』と、簡単に意識が変わった。テスト前に慌てて勉強するのは嫌だから今頑張ろう、と。
そうやって何とか睡魔を気力だけで追いやることに成功した私は、何だか無敵になった気分だった。目が冴えた途端、目の当たりにした光景に苦笑いが漏れるほどには。
席にも当たり席・はずれ席というものがあって、はずれ席は教卓に近い前の方の席のことを言う。一方当たり席は後ろ二列ほどがそれに当てはまる。私はその当たり席を運良く引き当てて、毎日クラス全体を見渡しながら授業を受けているわけだが、寝ている者と起きている者がここまで分かりやすく凸凹とした形で浮き彫りになっているのは、他の授業で見ることの出来ない珍しい光景だった。
凸は少数で、ほとんどがノックアウト状態。シャーペンを走らせる音も微弱でしかない。
ぴん、と背筋を伸ばして黒板を見ている生徒は見た限り十数人程度しか居らず、こんな状況だと真面目に起きている生徒の方が異端に見えてくるから、皮肉なものだと思った。真面目な人間が損をする世界は、何て不平等で歪なのだろうか。
世界がほんの少し、変わる気がする。
シャーペンの音よりも誰かの寝息よりも近い場所から、アミの声が聞こえた。
アミは何も分かっていない。世界は何も変わってなんかいない。何も、ひとつも、変わってなんかいない。変わることなんか、ないのだ。
今日だってみんな当たり前のように学校に来て、友達に会って、体育の授業でサボる人がいて、現国の授業で爆睡する人がいて……。そんな何ひとつ代わり映えしない毎日を、今日も生きている。明日もきっとそうだ。
不平等で歪な世界を、うんざりする毎日を後何度繰り返せば変わるのか、誰かーー教えて。
いつの間にか強く握りしめたままノートに押し付けていた赤色のペンからインクが滲み出て、それが広がっていた。せっかく綺麗に写していた板書が、見る見るうちに残念なものに見えて来る。丸くはならないインクの染みは、この世界に似ている。私はそれを修正テープで消す。何も、初めからなかったことにするように、ひっそりと息を殺して。
その時少し手が震えたのは、迷いと恐怖から。
そんなことで私は、自分はまだこの世界の色に心まで染まっていないのだと、安堵した。
ただ、それが私に侵食して来るのも時間の問題かもしれない。いつか私も、本当にそっち側の人間に成り下がってしまう。
それは、嫌だなぁーー。
鋭い日差しが、私の席だけを狙うように降り注ぐ。肌が痛いと言っている気がして思わずカーテンを閉めた。少しだけ窓を開けていたところから生暖かい夏風が入り込み、カーテンを揺らす。カーテンから漏れた日差しはノートを照らし、書き写した文字全てをその光で消してしまった。わざわざ修正テープで消したのに、私のその行為は何の意味も持たなかったみたいで、笑えてくる。
一番綺麗に光が降り注いでいる場所には、誰も座っていない席がひとつ。白石愛海の席だ。宙に舞う埃が季節外れの雪のように光って、その席に一粒ずつ着地していく。埃を被っても綺麗に見えるのだから、本当に世界は不平等だと思う。
彼女は死んでも尚、綺麗なままなのだーー。
綺麗と言えば、真面目に授業を受けているクラスメイトの中に目の引く後ろ姿があった。ぴんと張った背筋が綺麗で、でも、それだけならそんなにも関心を持たなかったのだが、何しろ意外性があった。あのグループの娘が起きている、という意外性が。
萌香の後ろ姿は、何処か品を感じさせる姿勢だった。花道とか茶道とか着物姿が良く似合いそうな感じ。いつもクラスの中心ではしゃいでいるというただそれだけの理由で、私は彼女が真剣に黒板と向き合っている姿を、意外だと思った。表面上でしか人を判断しない最低な人間のそれと同じ思考回路を持っていた自分自身に、幻滅する。
着実に自分がそっち側に向かっていることが、嫌で嫌で堪らなかった。
萌香の後ろ姿に気を取られミミズのようにぐにゃぐにゃになってしまった文字を、力いっぱい消すのは都合がよかった。汚い文字と汚い自分を重ね合わせ、どちらもいっぺんに消せるから。とは言っても、実際に消えてくれるのはもちろん文字だけだ。汚い私は変わらず此処に居る。なんてない顔して、私の中に。
焦りと怒りに任せて力を入れすぎた所為か、ノートがバリッと音を立てて縦に破れてしまった。それを数人のクラスメイトの耳が捉え、音の正体を探るように何人か振り返って辺りを見渡す。他の人はどうでもいい。でも、萌香だけは気になった。
あの日の放課後からギクシャクした関係のまま、今日まで経った。千佳と奈津希のようにあからさまに私たちを避けたりしない萌香が、今何を考えているのか、私は気になっていた。萌香とはもう一度ちゃんと話をしたかった。
こっちを見て、とテレパシーを送り続けたことは無駄にならなかった。他のクラスメイトよりもやや時差があったが、萌香は振り向いてくれた。少し迷子になった視線は、願った通りに私を捉える。
目があって数秒、萌香は前に向き直る。その数秒後、チャイムが鳴った。立ち上がって一礼して、萌香はもう一度私を捉える。そして背を向けて教室を出て行った。
私は話しかけて来た円をなおざりにし、萌香の後を一心不乱に追う。あの目は、「ついて来て」と言っているように見えた。
早足で角を曲がれば、下へ下りる階段の途中でこちらに振り返ったまま立っている萌香がいた。私の解釈は正しかったようで、萌香は私の姿を確認するとまた足を進める。
萌香からのコンタクトは素直に嬉しかった。どうやって話しかければいいのか迷っていた私は、もういらないから。
歩くスピードを急に下げた萌香にいつの間にか私は追いついて、横に並んでも私たちは歩き続けた。
特に目的地があるわけではないみたいで、萌香は歩きながら「愛海のことだけど」と、いきなり話を始めた。周りに聞かれても困る内容ではないのか、人とすれ違っても声のボリュームを下げることをしなかった。
「まだ千佳と奈津希には聞かないでほしい。もうちょっと待ってあげて。それと、私も愛海が自殺したとは思ってないから、黒板にあんなこと書いたのが誰か知りたいと思ってる」
萌香は真っ直ぐ前を見たまま話し続けた。私は私を見てくれなくても、萌香の顔をしっかりと見て「うん」と言った。
姿は見えなくても小さかった声がだんだんと大きく聞こえてきたので、誰かが近づいて来ているのが分かった。私たちの前に現れたのは仲の良さそうな二人組の女子生徒。腕を組んで駆けて行くその姿は映画のワンシーンのようだった。萌香もすれ違った二人を見やる。その愛しそうな表情から、もしかしたら彼女たちを、自分と白石愛海に重ねたのかもしれない。
空気を読むように廊下には人が居なくなった。後一、二分だけこのままの状態を、望む。
「萌香は、何も知らないんだよね?」
「知らない、本当に何も。だから、私から今ユイたちに提供出来ることは、一つだけ」
やっと立ち止まり、やっと正面から顔を見てくれた。
「愛海の親友に、愛海の親友だった人に話を聞いてみるといいよ」
「えっ? 白石の親友って……萌香たちでしょ?」
「違うの?」と言おうとした私を邪魔するように、無人だった廊下は人で溢れかえった。萌香は何も答えることなく、その生徒たちに紛れるように消えて行ってしまった。
残された私は廊下のど真ん中で突っ立ったまま、人を避けることもせず何人かと肩をぶつける。邪魔だな。どけよ。って目で見られても、どうでもよかった。
萌香がくれたのものは、新しい課題だった。




