溺れる
「はぁ……幸せ……」
その言葉を具現化したように破顔する梓の表情を、私はもう何度も見てきた。
両手を頬に添えて目を閉じるその姿は、傍目から見ても幸せに浸っているのだと、すぐに分かるレベルだ。ちょっと一緒にいるのが恥ずかしいレベルでもある。
「幸せなのは分かったけど、その幸せを感じさせてくれてる物がザッハトルテってどうなの?」
呆れながら声を掛ける円も、ミルフィーユを一口食べると梓までとは言わないが、幸せそうに口元を緩めた。
「え? 何か問題でも?」
「この前、季節限定パフェとガトーショコラで迷ってたじゃん。てっきり今日はガトーショコラを選ぶと思ったのに、まさかのザッハトルテ」
私も梓はガトーショコラを選ぶとばかり思っていたのに、綺麗・可愛い・美味しそう、の三拍子揃った色とりどりのケーキが並べられたショーケースを見て、ほんの何秒かでザッハトルテに即決したことには驚いた。
でも、今日立ち寄ったのはファミレスではなく、小さなイートインスペースのある洋菓子店。梓がザッハトルテを選ぶのも分かる。せっかくプロが作っているのだから、ファミレスで頼めないものを頼みたくなる。そういうものだ。
その選択に納得していると、梓がふっと鼻で笑った。そして、人差し指をピンと伸ばし、それを振り子のように左右に振る。チッチッチッ、という効果音付きで。
「分かってないな、二人とも。いい? ガトーショコラっていうのは、フランス語でチョコレートケーキって意味なの。つまり! ザッハトルテもガトーショコラなのである!」
ドヤ! とドヤ顔。ドドン! っと背後には漫画のような描き文字が浮かび上がる。主張の強い文字だ。
要らない豆知識を披露して満足したのか、梓はまたザッハトルテを口に含む。本日三度目の「幸せ」いただきました。
「へー、知らなかったなぁ。チョコレートケーキ全般をガトーショコラって言うんだねぇ……じゃあさ、ミルフィーユの意味って知ってる?」
ケーキの名前の由来に興味を示したらしい円は、フォークでパイ生地をつつきながら梓に聴く。パイ生地がボロボロになるよ、と言えば慌ててその手を止めた。
「ミルフィーユのミルは千、フィーユは葉。合わせて千枚の葉。パイが何層にもなって出来てるから、ミルフィーユって名前なんだって」
「まんまだね。でも、ケーキにもちゃんと由来があったんだねぇ。最初に作った人の名前からきてるものだとばかり思ってた」
感心したようにミルフィーユを眺め、今度はしっかりとパイ生地を崩すようにフォークを入れる。
「じゃあ、アフォガートにも由来があるの?」
自分が今食べている物の由来も聞いておこうと、話の流れに便乗した。アフォガートはケーキじゃないから、由来があるのか知らないけど。
「え、知らん。アイスに由来とかあるの?」
……思ってたのと違う。真顔の梓。知るわけないじゃん的な空気を出されて、こっちも困るわ。もうちょっと悩め。秒で回答すんな。円は隣で笑いをこらえるな。
ああ、もう! と一口にしては大きいアイスの塊を頬張る。ちょっと感心してた自分が馬鹿だった。火傷した気分だ。
冷たいアフォガートを注文していて正解だった。いや、そもそもアフォガートを注文してなければ、火傷することもなかったのか。ううん、アフォガートに罪はない。悪いのは瞬殺してきた梓だ。
まぁまぁ、スイーツの話は置いといてーーと咳払いをして話を変えたのは円だった。
バックからルーズリーフを一枚取り出し、ペンを走らせる。何かを書き終わると、テーブルの中央にそれを置いた。
それは、今まで得た情報を簡潔にまとめたものだった。
「さっきの槙子たちとのこともあって、分かり辛くなっちゃったから一旦今までのことを整理しようよ」
とんとん、と指先で紙をノックする円からシャーペンを受け取り、まるでこいつが犯人だと言わんばかりに、山本の名前を何度も円で囲んでやった。
「そんなの簡単だよ。一番怪しいのは、最初から山本だったじゃん。部活も入ってないのに七時前に学校に居るとか、怪しすぎる」
「うっわ! やっぱユイは山本っちゃんが犯人って決めつけてるじゃん! 酷くない? 円もそう思うでしょ?」
「ユイが一番に山本疑うのは分かるよ。それは単純に書く時間があった、ってだけの話だけど、やっぱ重要なポイントだからね」
「そんなぁ……。そんなに疑うならさ、もういっそ山本っちゃん本人に聞こうよ。ハッキリさせよう。じゃないと先に進めない」
怒って雑にザッハトルテを一口大に切る梓。切り終えた時、フォークがお皿に当たりガチャンと鋭い音を立てた。
「そんなに怒んないでよ。実際、悠里が教室に来るまでの十五分間、山本には書く時間があったってことが槙子の話で証明されたんだから」
槙子の話で、悠里が夜中に学校に忍び込んだ、という線は消えた。悠里への疑惑はなくなった。その代わりに山本への疑いの目が濃くなった。
黙り込んだと思えば、はぁー、と怒気が含まれたため息をつく梓。そのまま、トイレに行って来ると言って席を立つ。
その背中を見送りながら、梓って本当にいい子だよね、と円が穏やかな口調で言った。そうだね、って返すのが私の精一杯だった。
梓は、怒りを殺しに行ったのだ。
私と違って本当にいい子だな、と自傷気味にひとり笑う。
話している間、手を止めていたからアフォガートのアイスが大分溶けてしまっていた。だけど、梓が戻って来た時、手元に何かがないと落ち着かない気がして、このまま食べ進めることに躊躇してしまう。
夏限定だからって、アフォガートなんて頼むんじゃなかった。円みたいに食べるのに手こずりそうなケーキを頼めばよかった、とまた自傷気味に笑う。
溶けたアイスを前にしても手を止めたままの私を、円は黙って見ていた。でも、店内に流れるお洒落なジャズのお陰で、私たちの間に沈黙がないように思えた。
沈黙を誤魔化すように、少しずつアフォガートを口に含む。あくまでスイーツに夢中のふりだ。
だけど、円にはそれが通用しない。
ユイ、と真っ直ぐな声が私を呼ぶ。
BGMがもっと大きかったら、聞こえないふりが出来たのに。これは無視するな、ということなんだろう。
降参して口直しの水を一口飲み、円と向き合う。何を言われるか分からないけど、私にとっていいことでないことは分かる。
「ずっと聞きたかったんだけど、どうしてそんなに白石にこだわるの?」
ほら、きた。嫌な質問。
「別にこだわってないよ。納得出来ないだけ。」
「納得……納得ねぇ。それはイタズラした犯人が見つからないこと? 白石が亡くなったのに普通にしてるクラスメイトたちのこと? 白石の死因が分からないこと?」
矢継ぎ早に投げかけないでほしい。
円は私が嫌がっているのを分かった上で、続ける。
「それともーー白石が死んだこと?」
耳を塞ぎたくなった。
「仲のいい子は別として、ユイは基本的に他人に干渉しない人だから、純粋に気になった」
金縛りにあったように、体はピクリとも動かない。ついさっき水を飲んだのはずなのに、もう喉がカラカラだ。
水を飲もうとグラスに手を伸ばしたが、それを止めるようにまた円が話し始める。
「犯人探しを始めた時に言ったよね、自分が殺されたら私たちに傍観決め込むのかって。あの時、その仮定聞いて納得したんだけど、何か違うなって最近思うようになったの」
「それは……どういう意味?」
「その仮定って、仲のいい人限定で成立するよね。仲がいいから傍観出来ないって。……あ、水飲んじゃ駄目だよ。水を飲むと言葉も一緒に飲み込んじゃうから」
グラスを取り上げられ、手は行き場を失った。私は水すら飲ませてもらえないらしい。
さっきまで梓がトイレから戻ってくることが怖かったのに、今は早く戻って来て欲しいと思ってしまっている。なんて情けないんだ自分。
「あれは、仮定の話だから。円が気にする程、犯人探しに理由はないよ。単純に自分の生活圏内に殺人犯が居たら最悪だなって思って探してるだけだから……間違っても、白石愛海にこだわってない」
言いきって、円からグラスを取り戻す。
グラスの中の水を一気に喉に流し込み、渇きを癒す。言葉を飲み込め、奥まで流し込め。円に悟られぬよう努めろ。
そうしている内に、梓がトイレから出てくる姿が見えた。ようやく私は解放される。
安心してほっと息を吐くが、梓の姿を確認した円はまた私の名前を呼んだ。
「私、アフォガートの意味知ってるよ」
名前を呼ばれてすぐ、次にどんな言葉を投げかけられてもいいように構えていたのに、さっきまで三人で話していたスイーツの名前の由来に話が戻されたことに、面食らってしまった。
これは、何か試されている……のか?
円の人差し指がアフォガートを指さす。
「アフォガートはイタリア発祥のデザートなんだ。意味はね、イタリア語でーー」
溺れるーー。
全てを見透かしたような眼が、怖いと思った。
溺れるーー。そうか、円には今の私がそんな風に見えているのか。
なんだか、笑えてきた。
どうやら私は、この時の円の眼を、忘れられそうもない。
はじめまして、東雲です。
15話目にして初めて後書きを書かせてもらいます。
小説を書くのは初めてなので、至らないところがいくつもあると思いますが、目を通していただけると幸いです。