02. 出仕
差替版の2話になります(5/30投稿)
エミリアの髪がふわりと揺れる。
暖かな風が髪を通り抜けたのだ。
――景色の良い職場だわ。雰囲気も良いといいのだけれど……。
初めての職場は季節の花が咲き乱れている。
白い結婚を申し立てて、目出度く独身に戻ったエミリアだったが、実家に帰ればまた父に不本意な結婚を押し付けられるだろう。
だから実家に戻らない道を選んだ。
離縁を勧めてくれたアーヴァイン大司教が紹介してくれたのは王宮の侍女だった。配属先は王太子宮。宮の女主人である王太子妃は気さくで、人当たりが良いと評判である。
エミリアは第二子であり長女のセイラ姫付きの侍女としての出仕だ。御歳三つの幼い姫はとても愛くるしく可愛らしいと聞いている。
「初めまして殿下。本日よりこちらに参りましたエミリア・ダルトンと申します」
上からの目線で幼子を怯えさせてはいけないと、しゃがみこんでセイラ姫と目線を合わせた。
姫はセルティア王家特有の茶色い髪と、ペリドットを思わせる明るい緑色の瞳を持っている。だがぱっちりとした目元は母親譲りで、両親の良いとこ取りをした可愛らしい姫君だった。
「初めまして、エミリュ……エミーリャ……」
「エミとお呼びくださいませ、殿下」
エミリアと発音できない幼い姫君に、微笑みながら愛称で呼ぶように伝える。
「わかった、よろしくね、エミ」
ようやく名を呼べたセイラ姫は、満面の笑みを浮かべると新しい侍女に抱きついた。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
抱き上げたまま立ち上がると椅子に座らせる。まだ三歳の姫は両親の食事時間に起きられないため、自室で摂るのだ。兄王子はすでに両親と共に朝食を摂っているから、そう遠くない将来、セイラ姫も自室ではなく食堂で家族揃って、朝食を楽しめるようになるだろう。
「コレ、キライ」
三歳にしてはカトラリーを上手に使ってきれいに食べると感心した直後だった。
コレと示したのは牛乳だ。牛乳を飲んでお腹を壊すなど忌避する理由はなく、単なる偏食であるらしい。
自分が幼い頃、好き嫌いはあったが父が怖くて我慢して食べた。孤児院の子供たちはお腹いっぱい好きなものを食べられないこともあって、好き嫌いを言う子供は皆無だ。食べないという選択肢があるのは幸せなことだが、だからと言って容認はできない。
「美味しくなったらどうでしょう?」
「おいしくないもん!」
しかめっ面をしながら、そっと牛乳を自分から遠くに押しやった。
可愛らしい仕草でつい笑みを浮かべたが、好き嫌いはよくない。
翌日、セイラ姫の食卓には果汁で割った牛乳が出された。幼い子供が好む甘い味付けになっていて飲みやすい。
「おいしい!」
今までみたことのない色の飲み物に最初は警戒したものの、恐る恐る飲んだ途端、満面の笑みになった。
「これも牛乳ですよ。少し果物が入ってますけれど」
「そうなの? おいしいのに?」
疑問を浮かべながらも、初めての味を気に入りゴクゴクと飲む姫はとても愛らしかった。
今後、少しずつ果汁を減らして牛乳の味に慣れてもらう予定だ。
食べたら肌に発疹ができるようなものは仕方がない。
しかし成長して貴族の前に出たとき、偏食では示しがつかない。正式な昼餐の場で、嫌いなものをより分けて残すような、みっともない真似はできない。嫌いな物があれば、食べるのに抵抗のない味に変えて少しずつ慣れさせるのだ。
食事の後は読書だった。
王宮だけあって子供向けの本がある。
本はとても高価だ。原著から一字ずつ書き写す必要がある上に、装丁は上質な皮を使い、箔を押して装飾するから費用も時間もかかる。貴族の家なら図書室があるの普通だが、子供向けの本まで棚にあるのは珍しい。本一つとっても王族は凄いと思う。
セイラ姫は子供向けの本の中でも簡単なものは既に読める。
自分が三歳の頃は文字を読めただろうかとエミリアは思った。
食事をする姿は天真爛漫で、貴族の令嬢と違うようには見えなかったが、こと教育に到っては全然違う。遊びの延長の勉強は、文字の読み書きだけでなく外国語にも及ぶ。貴族の令嬢ならば、自国の言葉のほかは必須教養とされる古典が読める程度だ。王族の場合、他国の要人と会う機会は多く、また政略のために嫁ぐことも考えられる。
だから最低でも国境を面している国の言葉は、不自由ないように扱えることが求められていた。
「ごきげんよう、セイラ殿下」
爽やかな笑みとともに入室してきたのは、絵本を読むために派遣されたグレアム・アトキンスだった。
一介の官吏である彼が派遣された理由は、少し大人の男性を怖がる姫を慣らす目的がある。騎士の配備に苦心したことから、人見知りを直そうという涙ぐましい結果、まだ二十代前半で語学堪能なグレアムが選ばれたのだ。
ほかにも外交官の父を持つ子息や、国外に長く滞在し今は隠居した侯爵など、本職の家庭教師以外にも数多くの人々が王太子宮に招かれている。
「今日は新しい本を図書室で見つけてきました」
赤味の強い革の装丁に、セイラ姫は喜んだ。黒っぽい装丁は地味だから嫌いなのだ。子供らしい可愛い理由だ。
さっそくとばかりに長椅子に腰掛けて、異国の言葉と自国の言葉で本を読み聞かせる。隣に座って楽しみながら言葉を覚えていく。グレアムは時として膝に姫を乗せ、読書に飽きれば本を置いて一緒に遊んだり、とても子供のいない若い男性には思えなかった。
本を読み終えセイラ姫が満足したところで休憩に入り、エミリアの同僚ニーナがお茶を注ぐ。姫のお茶は蜂蜜入りの甘いものだ。
少し前に国王の第二王女アイヴィー姫が王太子宮を訪れ、休憩とともに姪であるセイラ姫の私室を顔を出す。
「セイラ、良い子にしていたかしら?」
「わたしいつもいい子よ!」
少し澄ました感じに言うセイラ姫に、皆が微笑ましい目を向ける。
二人の姫はとても仲が良い。グレアムの横から立ち上がり叔母の傍に近寄ると、ぎゅうぅと抱きついた。
「まあ、甘えん坊さんね!」
言いながら抱き上げ、セイラ姫をテーブルに着けさせる。席は自分の隣だ。
そうこうしている間に騎士も入室してくる。一緒にお茶をするためだ。姫は厳つい顔や体躯の騎士を怖がるため、やはり慣れさせるのが目的だった。
グレアムが来る日に呼ばれるのはネイサン・ファーナム、長身だが騎士としてはやや細身で威圧感のない優しそうな雰囲気の騎士だった。二人は生まれたときから付き合いのある親しい友人であり、どちらも文官を多く輩出している中央貴族の家系だ。
もう一人、呼ばれた騎士は王太子宮の責任者であるギルソープ隊長である。少々、目元が厳しいが、娘を二人持つ子煩悩な父親でもある。以前は鼻の下に細く髭を蓄えていたらしいが、威圧感が上がるからとセイラ姫のために剃り落としたと聞いている。娘たちも父の髭の無い顔の方が良かったらしく、自宅で好評だったと寂しく語っていたとかいないとか。
前夫が騎士だったエミリアは騎士が苦手だ。仕事で一緒にいる相手に失礼だからと、周囲に気付かれないようにしているが、早く慣れなくてはと思っている。周囲は箱入り娘の貴族の令嬢だから、家族以外の異性が身近にいるのに慣れていないのだと思ってくれているが、いつまでもこのままで良い訳ではない。
セイラ姫が騎士や成人男性に慣れるためのお茶会は、エミリアにとっても騎士に慣れるために有用だった。侍女としてニーナの手伝いをしながら会話に加わる。日によっては姫の隣に座って世話をすることもあるが持ち回りで、今日はクレアが担当だった。
あっという間に過ぎたお茶会は、終始和やかで、このまま優しい時間が続けばよいのにと思う。
姫にとって居心地の良い時間は、傷ついたエミリアにとってもまた、居心地の良いひと時だったのだ。




