17. 決闘
「大丈夫ですよ、奥さん。絶対に勝てますから」
ネイサンは優しく妻の髪を梳きながら微笑む。
昨夜はそのままでは寝付けないだろう妻のために、温めた牛乳に強い酒と蜂蜜を混ぜたものを差し出す心遣いを見せた。
お陰で朝まで眠れたエミリアだったが、目を覚ますのと同時に、不安で胸が押しつぶされそうになっていた。
「でも……」
「大丈夫、これでも全戦全勝ですよ」
玄関で夫婦のやりとりをしている間に、迎えの馬車がきて二人は別々に決闘会場に向かう。
エミリアの迎えはアトキンス侯爵夫人こと降嫁したアイヴィー姫その人だった。馬車の中でずっと手を握られ、大丈夫だと言われたが、胸は不安に押しつぶされそうで、気休めにもならなかった。
闘技場ではアイヴィー姫の夫であるグレアムとネイサンの同僚が王族向けの貴賓室で待っていた。そのまま落ち合い、観客席へと誘われる。
「ネイサンはとても強いですよ。だから僕に付き添って紛争地に赴きましたが無事だったんです」
「王太子宮の警備に抜擢されるくらいですからね、強いのは当然です」
「でもカーティス様も優秀だとか……?」
「格が違います。ネイサンと違って、カーティスは国王陛下や王太子殿下の警備についたことはありません。それだけ実力差があるってことですよ」
「そう、でしょうか……?」
「そうですよ、前騎士団長も格の違いを判っていて決闘と言ったのでしょう。闘わずして結果は出ています。揉め事は決闘で決着させるのが騎士団流だから、仲裁したところでカーティスも周囲も納得しない。それで結果の見えている決闘を申し渡したんです」
「だったら良いのですが」
「大丈夫、御自分の夫を信じるべきです」
「そうよ、エミリア。妻なら自分の夫を信じてあげなきゃ」
不安に押しつぶされそうなエミリアを宥めている間に、ネイサンとブレットが闘技場に出てくる。
観客席からは歓声が沸いた。
非番の騎士や、昨日の騒動を知った野次馬が多く集まっている。
対峙する二人が剣を抜いたと思った直後、打ち合いが始まった。金属の鋭い音とともに火花が散りる。
体勢を変えながら一合、二合と打ち合いが続く。
激しい剣戟に観客が再度沸く。
普段は少ない騎士団の見学者だが、夜会の場で決闘を言い渡された結果、あっという間に噂は広がり、多くの人が詰めかけることとなった。
大きな歓声の中、エミリアは祈ることしかできなかった。永遠にも感じる時間だったが、実際にはそれほどの時間は経過していなかった。
どちらも引かずに闘っていたが、少しずつネイサンの剣に重みが増しているようだった。
少しずつブレッドが後退したかと思った直後、剣が飛び勝敗が決した。
「ネイサンッ!!」
エミリアが夫に駆け寄る。
妻の名誉と勝利を手にした男は、駆け寄る最愛に自分からも歩み寄る。
「怪我は? どこも怪我をしていないのよね?」
ネイサンは涙目の妻を優しく抱きしめる。
「余裕でしたよ、大丈夫だって言ったでしょう?」
「でも……」
「妻の名誉は夫の名誉ですよ。ここは「信じていた」って笑って言うところです」
「し、信じてました……」
「よくできました。最愛の人の最高の騎士になれて嬉しいですよ」
「イチャつくのは家にしようか」
夫婦の間に立ち入ったのはにやにや顔のグレアムとアイヴィー姫だった。
エミリアは観客たちの目が自分に向いているのに気付き赤面した。同時にネイサンも、決闘の興奮で平静ではないことに気付き、普段とは外れた行動に顔を少し赤らめる。
「ネイサンが勝つのは当然だな」
翌日、王太子宮に出仕したエミリアを迎えたのは宮の主である王太子その人だった。
「私の護衛が愛人の護衛に負ける筈がない。心配したとすれば、それは私に対して失礼というものだ」
「そうは言っても心配するのは当然だわ。大怪我をすることだってあるもの」
「あんな男にネイサンが傷を負わされる筈がなかろう」
エミリアを庇う妃だったが、王太子はそれを一刀両断する。
「ネイサンは王太子宮の警備責任者だぞ。騎士団の精鋭の一角を担い、この宮の騎士で一番頭の回転が良い男だ。同じ騎士団の一員とはいえ、相手との実力の圧倒的な差は一目瞭然だ。バーンズもそれが判ったからこそ決闘を言い渡したのだ。妻を謂われなく貶められた男の汚名を雪がせる為にな。あの男だけがそれを理解していなかったが、他の者は意味を解っていただろうよ、少なくとも王太子宮の関係者は全員」
バーンズは前騎士団長その人だ。
騎士にとって雲の上の人が、管理職とはいえ末端に近い位置にいるネイサンや、それよりも下の立場である前夫のことを知っていたというのか。
エミリアは知らなかったが、超人的な能力と努力によって、上層部から新人の一人に至るまでを知っている前騎士団長の伝説を知っている者からみれば、勤続年数の長いネイサンやブレットのことを知っているのは当然のことだ。
そしてエミリア以外の全員が、ネイサンの勝ちが判っていたと言われて言葉が出なかった。もし横にネイサンがいれば「そういうことですよ」と妻に告げていただろう。からくりを教えられてただ驚くしかなかった。
「あの男は騎士団を辞めて領地に戻るようだから、これからは滅多に顔を見ることもなくなる。安心することだ」
「辞めさせたということでしょうか?」
「いや、自分から辞めた。無辜のご婦人に手を上げたなど騎士にとって恥ずべきことだから、居られなくなったというのが正しいな。騎士であることを誇りに思っていたのなら、相応の行動を取っていれば長く勤められたものを……」
どうでも良いと言いたげな口調で王太子が言うから、どこまでが本心かは全く判断できない。ただ辞めた騎士のことを惜しい人材だと思っていなかったことだけが伝わってくる。
「そういうことだから、二度と嫌な思いをしないと思うわ」
王太子妃の言葉に、エミリアはようやく前の結婚の呪縛から解放された気持ちになる。
「会わなくて済むなら、もう二度と見たくありません」
その願いにも似た言葉は、本心から出たものだった。