01. 回想
差替え版は駆け足でストーリーが進むというか、長編というよりも短編連作のような感じになりました。
読みにくくてすみません。
「良いですかエミリア、淑女というものは夫に従うものです。逆らってはいけません」
齢十の娘は大きな瞳の中に母の姿を映しながら、神妙な面持ちで頷いた。
父であるダルトン伯爵に母が逆らう姿を、一度として見たことがない。今日も伯爵の外出が整っていないと、母を罵倒したところだった。
母は何も聞いていなかった。
言われなくても察して先回りしろというのは、無理だろうとエミリアは思う。
それが定期的に繰り返される日課であれば、行動予測はできる。
だが突発的な行動に、予測も予想も無理だ。
しかし父は母に対してできないことを詰るのだ。
「お前は儂に恥をかかせる気か!」
外出する段になって突然怒鳴りだす父に、エミリアはビクリと身体を震わせた。
「今日はどのようなご予定でしょうか?」
夫の怒りを受け流し、凪いだ声で用件を聞き出す。母の得意技だ。
「家臣団との会合だ。すぐに出なければ間に合わなくなる」
大貴族と呼ばれるような広大な領地ではなくとも、一人で管理するには大きすぎる領地は、何人もの家臣に村を巡視させ、定期的に報告を受けている。今日はその報告会を兼ねた集まりなのだろう。年に一度、領地の主要作物である葡萄の収穫後は、ダルトン伯爵の居城で報告会を兼ねた宴会を開くが、それ以外の会合は家臣の持ち回りだった。おおよその時期は決まっているものの、確たる日程は未定であり、天候や作物の際財状況のほかに、何となくというダルトン伯爵の気まぐれを多分に含んで決まる。
だからあらかじめ聞かされていなければ、会合があるとはわからないのだ。
――莫迦じゃないの、わかる訳ないじゃない。
エミリアは心の内で父に反論するが、口に出すことはない。無論、顔に出すことも。
* * *
――パンッ!
破裂音とともにエミリアの頬に熱が走る。
殴られたと気付いたのは、床に倒れ込んでからだった。
頬は火が付いたように熱く痛かった。
荒々しい音を立てて去るのは、自分の夫である男。
溜息一つ出なかった。
父であるダルトン伯爵を最低だと思っていたが、つい半年前、十三歳になった直後に結婚したカーティス伯爵家の跡取り息子ブレットは、父を遥かに上回る男だった。
有体にいって下種。
義母と義父はそ知らぬ振りで放置するが、使用人たちは不遇を囲う幼な妻に優しくも甘い。
自室に戻れば、直後に水を張った桶を侍女が持ってくる。腫れた頬から熱を取るためだ。
「エミリア様、痛みはどうでしょうか?」
「大したことはないの、ありがとう」
何度も手巾を水に浸して頬に当てると、少しずつ赤みが引く。
手加減はそれなりにしているらしく、派手な音を立てる割に怪我をしたことはない。数日、頬に赤味が残る程度だ。熱が取れた後は練った軟膏を頬に塗り布を当ててもらう。
「エミリア様、料理長から菓子を受け取ってきました」
桶を持って部屋を出た使用人が戻ってくると、手には皿に盛られた焼き菓子があった。
エミリアがブレットに傷つけられるたびに、砂糖をたっぷりつかった甘い菓子や、甘い飲み物などが出される。料理長の気遣いは怪我をしたときだけでなく、日々の料理にも反映され、幼い女主人のために好きな料理を多く出したり、ちょっとした間食を使用人に持っていかせたりすることを忘れない。
翌日、渡された書類に目を通すエミリアに、休憩してはどうかと執事がお茶を持ってきた。
まだ十三歳の少女とはいえ、幼い頃から家政の取り仕切り方を母から教え込まれたため、おおよそのことは一人でできる。自力で難しいところは執事や家政婦長に協力を仰ぎ、つつがなく家を切り盛りしていた。
「ありがとう、いつも悪いわ」
にっこりと微笑んで盆の上に載ったお茶に手を伸ばす。
「……もしかして蜂蜜? すごく贅沢だわ!」
養蜂の技術がない時代だから、蜂蜜は貴族にとっても贅沢な代物だ。
「いつも頑張っておられますから。疲れには甘いものが有効ですよ」
好々爺を思わせる笑みをみせながら、たっぷりと蜂蜜をお茶に入れることを勧めてくる。
「それにこれは領地の旦那様から、エミリア様への贈り物でございます。若いのによく家を守っているとお褒めでございました」
「まあ、お義父様から……!」
思っても見ない人物から贈られたと聞いて驚いた。
ブレットの父であるカーティス伯爵は、夫に上手く寄り添えないエミリアに冷淡だと思っていたから、自分に気遣いを見せるとは思ってもみなかったのだ。
「息子とはいえ成人した男に、あれこれ物申すのはよろしくありませんから距離を置かれておりますが、何時だって気にしておられますよ。特にまだ成人もされていない年頃のお嬢様を嫁として迎えられましたからね、至らないことがあって当然だと言っておられました。しかもエミリア様のことを至らないどころか、若いのに素晴らしい嫁を貰ったと喜んでおいででした」
いつになく饒舌に語る執事に目が点になる。
お義父様が私のことをよくできた嫁だと思っていらっしゃる?
考えたこともなかった。
至らず恥ずかしい嫁だと思われているのだと信じて疑わなかった。
「旦那様は口下手ですからね、よく誤解をされるのです」
確かにカーティス伯爵は父であるダルトン伯爵より言葉数が少ない。何を考えているのかよく判らないことも、エミリアが苦手だと思う一因だ。
「別宅とはいえ家を構えたのですから、親が干渉するのは良くないとも言っておられました」
「そうだったのですね……」
冷淡な人だと感じていたが、思い違いをしていただけなのかもしれない。
当事者二人にとって不本意な結婚から三年の後、ブレットに大怪我を負わされたエミリアは教会に逃げ込み離縁が成立した。夫が夫婦生活を拒否していたこともあって白い結婚が成立し、一方的に婚家が不利な状況での離縁だった。
アーヴァイン大司教を通じて「申し訳なかった」と舅であるカーティス伯爵から謝罪を受けたのは、避難先の女子修道院の中でだった。