―7―
二年前。わたしは記憶喪失になった。
自分が誰で、ここがどこで、どうしてここにいるのかはわかっていた。
麻宮璃那で、都内の病院で、バイクにひかれそうになって、けれど助かってここにいる。ただ、
「とき……くん? ふるせ……ときや……? 誰ですか、それ?」
事故があった日の翌日から、なぜ助かったのか、誰に助けられたのかがわからなくなっていた。それどころか彼に関する記憶の一切を失っていた。
こんなことが現実にあるのかどうかわからないけれど。その時からわたしは、彼に関する記憶の一切を失った“わたし”と、彼のこともちゃんとわかっているわたしとの多重人格者になったのだ。ツキビトだからなのか、トリガー(きっかけ)は月の満ち欠け。十六夜の日の間だけ、“わたし”はわたしになれた。
一方で、彼も記憶喪失になっていた。
わたしに関する記憶の一切を失っていた。わたしのように、十六夜に記憶を取り戻すことはなかった。
さらに手足にしびれがあり、日常生活が困難なため、それが治るまでの間、身障者が住める3LDKの住まいを借りた悠紀姉と蒼依が、在宅勤務で彼のサポートをするかたちで三人で暮らしていた。
その間、“わたし”は母さんと一緒に暮らしていた。
この措置は、彼と“わたし”を接触させないためでもあった。逆の方が良かったのかもしれないし実際そういう意見も出たけれど、珍しく蒼依がそれに異を唱えたのである。とにかく【無理に記憶を取り戻そうとしないように】というのが、母さんの決めた二人に対する治療方針だった。
約一年後、トキくんの手足のしびれが治り、彼が実家へ戻ってからまた約一年後。都さんを通して母さんに、彼が記憶を取り戻したという連絡があった。
次の日。また悠紀姉がわたしの声真似をして、彼に電話をかけた。これで三度目になるので、いい加減彼にもバレバレであるとは思ったけれど。満月夜で“わたし”だったため、声真似を通して、翌日――今日の再会を彼に提案した。
久しぶりに電話してみたら、偶然、彼の記憶が戻っていることを知ったという体で、
「じゃあ、せっかくお互いの記憶が元に戻ったのだから、またあの丘で、その上空で四人で会おうよ」
と、企画したのは悠紀姉――だと彼は思っていただろうけれど。実はわたしだった。
生きているのなら、いつかお互いに記憶を取り戻し、また会う機会は必ず訪れるだろうと、今回のことを事故後から考えていた。
残念ながらわたしの記憶は戻っていなかったけれど。彼の記憶が戻っていて、十六夜月夜に会うのであれば問題はないだろうから、彼からアキバのカフェでの真意を聞かせてもらった上で、本当のことを伝えよう。三人でそう決めて、わたし達は三度目のむーんりっと・りゆにおんを実行した。
「初恋の人との再会だっていうのに、ずいぶんと地味な恰好ね、トキ」
月明かりで青みがかった黒髪のサイドテールを揺らしながら、わたし達と同じ高度まで降りてきた蒼依は開口一番、初めてトキくんと会った時の第一声と同じことを彼に言った。
麻宮三姉妹の末妹である蒼依は、初めて会ったときからトキくんを特別天然記念動物呼ばわりしていた。その時トキくんは、家族でもないのに馴れ馴れしいなと思ったらしく、次の瞬間「だったらいいじゃない、遅かれ早かれ家族になるんだから」と冷静に返され、何も言い返せなかった。
実際は、別に馴れ馴れしくしていたわけではなく。彼女にとってトキくんは、朱鷺と同じくらい特別で稀な存在だったのだ。
現在二十二歳。悠紀姉とは四つ、わたしとは二つ、歳が離れている。トキくんとは同い年だけれど、学年では彼の方がひとつ上。
わたしと比べるとだいぶ身長差があるし、スタイルも性格も、声も口調も似ても似つかない。
ただ、容貌が双子かと思うくらいわたしとそっくりで、すっぴんだったら、顔だけではまるで区別がつかない。
「さっき璃那にも言われたよ。そういうお前は、ずいぶん派手な恰好をしてるじゃないか」
「そう?」
別にそんなこと無いと思うけど? という感じで不思議そうに蒼依は言ったけれど。それは一見すると、典型的なメイド服のようだった。
けれど、ワンピースタイプのエプロンドレスの色が濃紺ではなくサファイアのように深い青であることや、ヘッドドレスがないことから、メイド服風なウェイトレスの制服なのがわかるだろう。少なくとも、そのデザインが実用性や機能性よりも見せることを重視したものなのは、誰の目から見ても間違いない。
「そこかしこにフリルがついていて、さらに胸元と背中が大きく開いてて、しかも超がつくほどのミニスカートって……」
中学生かと見紛うほど小柄とはいえ、二十歳を越えた身でその萌え仕様な恰好は、どう見ても犯罪くさい。と、トキくんは思った。
確かに、どこぞのコスプレアイドルのような派手な恰好だよね。
「可愛いし、いい目の保養になるでしょ?」
「それは否定しない」
姉の欲目かも知れないけれど、蒼依は美的センスが独特で、容姿のバランスも着こなしのセンスも決して悪くはないのだ。
「否定しないんだ」
「するだけムダだろ」
「まあね」
身長こそコドモ並みだけれど、プライドが大人の女性並みに高い。ヘタなことを言う(または思う)と「天邪鬼」だの「男として終わってる」だの、挙句の果てには「死ねばいいのに」と、思いつく限りの悪句雑言でトキくんに精神攻撃をしている。
わたしや悠紀姉はそれを「照れてるんだよ」とか「好意の裏返しよ♪」とか言うのだけれど、当の本人がそれらを否定していて、トキくんもまったく信じちゃいない。まったく素直じゃない。それにトキくんは鈍感だ。
さて、ここいらで、少し引っ込もう。わたしは、アルテを膝に乗せたままトキくん達から少し距離をとった。彼らの会話を“テレパス”で聴き取ることにした。
《ただ、とてもそういう狙いで着てきたようには見えないんだが?》
《それはそうよ。いまのは後付けの理由だもの》
《なら、元々の理由はなんだよ》
と、そこへ。
《――それはね、仕事場から直にここに来たからよ》
《あ、悠紀姉、久しぶ……り?》
唐突に会話と視界に飛び込んできた悠紀姉の姿を見て、トキくんは言葉を失っていた。
《どうしてそこで絶句するの?》
《いや、どうしてもなにも……。仕事って、その恰好で?》
《そうだけど?》
蒼依と同じく、何かおかしい? とばかりに小首を傾げた麻宮家の長女は、一体どこの神社から来たのかと思えるような緋袴――俗に言う巫女服―――のような服装をしていた。神主が祓い事に使う大麻らしきものを手にしているのはまだいいとして。
なぜ袴が鮮やかなほど紅く、ミニのプリーツスカート仕様なのか、トキくんは不思議がっていた。
二人がどういう経緯でこういう恰好をしているのか知ったら、どういう反応をするだろうか。わたしは少し、楽しみになった。
《変?》
《いえ。不思議と、変では無いです》
恰好は本当に変ではない。むしろ、絵になるほど様になっている。三姉妹の中で一番の長身とスタイルと、黒髪セミロングで常に無邪気な少女のような笑顔で絶やすことがない大人顔のおかげだろうか。
あるいは、単に着こなし上手なだけか。というより、むしろ両方かな。
《璃那は、太平洋のど真ん中でお月見してたって言ってましたけど?》
《ええそうよ。だから、そういうお仕事だったの》
《嘘よ。お月見は明らかに趣味と実益を兼ねたプライベートだったわ》
トキくんがツッコミを入れるよりも早く、蒼依が真相をバラした。
《嘘だなんてひどいな蒼依ちゃん。半分はホントのことじゃない。お月見の前はちゃんとお仕事してたでしょ?》
《そうだけど。悠姉は仕事場から直にって言ったじゃない。それはまるっきり嘘でしょ?》
相変わらず生真面目で、指摘が細かい。トキくんがそう思った途端、
《なんですって?》
声と同じくキツく冷やかな視線で、刺すようにトキくんを睨んでいた。
《何か聴こえたか?》
蒼依は〝テレパス〟のオン/オフを意識的に操作出来ない。聴き取るものが心の声であることを除けば、歩く盗聴器と大差ない。
そのため蒼依の前では、迂闊なことは思うことすら出来ないのだ。
《蒼依ちゃんのいけず。私、蒼依ちゃんのそういうとこ嫌いっ》
《いいわよ別に。妹をちゃん付けするような姉に好かれても嬉しくないもの》
また始まった。
この二人が顔を合わせて、口論が始まらなかった場面を見たことがまずない。犬猿の仲――というより、犬猫の仲と言った方がしっくりくる。と、かつてトキくんは言っていた。
毛並みと愛想と面倒見がいいコリー犬と、小柄で無愛想で高飛車なアメリカンショートヘア。
《あぁはいはい。話はだいたいわかりました。けど、メイドと巫女が一緒にする仕事って一体なんです?》
文字通り二人の間に割って入り、口論を手で制す。
ひとまず場を落ち着かせてから質問すると、悠紀姉は口元に指を置いて思案を始めた。
《んーとねぇ……》
年上の女性にこう言うのはどうだろうとは思うけれど、悠紀姉の思案する姿はとても可愛いらしい。大人顔でこういう仕草をするので、可愛らしさが際立つのだろう。
ちなみに、わたしの思案するときに指で口元を掻くクセも、元は悠紀姉の真似から身に染み付いたものだ。
《ここに来る前、私と蒼依ちゃんはね、喫茶店で仕事をしてたの。このカッコで》
《ああうん。それはその通りね》
《…………。――はい?》
悠紀姉の可愛らしい仕草でのトンデモ発言に、蒼依は同意したけれど、トキくんは耳を疑っていた。
《聞こえなかった? あたしたちはここに来る前、太平洋のど真ん中でお月見をするよりも前に、喫茶店のウェイトレスをしてたの。秋葉原で》
《いや、それはわかる》
蒼依が、噛んで含めるように言い直した。でもトキくんが訊き返したのは、聞き取り難かったわけでも、意味がわからなかったからでもなかった。
《じゃあなんで訊き返したの?》
《このカッコでってとこが幻聴かと思って》
蒼依のメイドっぽい姿はまだわかる。
メイド喫茶というものが秋葉原で流行るようになって久しいし、未だにその人気の火は消えてはいない。しかし、巫女姿のウェイトレスがいる喫茶店など……
《知らないの? 普通にあるわよ?》
あるんだ。それはわたしも知らなかった。しかし店員が巫女ということは……
《来店の挨拶は『おかえりなさいませ、神主さま』なんだよー》
やっぱりそうなんだ。
《ちなみにこれは巫女さんじゃなくて、巫女さんっぽい恰好をしたラノベキャラのコスプレで――》
どんどんディープな腐女子的方向へ流れてゆく悠紀姉の説明を聞き流しながら、トキくんは遠い目をしていた。
麻宮家の長女である悠紀姉は、普段は常に笑顔を絶やす事がなく、基本的にゆっくりと話す。それゆえに、のんびりおっとりした印象を見る人に与える。そして同時に、何を考えているのかさっぱりわからないという印象も同時に与えるのだ。
事実このひとは、突然何の前振りも前触れもなく、突拍子もないことを言い出すことが珍しくない。
それを考えれば、外見のイメージに似つかわしくない単語が突然このひとの口から出てきたとしても、何の不思議もない。
《――でね? どうしてそんなお店を始めたかっていうと。今度出すゲームの、キャンペーンなのよ》
そう。たとえばこんなふうに。
《ちょっと待ってください。なんですって?》
今度出すゲームのキャンペーンなんだって。
《昨日、電話で言ってたでしょ。あたしたち、会社を立ち上げたのよ》
《そう言えば……》
昨日、確かにそんなことを言っていた。そもそも今夜のことも、その電話が発端なのだ。
《会社を立ち上げましょうって言われた時は、大して驚きやしなかったんだけど、それが何の会社か聞いたときは、さすがに開いた口がふさがらなかったわ》と、蒼依。
《そう言えば俺も、まだ何の会社かは聞いてなかったな。けど二人の得意分野とか、いまの話の脈絡からすると……ゲームメーカー、それも、パソコンゲームの開発会社……とかか?》
《ええそうよ》
《マジか》
《バリ本気》
悠紀姉と蒼依の得意分野はコンピュータ関係だ。
悠紀姉はコンピュータグラフィックデザインに、蒼依はプログラミングに、それぞれ長けている。
加えて、二人ともSE――システムエンジニアの資格を持っているので、トラブルが生じたとしても、よっぽどのことでない限りは自分たちで対処出来てしまう。
しかし、だからといってゲームを開発出来るかというと、そう簡単ではないのはわたしでもわかる。
《無茶もいいとこよね。今日日、新米ブランドの美少女系のゲームなんて、作ったところで簡単に売れるわけがないでしょ?》
《えー。そんなことないでしょう? ねえ兎季矢くん?》
《いえ、悠紀姉には申し訳ないですけど、それは蒼依が正しいと思います》
《えー? ずるいなあ、外見がルナに似てるからって、蒼依ちゃんの肩持つんだねー。兎季矢くんのいけずー》
《なっ! そ、それとこれとは別ですよ!》
《…………》
トキくんは思わぬところにツッコミが入って焦っていた。蒼依は無言。見ると、目を細めて沈黙している。いつもとは別の意味で表情が読めない珍しいリアクションだ。というより、読まれたくないのだろう。
ところで、彼は気づいているだろうか。今夜の悠紀姉の言動に、あるルールがあることに。
《前にも言ったけど。利益の見込みもないことをするのに何の意味があるの?》
《楽しいじゃない》
《話にならないわ》
トキくんにとっては、一年前までおなじみだったこの光景。そのときの彼ならきっとこの辺で止めに入っている。
わたしは、アルテの身体をひと撫でして、
「アルテ、ちょっとごめんね」
《 あ? 何がだ? 》
「すとぉぉぉ ぉぉおっぷ!」
今回は、彼よりも先にわたしが止めに入った。
「その話は、帰ってから改めてしよう? でないと、時間がなくなっちゃう!」
《 なんだなんだっ? いま何が起こった? 》
トキくんとアルテもろとも、“モメトラ”を使って。