―2―
出逢いの晩からあくる日、立待月の夜。屋上へ出て辺りを見渡すと、トキくんはまだ来ていなかった。さすがに来るのが早かったかと思いながら昨日とは別の場所で月見をしていると、扉が開く音がした。そちらを見ると、トキくんが昨日わたし達がいた場所にいた。そこからはちょうど死角になっていて、こちらは見えない。トキくんはポケットから何か――後で訊いたら、方位磁針だった――を取り出して月とそれとを見比べて、ため息をついていた。そこでわたしは、
「――ぅわっ」
背後から近付き、両手で彼の視界を覆った。
「誰っ? ――あ」
誰も何も。冷静に考えれば、このときこんなことが出来るのはわたし一人しかいないのだけれど。あまりにも突然のことでパニックに陥っていて、本当に誰なのかわからなかったらしい。
それでもトキくんは見事、背後にいる人物が誰なのかを察した。
「遅れてごめん、ルナお姉ちゃん」
「おお凄い。よくわかったねー、トキくん」
トキくんは、背後にいる人物の正体がわたしだと気づいてなぜかすぐ謝った。わたしは軽い調子の感心を返した。
そして次の瞬間。
「でも」
「え? うゎっ!」
彼の視界を覆っていた両手で両肩をつかみ、そのまま回れ右をさせた。それと同時にわたしは膝を折った。
わたしが彼を見上げる格好になった。
「トキくん」
「……な、何?」
このとき、間近で彼を見つめるわたしの真剣な眼差しと、不意にそよいだ風で彼の鼻先をくすぐったわたしの黒髪の香りに、彼の心臓は大きく跳ねたらしい。だけどわたしは、そんな彼の異変に気づきもせずに、ただ不思議そうに首をかしげて、言った。
「どうして、遅れてごめんなんて言うのさ」
「え?」
「わたしはゆうべ、毎晩ここで会おうねっとは言ったけど、待ち合わせ時間までは決めてなかったよね? なのにどうして、遅れたと思ったの?」
「それは……」
彼の“声”は、わたしに言われて初めて、そういえばそうだったと気づいて、自問していた。
「待ち合わせの時間を決めなかったのは、昨日出会った時刻が待ち合わせの時間だからなのかと思って……」
と言いながら、心の中では、きっと反論される。とビクビクしていた。なぜそんなに怖がっているのだろう。
「そうだったの?」
わたしは、彼の“声”を不思議に思いながらも、何の疑いも持たずに彼の言葉をただ信じた。
「う、うん。それなのに今夜、その時間に間に合わなくて、お姉ちゃんを待たせちゃったのが申し訳ないなと思ったから……その――」
それ以上言葉が見つからなかったらしく、後が続かなくなったところでわたしは感極まり、叫んだ。
「トキくん!」
「は、はいっ?」
「キミってば、男の子の中の男の子だ!」
「いきなり何を言ってるんぐっ」
なんと心根の優しい子なのだろう。わたしは立ち上がり、叫んで彼を褒めると同時に勢いよく抱きしめた。
それから数秒後、腕の中で彼の身体が脱力するのを感じた。
「あれ? トキくん?」
声をかけても返事がない。おかしいなと思って腕をほどいてみると。彼がその場に崩れ落ちるように倒れ込んだので慌てて抱き起こした。
「トキくんっ? 大丈夫っ?」
呼び掛けても返事がない。どうやら、気を失ったようだった。顔を見ると鼻から出血していた。ふと自分のパジャマを見ると、胸元辺りに血がついていた。
「えーと。これはつまり……」
当時はわたしの方が彼より背が高かった。二人が並んで立つと、彼の頭のてっぺんはわたしの鎖骨の下くらいにあった。それだけの身長差があるわたしが真正面から彼を抱きしめると、必然的に彼の顔はわたしの胸に当たる。
こういうことに免疫がない彼は途端にのぼせ上がり、鼻から出血して一時的な貧血を引き起こして気を失った。――ということかな。
「わたしのせいか」
これは大変だと思いながらもわたしは慌てず騒がず、とりあえず止血の応急処置として彼を横に寝かせ、うつむき加減に膝枕をして、小鼻の部分を親指と人差し指で強めにつまみ、彼が気がつくまでしばらくその格好でいた。
看護師の資格や医師免許を持つ母親がいると、こういったもしもの時の知識が役に立つ。実践したのはこのときが初めてだったけれど意外と冷静に対処できた。
「――ん、ううん……あれ?」
「あ、よかった。気がついた?」
「え、ルナお姉ちゃん? 僕はどうしてここに?」
「あ、まだダメだよ。血が止まるまでは安静にしてて」
状況を理解出来ていないまま起き上がろうとするトキくんを手で制し、再び膝に寝かせる。
「ごめんね、驚かせちゃって。トキくんがそんなに初だとは知らなくって」
「うぶって何が? 僕は、屋上に来て、お姉ちゃんに後ろから目隠しされて、謝って、回れ右されて、その理由を聞かれて話したら、うすみどり色の闇が目の前に迫って来て、それで――ああ、そうか。それで気絶したんだ。あ、お姉ちゃんのパジャマに血が付いてる。僕の鼻血のせいだね、ごめんなさい」
「いいんだよこれくらい。でも良かった、気がついて」
それからわたし達は、お互いのことを話し合った。これまでのことや、これからのことまで。家族の中で父親が苦手なこととか、周りに対して劣等感を抱いていることとか知って、さっきわたしの反応を怖がっていた理由がわかった気がした。彼はこれまで周りから、自身のことや自身の意見を否定され続けてきて、それに慣れてしまったんだ。漏斗胸のことや手術を怖がっているのは“テレパス”で知っていた。彼には、退院したらあれをしようとか、夢というものがなかった。
わたしの方は、仲の良い姉や妹がいることや、何かと意見が対立しやすいけれど仲が悪いわけではない両親がいること、肺の病気でいまここにいるけれど退院したら上京して声優になりたいんだという話をして、その晩は別れた。
さらに翌日の、居待月の夜。この日もわたしの方が早く、屋上に来ていた。トキくんが扉を開けて「あ、ルナお姉ちゃん、こんばんは」と笑顔で言ってすぐにわたしは「ごめんなさい」と謝った。
「え、な、何が?」
当然、トキくんは困惑していた。
「わたしね、明日にはもうここに来れなくなるの」
「え、どうして?」
「明日、札幌の病院に移ることが決まったから」
「……そうなんだ。それは、淋しくなるなあ……」
理由を話すと、外に出ながらトキくんは残念そうに肩を落とした。
「『毎晩会おうね』って言っておきながら急にこんなことになっちゃって、本当にごめんなさい」
「ううん、たぶんルナお姉ちゃんがよくなるためのことなんでしょ? だったら仕方ないし、お姉ちゃんが謝ることじゃないと思う」
そう言いながら、弱々しくも、笑顔を見せてくれた。やさしいなあ。
「ありがとう。でもそれだけじゃなくてね? 他にも言っておかなきゃならない事があるの。聞いてくれる?」
「うん、もちろん。なに?」
「あのね、信じられないとは思うけれど実はわたし達、わたしとその家族は『ツキビト』といって、月の内部にある都の一族の子孫なんだよ。ツキビトは超能力とは違う、魔法というのもピンと来ない。だから能力と呼んでいる、異能を持ってるの」
「ツキビト? チカラ?」
おそらく初めて聞くだろう単語にトキくんは、首を傾げた。
「そう。超能力者や魔法使いのようにいつでも使えるわけではないチカラ。なぜならその源は月の光だから」
「月の光」
「そう。だから、使えるのはほとんど夜だけ。曇っていても雨降りでも、月が空にある間は使えるけれど、日中にはまず使えないの」
「どんなことが出来るの?」
「人の心の声を聴けたり、超能力でいうところの念動力だったり、人や物を瞬間移動したりさせたり。念動力を応用して、魔法使いみたいに空を飛べたり。それくらいかな」
母さんくらいになると、機械や気象に干渉出来たりするけれど、そこまでは言わないでおいた。
「人の心の声を聴けたり……」
「どうかした?」
何か頭に引っ掛かったのか、その部分だけ復唱する。
「ううん、なんでもない。でもすごいね」
「うん……だから、ごめんね?」
「何が? なんで謝るの?」
わたしが謝る理由がわからずに、また首を傾げる。
「言ったでしょう、人の心の声が聴けるって。だからトキくんのことも、転院してきた時から勝手にトキくんの心の声を盗み聴きしてて、出逢う前からある程度知っていたの、わたし達。ここで出逢えたのも偶然じゃないんだよ。意図的なことだったの。黙っててごめんなさい」
“テレパス”は人の心の声を受信するラジオのようなものではあるけれど。それは心の声を聴かれていることをわかっていればの話であって。聴かれていることをわかっていない場合は、人の心を盗み聴く、盗聴器となる。プライバシーの侵害だ。それを謝りたかった。謝るべきだと思った。
ところが。その事と、わたし達の出逢いが、ある人からの依頼で仕組まれたものであったことまで打ち明けたわたしに対するトキくんの反応は、わたしの想定外なものだった。
「そうだったのか。やっとわかった。だから一昨日、僕より先にここに来て月光浴してて、初対面のはずなのに、もう知り合いみたいに接してくれたんだね」
謎が解けてすっきりしたというような表情をして、そう言った。そして次の言葉は、想定の範囲からとんでもなく飛び抜けていた。
「でも驚いたな。人の心の声が聴こえる人が、僕の他にもいたんだ」
わたしも驚いたよ。
「思い返してみれば確かに、空に月がある時にしか聴こえて来なかった。昼間は特に、空に月が白く浮かんでいる時に聴こえてきた。ずっと幻聴なのかと思っていたけど、月の光が源のそういう能力だったのか、知らなかったよ」
「ちょ、ちょっと待ってトキくん。キミも、“テレパス”が使えるの?」
わたしは慌てた。母さんも都さんも、そんな事前情報はくれなかった。きっと二人してわたしに隠しておいて、驚かそうとしていたに違いない。
「そうみたいだね。自分じゃわからなかったけど、お姉ちゃんと同じ――チカラ? が使えるみたい。ずっと幻聴だと思っていて、人に近づくと聴こえてくるから、なるべく人を自分から遠ざけてたんだ」
当時のトキくんはまだ、妹の蒼依と同じように、聴き取る“声”を選び取ることが出来ずにいた。近くにいる人みんなの“声”をすべて拾ってしまう状態にあった。
「じゃあ、ツキビトのお話は知ってる?」
「それはよく知らない」
「じゃあ教えてあげる。その昔、月に居て不老不死の身でありながら、この星に降りてこの星の人間と恋に落ちたがゆえに不老不死を失くしたツキビトがいたの。わたしとその家族は、そのツキビトの子孫。だから、月明かりを源としたチカラが使えるんだ。そして、そのツキビトと恋に落ちたこの星の人間の子孫もまた、ツキビトと同じチカラの種か苗を、生まれながらにして持ってるんだよ」
「じゃあ、僕がそのツキビトと恋に落ちたこの星の人間の方の子孫ってこと?」
「そういうことに、なるかな」
この説は、十三年後に覆されるのだけれど。わたしも知らなかったけれど。わたし達は、母さんや都さんに仕組まれたようで実は、出逢うべくして出逢ったのかもしれない。
「僕からも、ルナお姉ちゃんに言っておきたいことがあるんだけど、聞いてくれる?」
「もちろん、何でも聞くよ。なあに?」
「うん。あのね、ろうと胸の手術、してもらうことにした」
「そうなんだ。手術、怖くなくなったの?」
「怖いよ。怖いけど、手術しないでいたら、もうルナお姉ちゃんと会えなくなってしまうもの。そっちの方がもっと怖いから」
「そっか。手術してもらうって決めたんだ。えらいね」
トキくんの歳が蒼依と同じせいか、ついお姉さん風を吹かせてしまう。
「うん。それでね? 手術した後から退院するまでしばらくは車椅子での生活になっちゃうんだって。そうするともうここには来れなくなるから、お姉ちゃんにその事を話そうとしたんだけど……お姉ちゃんもここに来れなくなるんだったら、お相子だね。良かった」
そう言って、花の咲くような笑顔を見せてくれた。
手術を受ける気になってくれたのは、良かった。と安心した。都さんからの依頼が、まさにそれだったから。
でも依頼とは関係なく、本当に良かったと思った。
母さんや都さんによると、漏斗胸とは胸郭の一部が凹んでしまう疾患であり、
胸壁が肺および心臓を圧迫するために、心肺機能が低下する。陥没の程度にもよるけれど、たとえば肺活量は十~二十パーセント低下する。このため、有酸素運動を行うと、すぐに息切れがするなどの症状がある。それ自体が命にかかわる疾患ではないものの、手術を受ける決心をしてくれて本当に良かった。
「本当、お相子だね。でも、これでさよならじゃないよ? まだ繋がっていられるし、きっとまた会える」
「本当? 退院して札幌と富良野に離ればなれになっても、また会える?」
わたしは精一杯の笑顔で、トキくんは満面の笑みで。お互いに最後の挨拶を交わした。
「うん。だから、さよならは言わないよ。またね、トキくん」
「うん。またね」
二人は、握手を交わして再会を約束して、それぞれの病室に戻った。