第五話 『振り返ったらあかん』
いまだにむせび泣いている『親友』の鳴き声、もとい泣き声に混じり、人だかりから話し声が聞こえてくる。
「ナントカのアレって……あの人、たしかにそう言ったよな」
「マジかよ。ナントカのアレって、実在してたのか?」
「だとしたら、世界はとんでもなく大変なことになるぞ」
「たしか、ナントカのアレって、世界をひっくり返せる力を持っているんだよな?」
「ああ、なんてことだ! このままじゃ世界は終わっちまう!」
「いや、ちがう。ナントカのアレは、むしろ世界の希望なんだ。もし、それが手に入れば、この世界は……」
「テメエ、何言ってやがる! ナントカのアレは人がふれていいもんじゃねえんだぞ!」
「ちがう! ナントカのアレは、人の手にこそあるべきものなんだ!」
「ママぁ、ナントカのアレって、なぁにぃ?」
パァンっ!(平手打ちの音)
「そんな言葉、言ってはいけません! ああ、天にまします創世の父よ、地に遣われし救世の子らよ、どうか、どうかこの子だけは……」
とまあ、みなさん思い思いの反応をされている。
中には狂ったようにスマホを操作している人もいた。この集団催眠とも集団ヒステリーともつかない異常現象を撮影しネットにアップしているのだろうか。
もしそうなら、やめてくれ。
その渦中にいるのは、おれなんだから。
もしかしたら、これはドッキリなのかもしれないな。最近のテレビは無節操なことに一般人でも容赦なく襲ってくるから、その可能性はゼロではないだろう。
少なくとも、この状況が本当の意味で現実に起こっているという可能性よりは高いはずだ。
なんてことを考えていた時、背後からこちらへ向かって猛烈な勢いで接近してくる足音が聞えた。
ただならぬ気配を感じて振り返ると、上品な身なりをした老婦人が日傘の先端部分をこちらに向け、敵陣めがけて突撃してくる騎士のごとく突っ込んでくるのが見えた。
丁寧にセットされた白髪と、今にも飛び出さんばかりに見開かれた二つの目玉、飢えた畜生のごとく剥き出しになった歯が視界に飛び込んでくる。
同時に、鼓膜を切り裂くような鋭い奇声が聞こえた。
「きえええええええええええええええええええええええええええ!」
殺意の塊みたいな婆さんは、確実におれを仕留めようとしていた。
「うおおおおおおおいっ!」
日傘の先端が突き刺さる寸前におれは身をよじらせ、婆さんのランスチャージを回避した。
婆さんは数歩進んだところで立ち止まり、今にも絶命しそうな感じで激しく息を切らしながら、こちらへ振り向く。
互いに目が合った瞬間、婆さんは叫んだ。
「しょ……しょ……しょにょ男をををっ! きょ、きょきょっ、きょろしぇえぇぇえええっ!」
限界まで口を開けて叫んだためか、途中で婆さんの口から唾液にまみれた入れ歯がごろりと転がり落ちた。
いや、重要なのはそこじゃなくて。
おそらくこの婆さんは、その男を殺せ、と言いたかったのだろう。
で、その男というのは、疑いの余地もなく、おれを指しているわけで。
…………うん。なんで?
「ババア、てめえふざけんな! いったいおれが、何をしたっていうんだ!」
おれの怒りと反論はいたってまともなものだろう。
だが残念なことに、おれのまわりにいる人々はまともではなかったらしく、混乱は拡大し続けていた。
広場のいたる所から怒号が轟き、狂気と混乱の風が吹き荒れ、暴力の火花が散った。
婆さんは呼吸困難を起こしたらしくぶっ倒れた。
一方で、『親友』はまだ慟哭の涙を流している。
まるでテロでも発生したかのように、広場は騒然としていた。
そんなおれの考えに同調するかのごとく、広場の近くにあったショッピングモールから爆発音が轟いた。
全身を揺さぶるような衝撃波を感じた時、ショッピングモールの最上階から無数のガラスの破片が落ちていく様子が見えた。日の光を受け、ガラス片は美しく輝いていた。その下にいなくてよかったと心から思う。いたらたぶん、死んでただろうから。
混乱はさらに加速し続ける。平穏や秩序なんてものは、すでに跡形もなく壊れていた。
「あいつだ! あのガキがすべての元凶だ!」
どこからともなく声が聞こえる。
もうこれ以上、考えることはないだろう。
この意味不明な状況から逃げるように、おれは全力で走った。
広場を抜け、中央公園へ続く道を走る。
公園は広大な山林地帯と隣り合っているから、そこへ潜り込めばなんとか身を隠すこともできるだろう。
置き去りにした『親友』のことが気がかりだったが、もはやどうすることもできない。
でもまあ、大丈夫だろう。
狙われているのは、おれなのだから。
どうしてこんなことになったのか、まるで理解できない。
神様が目の前に現れて理由を説明してくれても、やはり理解できないだろう。納得もできない。あまりにも理不尽すぎる。
何かが、何かが狂ってしまったんだ。
おれが、ナントカのアレと言った瞬間から。
ちくしょう。
無我夢中で全力疾走しつつ、止められない衝動を吐き出すように、おれは叫んだ。
「ナントカのアレって、なんだってんだよおおおおおおおおおおおおお!」