名前のある世界
誰かに体を強く揺さぶられ、おれは目を覚ました。
そばには不機嫌そうな顔をした壮年の男性が立っていた。
「お客さん、降りて下さい。終点ですよ」
そう言われ、ここがバスの中で、目の前にいるのが運転士であることを理解した。
そうだ。
たしかおれは、気分転換に外へ出かけて、センター街行きのバスに乗ったんだ。
そしてそのまま眠ってしまって。
それで……。
「お客さん、早く降りてもらえませんか」
「あ、す、すいません」
ひざの上に乗せていたショルダーバッグから定期入れを取り出し、通学定期を見せる。
運転士は一目見ると、早く出て行けという風に出口の方へ目を向けた。
おれは逃げるようにバスの外へ出る。
遠ざかっていくバスを眺めながら、うんざりした気持ちを吐き出すようにため息をつく。
悪いのは眠りこけていたおれだけど、だからってあんな態度はないだろう。
もしかしたら、あの運転士が運転するバスで通学することになるのかもしれない。
そう思うと気が重くなった。どうせなら若い女性の運転士がいい。バス会社に要望書でも送ってみるか。まあ、クレーム扱いされて問答無用でシュレッダー行きだろうな。おれのささやかな願望なんて、世間からすればその程度の扱いなのさ。
気持ちを切り替えるように、おれは空を見上げる。
春らしい晴れわたった青空が広がっていた。
うん、いい天気だ。夜にはきっと、きれいな星空が見られるだろう。
バス停を離れ、市営鉄道の駅と百貨店の間にあるアーケードを通り、ショッピングモールへ続いている広場に出る。
その時、百貨店のほうから鐘の音が響き、オルゴールのメロディーが聞こえた。
振り返ると、百貨店のエントランス前に人だかりができているのが見えた。どうやら午後三時ちょうどになったらしく、エントランスの上に設置されている大きな仕掛け時計が動き出したようだ。
せっかくなので見ていこうと、人だかりに加わる。文字盤からは動物や小人などのファンシーな見た目の人形が次々と現れ、オルゴールが奏でる『ちいさな世界』のメロディーに合わせて動き出した。近くにいた子ども達ははしゃぎ声を上げている。
なんとも平和な光景だ。
人だかりの中に『彼』の姿を見つけたのは、まさにその時だった。
『彼』はおれに気づいてないらしく、じっと仕掛け時計を見上げている。
なのでおれは、気づかれないうちにこの場から立ち去るということもできた。
『彼』とはかれこれ十年くらいの付き合いがあるし、今年の春からも同じ高校に通っているのだけど、様々な事情があって中学校の卒業式以来一度も会っていない。
会ったところで、どうすればいいかわからない。
きっとそれは『彼』も同じことだろう。
だから……。
いや、ちがうな。
会わなかったんだ。
おれは『彼』から逃げていたんだ。
今の『彼』とどう向き合えばいいか、わからないから。
でも、だからって、いつまでも逃げているわけにはいかないんだ。
オルゴールのメロディーが終わり、人形達も時計の中へ帰っていく。
見物していた人達はそれぞれの場所へ向かって歩き出した。
『彼』はおれに気づかないまま、バス停へ向かって歩き出す。
おれは『彼』のそばへ行き、声をかけた。
「ひさしぶり」
『彼』は立ち止まり、おれのほうを見て、少し驚いたような表情を浮かべた。
「あ、ああ……。ひさしぶり」
「中学校の卒業式以来だな。同じ高校に通ってるのに、変な話だ」
「そうだな」
「毎年行ってた桜まつりも、今年は一緒に行けなかったし」
「そう、だな……」
どことなくぎこちない笑みが『彼』の顔に浮かんでいた。
たぶん、おれの顔にも同じようなものが浮かんでいるのだろう。
顔はやけに熱く、背中には冷たい汗がにじんでいる。腹は重い痛みを感じていた。
こんなふうに『彼』と向き合うことが、嫌で嫌でたまらなかった。
だからおれは、おれ達の間にある溝だか壁だかを、なくさなければならない。
もう一度、『親友』としての絆を結ぶために。
今のおれが望んでいることは、それなのだから。
「あのさ、おれはうれしいよ。またお前と同じ学校に通えることになって」
「…………」
「お前にとって今は、望んでいた未来とはちがうものだって、わかっている。だから今までなかなか言い出せなかった。お前を傷つけてしまうって思ったから。でも、これだけはどうしても言いたいんだ。お前と一緒に高校生活を送りたいから。また、お前と一緒に、前へ進みたいから」
今まで何度も言おうと思っていたのに言えなかったことが、なぜかこの時は自然に言うことができた。
どうしてだろう。
たまたまここで出会ったことに運命や宿命の力を感じたからだろうか。
それとも春の穏やかな陽気や、豊かな緑の薫りを運んでくれる春風のおかげだろうか。
はっきりしていることは、おれは確かな意思を持って、今の言葉を言ったということだ。
しばらくの間、おれ達は互いに何も言わなかった。
駅の改札口を出入りする人達や、すぐそばの広場を歩く人達の足音や話し声が、おれ達の間にある沈黙を埋めていく。
『彼』はまっすぐにおれを見て、その沈黙を破った。
「おれはお前がうらやましかった。お前は自分が望んだ道に進むことができたから。そんなお前と一緒にいることが、苦しかった。だからおれは、お前から逃げていたんだ。でも、最近になって、そうじゃないってわかった。おれはお前のことを、心のどこかで見下していたんだ」
『彼』の視線がわずかに下がる。
おれは『彼』の決意にこたえるため、言葉を待つ。
「小学生の頃から、おれはお前より勉強も運動もできた。だから、お前の先に進んでいることは、おれにとって当たり前のことだったんだ。だけどお前はどんどん追いついてきて、高校も同じになって、でもおれは、お前みたいに成長できなくて……。だからお前を見ていると、自分の限界を思い知らされてるような気がして、怖かったんだ」
『彼』は小さくため息をつき、かるく首を振った。
「お前のことをそんなふうに見てしまうおれ自身を、おれは許せなかった。お前とは十年来の付き合いがあるっていうのにな……」
「そんなの、べつにどうでもいいさ」
「……え?」
「お前はおれの親友だ。これまでも、これからも。そうだろ? おれは、それで十分だ」
それがおれの正直な答えだった。
『彼』は戸惑いながらも、もう一度おれの目をしっかりと見た。
「ありがとう……。また、がんばってみる。今度こそ、望んだ道へ進めるように」
「おれもがんばる。がんばって、お前と一緒に進んでみせる」
おれ達は互いに笑みを浮かべる。
それはさっき浮かんでいたような曖昧なものではなかった。
『彼』にしても。
そしてきっと、おれにしても。
「とりあえず、まずは親とちゃんと向き合ってみるよ。ここしばらくの間ろくに会話してないし、父親にいたっては一か月近く顔を見てないしな」
「知ってる。大変だな」
「なんで、知ってるんだ? そのことをお前に話すのは、これが初めてのはずだぞ」
「え?」
「え?」
たしかに『彼』の言う通りだ。
その話を聞くのはこれが初めてのはずなのに、どうしておれは知っていると言ったんだ?
頭のすみや心の奥に何かが引っかかっているような気がした。
だけど、それが何なのかはわからない。
「いや……。なんとなく、そんな気がしたんだ。変だな、初めて聞くことなのに」
『彼』は何かを考え込むように口を閉じる。
「まあ、いいか。とにかくおれは、今後のことについて親としっかり話してくる。今までのことに決着をつけてくるよ。そうしないと、前へ進めないからな」
「そうか。がんばれよ」
「ああ。なんたっておれの、いや、おれ達の戦いは、まだまだこれからだからな」
『彼』はバス停に向かって走り出す。
その背に向かって、おれは叫んだ。
「ハジメ! また明日、学校でな!」
ハジメは立ち止まり、こちらに振り返って片手を上げ「おう!」とこたえた。
「またな、アキラ!」
そしてハジメは再びバス停へ走り出す。
その姿を見送ったあと、おれは広場へ向かって歩き始めた。
そうだ。これでよかったんだ。
これでおれも、やっと歩き出せる。
次回で最終回です。




