第一話 『知らぬが仏ってやっちゃ』
体をそっと揺さぶられ、ぼんやりと目を覚ます。
「お客さん、終点ですよ。はよ起きて下さいな」
若い女性運転士が、おれのそばに立っていた。
「ああ、すいません……すぐ降ります」
おれは運転士さんと一緒に出口へ行き、ショルダーバッグから定期入れを取り出して通学定期を見せる。
運転士さんは通学定期とおれの顔を交互に見る。
「へえ。お客さん、あの学校の生徒さんなんですか。ほな、えらい勉強できるんですねぇ」
やわらかみのある口調の関西弁で運転士さんは言った。
「あはは、いやいや、それほどでもないっすよ」
「じつはですね、私も昔この学校に通っとったんですよ」
「え? そうなんですか。じゃあ運転士さんはおれの先輩ってことになるんですかね」
「いえ、ちゃいます。私は卒業生やないですから」
「でもさっき、通ってたって……」
すると運転士さんはにんまりと笑みを浮かべた。
「生徒としてではなく、職員として通っとったんです。通学やのうて通勤ですわ。学校に通うんはなにも生徒さんだけやないんですよ。お客さん、まんまとひっかかりましたねぇ」
あっはっは、と運転士さんは面白そうに笑った。
「通勤ってことは、先生だったんですか?」
「そこらへんはちょっと伏せますわ。まあ、学校におる大人は先生だけやありません。事務員も校務員もおります。正規雇用の職員もおれば非正規雇用の職員もおりますし、担任の先生が教員採用試験に合格しとらんってこともようあるんですよ。あ、ちょっと話それましたな。ともかく、私がその学校に勤務しとったんは事実です。ええ学校ですよ。生徒さんは真面目でおとなしいですし、可愛い女の子もけっこうおりますし」
「そこはかとなく期待感が高まる情報ですね」
「ただねぇ、教師はクソばっかですよ。あそこはゴミくずの掃き溜めです。ゲロくさい偽善者と調子こいたチンピラしかおりませんわ。あ、潜在犯も少々おりましたな。ほんまに、思い出しただけで反吐が出まっせ」
その口調からは、触れてはならない闇のようなものがひしひしと感じられた。
それでも営業スマイルは微動だにしないのだから、社会人とは恐るべき人種である。
とりあえず、早いとここの場から去ったほうが身のためだろう。
おれは適当に相づちを打ち、適当に愛想笑いを浮かべながらバスを出た。
道路に降りたとき、運転士さんは言った。
「グッドラック、お客さん。素晴らしきハイスクールライフがあらんことを」
振り返ると同時に自動ドアは閉まり、バスはゆっくりと走り出した。
あれだけ言っておいてグッドラックとかよく言えたものだな……。
おれは半ば呆然とし、半ば感心しながらバスを見送った。
もしかしたら今後の高校生活で、あの運転士さんが運転売るバスに乗って通学することになるのかもしれないな。
……うん。なんか、複雑な気分だ。見た目は親しみやすい美人さんという感じだけど、その内側には底知れぬ何かを秘めていそうで、対応に困る。
まあ、考えてもしょうがないか。
少しでも前向きな気分になろうと思い、おれは空を見合上げる。
世界の平和を象徴するかのような穏やかな青空が広がっていた。山林地帯の中につくられたニュータウンであるだけにここの空気はそこそこ美しく、今日のような穏やかな春の日和には特に空がきれいに見える。
よし、と小さくつぶやき、すぐ近くに見えるセンター街へ向かった。