~在りし日の世界~
夕暮れ時の公園の風景が、目の前に広がっている。
こぢんまりとしたすべり台と砂場。
ペンキがはげかかったブランコ。
ウサギやパンダなど動物の姿を模した遊具、ジャングルジム。
それらを眺めているうちに、ここが自宅の近所にある公園だということに気づいた。
すぐそばには街路樹に囲まれた遊歩道が通っていて、公園の隣には公民館の建物も見える。
公園では、何人かの子ども達が楽し気に声をはずませながら遊んでいた。その中の二人には見覚えがあった。服を泥だらけにして遊んでいるその二人は、在りし日のおれと『親友』だった。背格好からして、小学校一年生か二年生といったところだろう。
そうだ。
その頃は飽きもせず毎日のようにこの公園で遊んでいたんだ。
家と学校と公園が、おれにとっての世界のすべてだったんだ。
それだけで十分に生きていられた。
今、当時を振り返ってみると、単純に、そしてまっすぐに生きていたということがよくわかる。
生きるということを特に意識していたわけでもなかったのに。
この頃のおれは、生きていることになんの迷いも感じなかった。
どう生きればいいのか、どう生きなければいけないのか、どう生きるべきなのか。
そういうことが頭になかったからだ。
そういうことを考えるようになってからなのだろう。
生きるということを、重苦しく感じるようになったのは。
すべり台の近くにある時計の針が午後五時を示す。
夕焼け空の彼方から時報のメロディーが流れてきた。郷愁を感じさせる『家路』のメロディーだ。
これを合図とするように一人、また一人と子ども達が帰っていく。
彼らの中には、どこか見覚えがあるような気がする子どもも何人かいた。おそらく、かつて友達だった人達なのだろう。
今でも彼らと交友があるかどうかはわからないけど。
なかにはけんか別れしたり転校したりして、縁が切れてしまった人もいるかもしれない。
遠ざかっていく彼らの姿を見ていると、なんとなくそう思えてきた。
思い出せなくなったとはいえ、おれにも十五年間の人生がある。
出会いや別れもそれなりに経験しているはずだ。
やがて、公園に残っているのはおれと『親友』の二人だけになった。
しかし二人とも帰る気配がなく、砂場で遊び続けている。『親友』は霧吹きや木の枝を使ってやたらとクオリティの高い砂の城をつくり、そばにいるおれは完璧な球形を再現するべく泥団子づくりに精を出していた。なぜこんなことにそこまでの情熱を注げるのだろうか。
「まったく、どうせ明日になったら全部消えてなくなっているだろうに」
「けれどこれは、あの子たちにとって今この瞬間にしかできない大切なことなのよ」
「たしかにそうかもしれないけど……、って、ええ? なんで君がここにいるのさ?」




