第三話 『まあ、考えてもしゃあないわな』
自宅から十五分ほど歩いたところでバス停に到着する。時刻表によると、あと五分ほどでバスが来るらしい。日曜の昼時には三十分に一本しかバスが来ないので、ちょうどいい時間に来れた。
プラスチック製の古ぼけたベンチに腰を下ろし、背すじを軽く伸ばしてあくびをする。
目の前には見慣れた街の風景が広がっていた。空は気持ちいいまでに青く晴れわたり、日差しはぽかぽかと暖かかった。
平凡と平穏が仲良く入り混じったような場所に、おれはいた。
そんな場所で、おれはもう一度考える。
おれはこれから、どうすればいいんだろう。
この春からおれが通う高校は、それなりにレベルが高くてほどほどに歴史と伝統があるまあまあの学校だ。二年前まで姉が通っていた学校でもあるため、両親もおれがそこに通うことになれば、いろいろと都合がいいと考えていた。しかし、中三になるまでのおれの成績では合格は厳しく、志望校としてはまったく考えていなかった。
そんなおれを変えたのが、去年の三月に姉が言った言葉だった。
「あの学校にはね、清楚で可憐で上品でおしとやかで初心で世間知らずで可愛いお嬢様系女子がけっこう多いんだよ」
その言葉を聞きいたおれは、即座に言った。
「つまり姉ちゃんとは正反対のまともな女が多いってことか」
姉の正拳突きが腹にめり込んだのは、その直後のことだった。
その時の痛みはもう忘れているが、姉の顔に浮かんでいた美しすぎる微笑みと、その時に感じた恐怖は今でも鮮明に思い出せる。というか、忘れたくても、忘れられない。
それはともかく、おれは姉の母校を志望校として受験に励むことにした。
お嬢様系女子というのも見てみたいし、そういう人たちとの色恋沙汰も経験してみたいと思ったからだ。
姉の言葉が本当だということも知っていた。高校時代の姉は、実際ににそれっぽい感じの友人をよく家に連れてきていたからだ。
中学校で未だに語り草となっているバケモノ女がなぜ、春の野に咲く花のような人達と仲良くできていたのか。当時のおれには理解できなかった。今でも理解できない。
まあそんなわけで、おれは目標達成のため努力を重ね、今年の三月に目標を達成した。
同時に、おれは明確な目標を失ってしまった。
正直なところ、お嬢様系女子が多いという点に心の底からひかれたわけではない。
たんに、受験という通過儀礼を乗り切るための動機らしきものがほしかっただけだ。
そもそもどうすれば女子と接点を持てるのか、仲良くなれるのか、おれにはさっぱりわからない。
色恋沙汰を経験するというのは、目標ではなく願望と言ったほうがいいだろう。
だがそれ以上に、今のおれにはさっぱりわからないうえに非常に重要な課題がある。
高校を卒業したあとのことだ。
家庭の経済事情により、国公立以外の進学はできないということになっている。進学が無理なら就職しかない。それ以外の選択肢はないのだ。
ニートになる、などと家族に言ったらどうなるか。考えただけで死にたくなる。
進学にしろ就職にしろ、いずれも険しい道であることに間違いない。
今のご時世、高卒での就職は厳しいし、そもそもやりたい仕事やなりたい職業もない。
なので進学にしても、どういう学校に進学すればいいのかわからなかった。しかも進学先は国公立限定だ。国公立合格がどれほど過酷なものであるかは、受験生時代の姉を見ていたのでよく知っている。
元気の良さだけがとりえみたいな姉が廃人寸前にまで追い詰められる様子を、おれは間近で見ていたのだ。あの頃の姉の生気を失くした目と、力なく浮かんだ微笑みは、恐怖以上に強い印象をもっておれの頭に焼き付いている。このまま姉が衰弱死するんじゃないかと、おれは本気で心配になったほどだ。
それでも姉は最後まで突き進み、見事に志望校合格を勝ち取った。
今はキャンパスライフと一人暮らしを謳歌している。
まったく、我が姉ながら大したものだ。
そしてなにより、うらやましい。
そこまでがんばりたいと思える動機が、達成したい目標があったのだから。
おれにはそれがない。
これから先、見つかるかどうかもわからない。
今、この時期に、何かをしたいと思うことができなければ、何もできず何者にもなれないまま、おれの人生は終わってしまう。そう思えてならなかった。
あれこれと考えているうちにバスがやって来た。
ベンチから立ち上がり、停車したバスに乗って日当たりのいい窓際の席に座る。
日曜の昼過ぎだからか、ご年配の方々や小さな子供を連れた家族の姿が目立った。
「発車致します、ご注意ください」
男性運転手の、無機質なアナウンスが聞こえる。
やがてバスは、次の目的地に向かって走り出した。
目的地。
あたたかな春の日差しを感じながら、おれは大きくあくびをした。
おれの人生にも、はっきりとした目的地があればいいのに。
でもきっとそれは、自分で見つけなくちゃいけないものなんだろう。誰かに与えられたり、示されたりするものでは意味がない。そういうものでは、納得できないだろうから。
でも、本当に、いろんなことが漠然としすぎている。
自分のことも、世界のことも。
親父の言う通り、人生の指針みたいなものがあればいいのに。
窓の外を流れていく風景を眺めながら、おれはもう一度あくびをする。
……それにしても。
「ナントカのアレって、なんなんだよ……」
自然とつぶやきがもれた。
日の光はあいかわらずあたたかく、道を走るバスは体を心地よくゆらしていた。
やわらかな眠気が、そっとおれの意識を包みこむ。
感覚はうすれ、意識はぼやけ、光はゆるやかに消えていった。