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主題なき春のラプソディ  作者: 青山 樹
第二章 『世界を救わんとする者たち』
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第五話 『あやふやなもんはしゃあないな』

 リビングやキッチンと同じく、風呂場もかなり広々とした豪華なものだった。浴槽は思い切り足を伸ばしてもまだ余裕があり、心身の疲れがお湯の中へ溶け出していくような開放感を味わえた。


 まったく、風呂に入るってのは最高に幸せなことなんだなぁ。

 ……まあ、そんなふうにのんびりとくつろいでいる場合じゃないんだろうけどさ。


 長く、深く、ゆっくりと息を吐き出しながら、今までに起こったことを思い出す。

 ナントカのアレとか、委員会とか、救世の子とか、どれもこれも現実離れしたろくでもないことばかりだった。

 とはいえ、『少女』に出会えたことや、柔らかな胸の感触を背中に感じられたこと、今この時も食事を用意してくれていることなどは、現実離れした幸運と言える。


 そしておれは今日、人生で初めてとなる一目惚れと初恋を体験したのだ。


 これは何よりも素晴らしいことだ。祝福されし天からの贈り物だ。

 今までのごたごたにくっついてきた不幸が光の彼方へ消え去ってしまうほどに、感動的なものだった。


 しかし……、これは本当に現実なのだろうか。


 ナントカのアレから始まった一連の出来事を振り返っていると、どうしても現実感が失われていく。

 そしておれは、ある重要な事実に気づいた。

 

 おれはいつ、どこで、どのようにしてナントカのアレを知ったのか、思い出せなくなっていたのだ。


 まるで、物心がついたのはいつだったのかを思い出そうとするかのように、記憶は不透明な壁に遮られた。それだけではない。ナントカのアレをきっかけにした一連の騒動が起こる前のことも、うまく思い出せなくなっていた。

 故郷のことも、家族のことも、そして自分自身のことも。

 自分の名前すら思い出せない。

 かろうじて思い出せるのは今年の春に高校生になったことと、『親友』のことくらいだった。

 しかしその『親友』の名前も、おれは思い出せなくなっていた。


 こんなことがあるのだろうか。


 世界がおかしくなったかと思えば、いつの間にか自分もおかしくなってしまった。

 何よりも気味が悪いのは、過去の記憶を思い出せなくなったというのに、心のどこかでは落ち着いているということだ。

 まあどうでもいいか、そのうち思い出すだろ、過去じゃなくて未来を目指そうじゃないかなどなど、そういうダメな方向のポジティブ思考に入ろうとしているのが自覚できる。

 深刻に考えたところでどうにもならないのかもしれないが、少しは危機感を持たなければならない状況なのは確かだろう。

 頭ではわかっている。でも、本能はそれを受け入れようとしていない。


 もとからそういうタイプのダメ人間だったのかもしれないけどさ……。


 あれこれと考えていると、浴室のドア越しに『少女』の声が聞えてきた。


「食事の用意ができたわ。冷めないうちに早く食べに来て」


 わかった、と返事をしようと思ったが、うまく声が出なかった。やはりそれなりのショックを無意識的に受けているのかもしれない。

 返事がないことを不審に思ったのか、『少女』は当然のように浴室のドアを開けた。


「生きているのなら、返事くらいしてちょうだい」


「ああ……。えっと、ごめん。ちょっと考えごとをしてたっていうか、大事なことに気づいたっていうか」


「記憶のことでしょう?」


「ど、どうしてわかったの?」


 おれは思わず湯船から立ち上がり、『少女』と向かい合う。

 状況が致命的なものだと自覚したのは、全てが手遅れになった直後のことだった。


 『少女』は少し目をまばたかせたあと、今まで通りの落ち着いた口調で言った。


「それはとても大切なことだから、食事がすんだあとにゆっくりと話しましょう」


 『少女』はドアを閉め、リビングへ戻っていった。

 おれは力が抜け落ちたかのように湯船に身を沈め、いろいろな意味で気持ちが落ち着くのを待った。


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