プロローグ
◇◇
――ジャー……。ジャー……。
なぜ顔を洗うだけなのに、洗面所の蛇口を全開にしているのだろうか……。
それは執拗にまとわりつく『声』を打ち消したいからだ。
――ワスレルナ。憎しみを忘れるな。呪いを忘れるな。
と……。
そして、何度も、何度も顔をすすぐ。
そしてそのたびに鏡に映った自分の姿を覗き込むのだ。
憎悪、焦り、恐怖、困惑、後悔……。
様々な『負』の感情が入り混じった、醜い顔。
こんな顔じゃなかったはずだ。
どうしてこうなってしまったのだ。
心の奥底に封じられている良心が問いかけてくる。
しかし、その小さな声は、なおも頭に響き渡る声によって塗り替えられるのである。
――殺せ。ここに、最後の一人が帰ってきたところで……。
もういいや……。
この声に全てを委ねよう……。
肩の力をふっと抜くと、腹の底から再び漆黒の業火が燃え盛る。
そして完全に心の中が闇の色で染まったところで、『声』はとどめを刺してきたのだ。
――全員を殺せ。そしてあなたも死ぬ。それがあなたが望んだことなのだから。
と――
◇◇
突然だが、みなさんは『守護霊』と『生きている人』を見分けることはできるでしょうか。
ここ『ファミリーセブン南池袋店』は、お客様が二人一組で来店してくることが多い。
それは『守護霊』と『生きている人』の二人。
でも、私にはまったく区別がつかないの……。
街中で目にする守護霊は半透明だが、このコンビニでは不思議な力によって、完全に実体化しているのが原因だ。
でも、そんなのは単なる言い訳。
残念ながら、単に私が未熟なだけだ。
――あら、まあ! 麗ちゃんは巫女なのにねぇ。あっ、まだ『見習い』だったのを忘れてたわぁ! ほほほ!
と、アヤメに散々いやみを言われ続けているが、ぐうの音もでない。
さらに都合が悪いことに、完全に実体化した守護霊は、お店の商品を手に取ることができるのだから困ったものなの!
守護霊が見えない人にしてみれば、勝手に缶ジュースが足元に落ちてきたり、雑誌の位置が変わったりしているのだから、
――あのコンビニ、『出る』らしいよ。
と、噂話が広まるのも無理はない。だから極端に客足が鈍いのだ。
もうこれ以上お客様が減れば、いよいよ経営が立ち行かなくなる。
いや、今でも経営が成り立っているとは思えないほどではあるが……。
そこで私たち店員は、普通のコンビニのお仕事に加え、守護霊たちがいたずらをしないように監視する役目も担っている。
だからここの採用条件の一つが『霊が見えること』なのだ――
………
……
この日は夕方5時からのシフト。
まだ西陽が眩しい中、私はレジカウンターに立って、お客様をじっくりと観察していた。
まず目に入ってきたのは、スイーツのコーナーにお姉さん二人だ。
私は一人を指差して、隣のアヤメへ自信満々でささやいた。
「あの人は生きてる!」
「ぶっぶー。はずれぇ」
手を交差させるアヤメに対して、私は口を尖らせる。
「うそっ! だってあのお洋服は、今流行りの『昭和ファッション』だよ! 守護霊は亡くなった頃の服装をしているんでしょ!?」
「ふふ、じゃあ彼女は『昭和』に亡くなったってことねぇ」
次に雑誌のコーナーにいるチャラチャラしたお兄さんと強面のおじさん。
そのうち、おじさんの方を指差した。
「あの人は死んでる! あのよれよれなスーツから『昭和の企業戦士』を感じるわ!」
「ふふ、それを本人に言ったら、ものすごく怒られるわよぉ」
「むむぅ……」
二者択一をことごとく外していく私。
がくりと肩を落とすと、アヤメがポンポンと私の肩をたたきながら言った。
「ふふ、ここまで『全部』外すと、かえって清々しいわぁ」
この女狐めぇ! いつかギャフンと言わせてやるぅ!
……と、心の中で歯ぎしりしたものの、こればっかりは自分のいたらなさが原因よね。
だから反論のしようがない。
「ほらぁ、笑顔、笑顔。そんな怖い顔してると、客も男も逃げちゃうぞぉ」
「分かってますっ!」
ぷいっとアヤメから顔をそらす。
と、その時、ゆっくりとやってきたのは店長の鎧屋藤次郎さんだった。
彼は天使のような美しい顔をぐいっと近付けてきてささやいた。
「目を見てごらんなさい」
「目?」
店長の顔を覗き込むと、店長はさらに顔を押し出してきた。
まるで鼻と鼻がくっつきそうなくらいな距離だ。
心臓の鼓動が太鼓を乱れ打つように乱暴に早くなる。
ぐんと体温が上がり、ふわふわと浮き上がったかのような心地に、体の自由が失われていく。
そんな私をよそに、店長は微笑を浮かべたまま続けた。
「霊は必ず人を見ているはずよ。だって守護霊の役目は人を守ることだから」
そこに、店長と入れ違いで音もなく背後に忍び寄ってきたアヤメ。
今までに聞いたこともないような低い声で言ったのだ。
「怨霊の役目は人を呪うことだから……」
と――