伝えたかった『ありがとう』
『仏口』――
それは死者から言葉を預かり、彼らの想いを代弁すること。
目の前の死者は『チコ』。つまり犬であり、人間の言葉で想いを伝えてくる確証はない。
さらに言えば、私は見習い巫女であり、仏口が上手にできる自信もないのだ。
しかし……。
「あらぁ? ごめんなさぁい。見習いちゃんには荷が重すぎたよねぇ。藤次郎なら上手くやれるはずだから、今呼んでくるわねぇ」
という背後から聞こえてくる嫌みったらしい言葉を聞けば、引き下がるわけにはいかない。
「……やってやるわよ。だから黙って見てなさい」
私が突然低い声を出したものだから、お兄さんは私の顔をまじまじと見ている。
だが私は彼の視線など気にもとめずに、ひたすら目の前のチワワに集中した。
――お願い、チコちゃん! 私に『想い』を託して!
チコちゃんが私のただならぬ視線に気付いて、こちらを見上げてくる。
そして視線が完全に一致した瞬間に、奇跡は起こった……。
なんとチコちゃんの『想い』が、まるで清流のように流れ込んできたのだ。
すごく熱くて重い……。
小さな体なのに、こんなにも大きな想いを持っているなんて想像していなかった。
それでも、ただ一つだって漏らすわけにはいかないわ!
だって、その想いは全部お兄さんに向けられた『愛』のメッセージなのだから――
私は目をつむると、大きく息を吸い込んだ。
チコちゃんの想いを全て噛み砕いて自分の言葉にしてゆく。
そうしてゆっくりと口を開いたのだった。
「ユウくん」
「えっ……? 俺の名前をなんで?」
お兄さんが高い声をあげて仰天したが、私は反応することなく続けた。
「ユウくんと離れ離れになって寂しかったけど、今はずっと一緒にいられるから、とっても嬉しいんだよ」
「まさか、チコの気持ちを……?」
私は目をつむったままコクリとうなずいた後、再び続けた。
「僕は死んじゃったけど、そのおかげでユウくんの隣にいることができる。だから今、すごく幸せなんだ」
「死んでも幸せなのか……」
「でもユウくんは、時々とても哀しい顔をするよね。それは僕と一緒に写っている写真を見ている時」
お兄さんのすすり泣く声が耳に入ってくる。
「ううっ……。チコ……」
心がつられそうになるが、ここで挫けたらチコちゃんの想いが無駄になってしまう。
ぐっと腹に力をこめ、ゆっくりと目を開いた。
そして今まで以上に言葉に気持ちをこめて言った。
チコちゃんの大きな愛と強い想いが、お兄さんに伝わるように――
「ユウくん、お願いだよ。僕を思い出す時は、悲しまないで」
「チコォ……」
「僕と君の思い出は、いつだってきら星のように輝いているじゃないか!」
お兄さんの目が大きく見開かれ、ついに言葉を失ってしまった。
私は諭すように続けたのだった。
「だから僕のことを思い出す時は、笑顔になって欲しいんだよ。いいかい? ユウくん」
ついにこらえきれずに、お兄さんは泣き崩れてしまった。
「うわあああああ!! チコ! チコ!」
チコちゃんが必死にお兄さんの頬を舐めている様子が目に入ってきた。
まるで「泣かないで、ユウくん」と言わんばかりだ。
私は、チコちゃんが託してくれた想いを続けた。
「ユウくん。僕は犬だから、君に『ありがとう』って言えなかった。でも、このお姉さんを通じて、『ありがとう』が伝えられる。僕は本当に幸せな犬だ。これからもずっと側でユウくんを見守っているよ。だから、ユウくん。どうかユウくんも、幸せになっておくれ。ユウくんの喜びは僕の喜びでもあるのだから」
お兄さんがゆっくりと私を見上げる。
私もまた彼に優しい瞳を向ける。
視線が一致したところで、チコちゃんの最後の言葉を告げたのだった。
「ユウくん、ありがとう。僕と出会ってくれて、ありがとう。僕のことを覚えていてくれて、ありがとう。僕のことを……。愛してくれて、ありがとう」
涙でぐちゃぐちゃだった彼の顔が少しずつ変わっていく。
それは、今彼が作れる精一杯の……。
笑顔だった――
「チコ。本当にありがとう。俺にはチコが見えないけど、ずっとお前を近くに感じて生きていく。今は情けない飼い主かもしれないけど、絶対にお前が誇れるようになるから。だから安心してくれ」
私はチコちゃんに視線を向けた。
チコちゃんもまた私を見つめてきた。
視線が合ったところで、チコちゃんの想いが、再び流れ込んでくる。
それはたった一言。
――ありがとう、お姉さん。
私がニコリと微笑むと、チコちゃんは安心しきった表情を浮かべ、静かに姿を消したのだった――
………
……
「ありがとうございました!」
幸いなことに(?)お兄さんの他は誰もお客様がいなかったので、私はお店の外に出て見送ることができた。
彼は最後に「こちらこそ、ありがとうございました。またこの店きますね」と頭を下げて、笑顔のまま帰っていった。
その様子を見て、気分が良くなった私は、鼻歌をまじりに笑顔でお店に戻る。
だが、店内に入ったところで、いつの間にか肩に回ってきた白くて細い腕。
アヤメだ……。
私の笑顔は一瞬のうちに凍りついた。
「ふふ、にやけちゃってぇ。そんなに嬉しかったんだ?」
「うるさいっ! 私にまとわりつかないでよ!」
彼女の腕をふりほどき、ニヤニヤしている顔に鋭い視線を浴びせる。
しかし彼女はまったく意に介することなく、変わらぬ口調で続けてきた。
「はいはい、分かりましたよぉ。藤次郎にべったりとしていればいいんでしょ?」
「それもやめて!」
即答した私に、アヤメは「やれやれ」を言わんばかりに首をすくめている。
「ふふ、麗ちゃんって、意外とわがままなのねぇ」
「あんたに言われたくないわ!」
ぷいっと私が顔をそむけると、彼女は店長のいるバックヤードの方へと歩き始めた。
ちらりとその背中を見ると、不思議な気持ちにかられてくる。
――よくよく考えてみれば、あの時アヤメから『仏口』のことを言われなければ、お兄さんも私も気まずいままだったのよね……。
自然と口をついて出てきたのは感謝の言葉だった。
「……ありがとう。『仏口』のこと教えてくれて」
アヤメはぴたりと足を止めると、顔を半分だけこちらに向けた。
「ふふ、しおらしいこと」
「悪い?」
「いいえ、全然悪くなんてないわぁ。ただ……」
「ただ?」
そう眉をひそめた私に対して、彼女はニヤリと口角を上げた。
その瞬間にすごく嫌な予感がしたが、気付いた時にはもう遅かった……。
彼女は弾むような声で言ったのだった。
「ふふ。いつもこんな風に素直だったら、とっくに彼氏ができてるのになぁってね!」
――ブチッ!
さっきと同じように、何かが切れた音が頭の中に直接こだますると、私の理性は完全に吹き飛んだ。
ポッケにしのばせておいたお札を手にして怒声を浴びせた。
「もう許さない! 黄泉の彼方へ退散しなさい!」
「わあ、麗ちゃんが怒ったぁ。アヤメ、こわーい。藤次郎に助けてもらわなくちゃぁ」
私とアヤメのこんなやり取りは、もはや『ファミリーセブン南池袋店』の日常のワンシーンとなっていた。
裏を返せば、それは平和の証でもあるのだ。
でも、そんな平和が脅かされるような出来事が起ころうとは……。
きっと私たちに穏やかな視線を向けている店長ですら想像していなかったと思うのだ……。