お兄さんの後悔
この辺りはその昔、『お稲荷さんの森』と呼ばれていて、神様が住む森として大切にされてきた。
森は姿を消したものの、おばあちゃんいわく、今でも神様がどこかでひっそりと暮らしているのは変わっていないそうだ。
お稲荷様の使いである狐様……つまり「こんこん様」もどこかで好物の油揚げでもくわえているのだろうか。想像しただけで愛くるしくてくすりと笑いがもれちゃう。
そしてそんな場所だからなのか、あやかしや幽霊が寄ってきやすい。
それは『ファミリーセブン南池袋店』も同じなのである。
今、私の目の前で懸命に尻尾を振っている、真っ黒な毛並みのチワワの守護霊。
きっとお兄さんに大きな恩義があるのだろう。
だからチワワは小さな体にも関わらず、大きな愛でお兄さんを守っているのだと思う。
そんなことを考えているうちにお兄さんが海苔弁当とお茶をレジへ持ってきた。
私は慌ててカウンターの中へ入ると、お弁当を温めるか問いかけたのだった。
「そうっすね。あっためてください」
「はい! かしこまりました!」
背後にあるレンジにお弁当を入れてボタンを押す。
レンジが音を立て始めたのを確認してから、先に会計に済ませるために再びお兄さんに向き合った。
すると彼は頭をかきながら、つぶやくような声で問いかけてきた。
「あの……。さっきペットがどうこうって、言ってましたよね?」
「えっ!? ああ、あれは勘違いです! あはは……」
手をぶんぶんと横に振って必死にごまかす。
だって「チワワの守護霊が見えます」なんて言ったら、普通の人なら怖がってもう二度と来なくなっちゃうに決まってるから。
お兄さんはそんな私の様子をちらりと見ただけで、特に怪しむこともなく、すぐに視線をそらした。
「そうっすか……。そうっすよね」
彼の言葉を耳にして、私はほっと胸をなでおろした。
何事もなかったかのように会計を済ませ、あとはお弁当が温まるのを待つだけとなる。
ただ、奇妙なやり取りもあったせいか、私たちの間に流れる沈黙が、なぜかちょっとだけ気まずい。
とそこにアヤメがやってきて、そっと私に耳打ちしてきた。
「麗ちゃんは鈍いわねぇ。そんなんだからいつまで経っても彼氏ができないのよぉ」
な、なんてこと言ってくれるのかしら! この女狐は!
しかしそれを声にも表情にも出すわけにはいかない。
なぜなら目の前のお兄さんには、アヤメの姿が見えていないのだから……。
私は笑顔を引きつらせたものの、必死に声を出さないように耐えていた。
私が何も反応できないのをいいことに、彼女はさらに続けた。
「こういう時は、話を聞いて欲しいってことでしょぉ。何か気の利いた質問の一つもできないのかしら? ああ、無理かぁ。ろくに男を知らない三つ編みおさげちゃんには」
――ブチッ!
私の中で何かが音を立てて切れた。
そして考えもなしに、口が動き出したのだった。
「ご、ごほん! え、えーっと。お兄さんはペットとか飼ってたんですか?」
突然そう切り出されたものだから、お兄さんは戸惑ってしまったようだ。
目を大きくして聞き返してきた。
「え? どうしてですか?」
「え? どうしてって、その……。えーっと……」
想定外の切り返しに、目が白黒になってしまう。
お兄さんの隣に立っているアヤメが「ほほほ!」と高笑いしているのが腹立たしくならないほど、私は困惑していた。
……と、その時だった。
――チンッ!
と、レンジから大きな音が聞こえてきたのは。
渡りに舟とばかりに、私はお兄さんに背を向けてレンジからお弁当を取り出す。
そして熱々のお弁当を、素早く袋に入れた。
このままこれを渡してしまえば、自然な形で会話を切り上げられる。
そう考えて、急いで笑顔を作って、「お待たせしました!」と言いながら、くるりと振り向いた。
だが、次の瞬間、目に飛び込んできたのは、カウンターの上でニコニコしている黒のチワワだった。
「うわっ! ダメでしょ! そんなところに乗ったら!」
そう思わず叫んでしまったのもしょうがないと思うの。
でも、まったく事情の分からないお兄さんは、眉間にしわを寄せて『何もいない』カウンターをじっと見つめているではないか。
――しまった! どうにかしてごまかさなくちゃ!
だが悔しいがアヤメの言う通り、とっさに気の利いた言葉なんて持ち合わせていない私。
どうしたらよいか分からないまま、とりあえずお弁当の袋をぐいっと彼に突き出した。
しかし、彼はそれを受取ろうとはせずに、なおもカウンターから視線を動かそうとしない。
――まずいわ! どうしよう……。ねえ、アヤメ! なんとかしてよ!
やぶれかぶれにアヤメに視線を送ったが、もうすでに彼女はそこにはおらず、店内の掃除をしている店長の背中にくっついている。
――あの女狐めぇ! いつか絶対に退治してやるんだから!
そんな風に呪詛の言葉を心の中で投げかけているうちに、お兄さんが『何もない』カウンターに向かって、ぼそりと口を開いたのだった。
「もしかして……。チコか……?」
――キャン!
彼の呼びかけにチワワの守護霊が元気よく返事をする。恐らく『チコ』という名前なのだろう。
ただし、お兄さんの耳には、チコの声は届かない。
チコはそれを知っていても、なお彼に愛を届けようと必死に尻尾をふり、潤んだ瞳を向けている。
その姿はすごく健気で、ぎゅっと胸を締め付けてきた。
私はいてもたってもいられなくなり、ついに本当のことを打ち明けたのだった。
「チコちゃんって言うのね。とても綺麗な黒毛のチワワちゃん」
お兄さんは穴があくほど私の顔を覗き込んできたけど、すぐに優しい顔になって、チコの方へ視線を戻した。
「ええ、実家で飼っていた犬なんですけどね。ちょうど1年前の今頃に亡くなってしまったんですよ」
「そうでしたの……」
彼からチコは見えていないはずだ。
それでも彼らの視線は交差し、言葉にならない想いを交わしているようであった。
彼は続けた。
「お互いにちっちゃい頃からずっと一緒だったんです。どこに行くにも、チコはいつも俺の後ろをついてきた」
「ふふふ、なんとなく想像できます。お店に入ってきてからも、ずっとそうでしたから」
私の口元が緩むと、彼もまた笑みを漏らす。
そして、チコは彼の笑顔が大好きなのだろう。
今までで一番嬉しそうな表情を浮かべている。
だが、すぐにお兄さんの表情に暗い影が落ちてきた。
「……俺が東京の大学に行くことになって、どうしても実家を離れなくちゃいけなくなってしまって……」
「そうだったんですか……」
「上京してから半年もしないうちに『チコが体調を崩した』って母から連絡があったんですけど、俺は大学の生活に慣れるのに必死で、結局、チコが亡くなる前に一度も会えなかった」
そこまで話したところで、彼は口をつぐんでうつむいた。
私はかける言葉を失ってしまって、ただ彼の様子を見るより他なかった。
すると彼は声を絞り出した。
「情けないっすよね、俺。自分のことばっかりで、兄弟も同然のチコが苦しんでいるっていうのに。あれだけ一緒にいてくれたのに、『ありがとう』も言えずにあの世に行かれちまって……。きっとチコは俺のことを恨んでいるに違いないんです」
とても苦しそうな顔をチコに向けるお兄さん。
チコもまた哀しそうに「くぅぅ」と鳴いている。
二人の様子を目の当たりにしながら、私はまるで空気のようにたたずむことしかできなかった。
なんて情けないんだろう……。
でも、赤の他人の私が慰めの言葉をかけたところで、かえってお兄さんは傷ついてしまうに違いない。
悔しいけど、ただ黙って見守ることしかできなかったのだ。
その時だった。
背後から絡みつくような粘り気のある声が聞こえてきたのは――
「三つ編おさげちゃんにもできるでしょう? 『仏口』」
自然と目が大きく見開かれていく。
「そうか……。『仏口』なら……」
そして考える間もなく、私はチコに視線を向けたのだった――