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変わっていくものと変わらぬもの

◇◇


 秋の陽は早い。特に11月も半ばに差し掛かれば、夕陽を愛でる間は、ほんのわずかでしかない。

 

 数分前までオレンジ色だった空は、薄い白色と濃い紫色の二色に染まっている。

 ビルの合間に消えかかる夕陽は見る者を虜にするほどに美しい。


 それは、かつて時田和正と俊太の親子が暮らしていた川崎の簡易宿泊所の一室から見えるものと、今、長坂喜一がいる豊島総合病院の12階の『特別個室A』と呼ばれている部屋から見えるものとで、何ら変わりはない。

 

 つまり自然が作り出すものは、いつだって『平等』であるということだ。

 裏を返せば、『不平等』を生みだしたのは人であるということ。


「不平等を、己の『利』のためだけに使う悪魔め……」


 鎮静剤の副作用で熟睡中の長坂喜一の隣に立っている人物は、そうつぶやいて、覚悟を固くしていた。

 雲の合間から顔をのぞかせた月の光が、その人物の横顔をかすかに照らす。

 

 するとそこに浮かび上がってきたのは、長坂家の長女、長坂洋子の姿であった――

 

 ゆらりと体を揺らした彼女は、さながら血肉に飢えた猛獣のようだ。その殺気を近くに感じれば、誰でも飛び起きるだろう。

 しかし今の長坂喜一にそれをさせるには、鎮静剤の効き目が少しばかり強過ぎたようだ。

 

「……本当はあそこで終わらせるつもりだったのに……。運のいい奴だ」


 彼女はやり遂げられなかったことを果たすため、「父の面倒を見る」と周囲をあざむいて、この病室に忍びこんでいる。

 そうして長坂喜一が完全に眠りについた今、その時がきた。

 彼女は銀色に光る果物ナイフを高々と振り上げる。

 

 これを喉に突き刺せば、すべて終わる……。

 憎しみと苦しみの連鎖を断ち切ることができるのだ……。

 

 一度目をつむり、愛する者の顔を思い浮かべ、覚悟の炎にまきをくべる。

 そして迷いを示す、ナイフを手にした右手の震えが止まったところで、ゆっくりと目を開けた。

 

「これで終わり……」


 だが……。

 そのナイフはついに振り下ろされることはなかった――

 

 

「お姉ちゃん! やめて!!」



 なんとロックされているはずの扉が、突然大きく開かれたのだ。

 その直後に聞こえてきた、この世で最も愛する者の声。

 その声に、長坂洋子の右手はピタリと動きを止めてしまったのである。

 

「ともちゃん……。この部屋に入って来ちゃだめよ。今は『大人』の時間なんだから」


 血走った目と鬼のような形相からは考えられないくらいに澄ました声に、長坂智子の背後にいる、若い二人の刑事は、思わず目を丸くした。

 しかし長坂智子は、姉の言葉に反抗するように部屋の中へと足を踏み入れる。

 長坂洋子は、ぴくりと眉を動かすと、素早くナイフを父の首筋に当てた。

 

「だめよ、ともちゃん。こっちに来ないで。言ったでしょう。『大人』だけの時間なの」


 長坂智子は止まらない。一歩、二歩と姉に近付きながら、唾を飛ばした。


「お姉ちゃんは間違ってる!! 『大人』なら家族を傷つけていいって言うの?」


「家族? ああ、戸籍と血縁上は家族と言えるわね。でも、そんなの単なる形式に過ぎないわ。この男は家族なんかじゃない。ともちゃんの幸せを食いものにして、己の欲求を満たそうとする悪魔よ」


「ううん、違う! パパはパパだもん! 私とお姉ちゃんの家族だもん!!」


 互いに一歩も引かず、ついに二人はベッドを挟んで向かい合った。

 刑事のうちの一人が照明のスイッチを入れると、部屋中がぱっと明るくなる。

 だが姉妹は何の反応を示さずに、互いの視線だけを激しく交差させていた。

 

「ともちゃんも聞いたでしょう? この男は、ともちゃんの幸せを奪ってまで、自分の欲を満たそうとしている。いいの? この男を生かしておけば、ともちゃんは恋すらできないのよ?」


「そんなのよくない!!」


「だったら今、この男の息の根を止めなくちゃダメだと思わない?」


「それもよくない!!」


「ふふ、相変わらずともちゃんはわがままね。もういいわ。そこにいる殿方たちも、醜い姉妹喧嘩なんて見たくもないでしょうから。とっとと済ませて、自分の罪を償うことにするわ」


 長坂洋子は右手にぐっと力をこめた。

 わずか数cmだけ刃を首に食い込ませ、一気に横に引けば、一瞬で事は終わるはずだ。

 

 小さな子どもだってできる、簡単なこと……。

 

 だが、彼女の右手はそんな簡単なことを拒絶した。

 どんなに力をこめても、刃が父の首の皮を突き破ろうとしなかったのだ。

 その様子を見て、長坂智子が落ち着いた声で言った。

 

「お姉ちゃんも本当は分かっているはず。こんなの間違ってるって」


 長坂洋子は声を出さずに、ギリっと妹を睨みつける。

 すると長坂智子は、ベッドに沿って歩きながら、長坂洋子の方へとゆっくり向かっていった。

 

「もしお姉ちゃんが、本気でパパとママを殺そうとしたなら、二人がこの程度の怪我ですむはずないもの」


 確かに長坂喜一と幸子の二人は、大理石の灰皿で後頭部を殴打されたにも関わらず、脳に大きなダメージは認められなかった。

 そして今も、刃が首を掻っ切れないでいる。

 実の妹でなくても、長坂洋子がためらっているのは、火を見るより明らかであった。

 

 父が憎い。殺してやりたいぐらいに憎い。

 母も憎い。同じく殺してやりたいぐらいに。

 

 なのになぜ?

 なぜためらってしまうのか。

 なぜ妹が近づいてくるのを止めないのか?

 

 なぜ……?

 

 情けない自分の姿に、自然と悔し涙がこぼれ、肩が小刻みに震える。

 そんな彼女を、背後からそっと長坂智子が抱きしめた。



「お姉ちゃん。もう大丈夫。大丈夫だから」


「なんで……? なんでそんなこと言いきれるのよ!」



 いつになく強い口調で妹の言葉を否定する長坂洋子。

 だが、長坂智子は、姉の言葉にたじろぐことなく答えたのだった。

 

 

「もうお姉ちゃんに守ってもらわなくても大丈夫だよ」


 

 長坂洋子の目が大きく見開かれた。

 

 何かあるとすぐに大泣きした妹。

 小さな手を取ってあげないと、すぐに迷子になってしまった妹。

 

 彼女の知っている妹は、もう泡沫うたかたの夢となって消えてしまったのだろうか……。

 それを決定づける一言が、長坂智子の口から発せられたのだった――

 

 

「今まで、お姉ちゃんに助けられてばかりだったから、今度はうちがお姉ちゃんを助ける番なんだよ」



 その言葉が耳に届いた瞬間……。

 

 長坂洋子の中で何かが音を立てて崩れていった……。

 

 

「うわああああああ!!!」



 今まで抑え込んできた感情が嗚咽となって溢れだす。

 いつの間にか手にしていたナイフはベッドの脇に転がり落ちていた。

 そして姉妹は互いに抱き合うと、まるで幼児のように泣き続けたのだった――

 

………

……


 どれほど時間がたっただろうか。

 すっかり黒一色に空が染まり、大きく欠けた月だけが浮き上がるように浮かび上がる中、長坂洋子は二人の刑事に連れられて病院の外に出た。

 

 彼女はその月を見上げると、悲しく微笑んだ。

 

 父はまだ生きている。

 すなわち彼の醜い野望によって、愛する妹の未来が閉ざされる可能性は大いに残されているのは無念極まりないことは確かだ。

 

 しかし彼女の胸のうちに大きな空白を生んでいたのは、妹の『変化』であった。

 いつも自分に甘えてばかりだった妹はもういない。

 その事実は、さながら大切な何かを永遠に失ったかのようで、喪失感にかられてならなかったのである。


 彼女はそれを振り払うように、月から目を離した。


 それでも心に浮かぶのは妹のことだ。

 妹はいったいいつ自分の未来を切り開ける力を身に付けたのだろうか……。

 そこでようやく妹以外の人物の顔が、そよ風のようによぎる。

 それが彼女にしてみれば予想外の人物であったようで、自分で自分が可笑しくなってしまった。



「ふふ、まさか……ね。だって彼女は『単なる店員』だもの」



 ふと背後に視線をやる。

 彼女の視線に気付かずに、うつむいたままの妹が、とぼとぼとついてきている。

 彼女は何も声をかけることなく前を向き直した。


「これでよかったのよね」


 自分に言い聞かせたのか、それとも誰かに向けたものだったのか、それは彼女自身ですら分からない。

 それでも一つ確かだったのは、妹の『変化』に喜びを感じ始めている、自分の『変化』であった――



 玄関を出てちょっと歩いたところに、一台の車が止まっている。

 どうやらこの車で警察署まで乗せていってもらえるようだ。

 彼女は両隣の刑事に、それぞれ一礼すると、ようやく妹と向き合った。

 そして心配そうに彼女を見つめる妹に、穏やかな調子で声をかけたのだった。

 

 

「ここまででいいわ。ともちゃんは病院に残って、お父様とお母様の御世話をしてあげて頂戴」


「でも……」



 彼女の言葉に戸惑いを隠せない妹。

 彼女は愛おしそうにニコリと笑みを浮かべると、今度は少し強い口調で告げた。

 

「お姉ちゃんは大丈夫だから。そんな顔してたら浅間さんに笑われちゃうぞ」


 妹の目が大きくなる。

 しかしそれも束の間、妹の長坂智子の顔は満面の笑みに変わった。

 

――ああ、やっぱり……。


 彼女の心の中で、もう一つの確信が芽生えてきたところで、真夏の太陽のような妹の声が鼓膜を震わせたのだった。


 

「うん! 分かった! 任せて、お姉ちゃん!!」



 長坂洋子は、ほっと胸をなでおろした。

 なぜなら彼女は気づいたからだ。

 


 人は『変化』するもの。

 でも小さな頃からまったく『変化』しないものも持ち合わせている。

 そのうちの一つが、大きな向日葵のような妹の笑顔だということに――

 


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WEBアマチュア小説大賞
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