11月18日 夕方 豊島総合病院 ②
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――俊太。『幸せ』とは、誰かに笑顔で『ありがとう』と言えることだって、浅間さんから聞いたわ。今のあなたにそれができるかしら?
突然響き渡った時田美鈴の声に、インターフォンの向こう側にいる時田俊太はもちろんのこと、鎧屋藤次郎の中にいる時田和正も言葉を失った。
時田美鈴はゆっくりとインターフォンの前に立つと、まるでその先を見通しているかのように、ぶれずにカメラのレンズに強い視線を向ける。
そして、弾けるような鋭い声をあげたのだった。
――俊太! 背を伸ばして、胸を張りなさい! 今あなたのしようとしていることが、胸を張ってできることなら、母さんは何も言わない。どうなの!? 俊太! 答えなさい!
その問いに対して、時田俊太は何も答えられない。
無論、「目の前にいる少女は、本当に母なんだろうか」という疑問に混乱していたのもあるだろう。
だが、それ以上に彼を苦しめていたのは、母が自分の行いを肯定してくれなかったことだったんじゃないか、とアヤメは言っていた。
そうして長い沈黙の後、インターフォンから聞こえてきたのは、
――胸なんて張れるわけない……。でも、でも俺は……。ううっ……うわあああああ!!
まるで赤子のような大泣きする声。
それに対して、彼女は全てを包みこむような優しい口調で言葉をかけた。
――俊太。ごめんなさい。母さんも俊太と同じ。悔しくて、憎くて、無念で……目に映るすべてが許せなかった。
――だったら……なんで? なんで俺の邪魔をするんだよ……。
――それはね。どんなに理不尽なことをされても相手を許し、相手の幸せだけを追求する女の子がいたの。彼女を見て、ようやく気付いたわ。
時田美鈴は、一度言葉を切って、頬を伝う涙をぬぐう。
そして深呼吸をした後、ぐっと語調を強めて続けた。
――許すことは、愛することと同じ。
耳にした者の心を震わせる、凛とした声。
そして清きらかな流れのような口調が続いた。
――自分が許せないなら、それは自分を愛せていない証。自分を愛せない人が、胸を張って生きられる訳ないの。俊太。だから、もっと自分を愛してあげて。憎しみを解き放ち、相手を許す自分に誇りを持ってあげて。母さんからの最後のお願いよ。
この言葉の後、カチャっという高い音が目の前のドアから聞こえてきたそうだ。
それは言うまでもなく、俊太さんが、自分自身を許した瞬間でもあった――
………
……
「俊太くんは今、警察署にいるよ」
店長は淡々とした口調で締めくくった。
あれだけの騒ぎを起こしたのだ。それも仕方ないと思う。
特に長坂喜一と幸子夫妻は、後頭部にけがを負っていると、店長から聞かされた。
幸い、命に別状はなく、今は安静にして眠っているとのことだ。
私は法律のこととか全然知らないけど、立派な暴行だし、下手をすれば殺人未遂の罪にも問われてしまうかもしれない。
真面目で誠実そうな彼の姿が頭に浮かぶと、自然と心が曇ってしまった。
――とても家族思いのいい子なの。だから何があっても、信じてあげて。
彼の母親はそう私に告げたことがあったが、現にけが人が出た以上、弁解の余地はない。
「はぁ……」
ひとりでに大きなため息が出てきた。
するといつの間にか私の左側に腰をかけたアヤメが、いつもと変わらぬ調子で口を開いた。
「起こしてしまったことは仕方ないわぁ。罪をしっかりと償って、胸を張って生きていくことが、あの怨霊と守護霊の望んでいることだろうしねぇ」
「でも……。重い罪に問われたら、なんだか可哀想」
なおも落ち込む私を見て、アヤメはいやらしい笑みを浮かべている。
私は思わず口を尖らせた。
「ちょっと! 人が落ち込んでいるのを見て、何が楽しいの! そんなに性格が悪いとは思っていなかったわ!」
頬を膨らませる私を見て、ますます可笑しそうにアヤメの口角が上がる。
見ているだけで気分が悪くなってきたので、ぷいっと顔をそらした。
それでもなお、アヤメは声をかけてくる。
「ほほほ。麗ちゃんは何か大きな勘違いをしているようねぇ」
「ふんっ! その手には乗らないわよ! 私を揺さぶって、反応を楽しむつもりなんでしょ!?」
「ほほほ。それは心外だわぁ。わらわは可愛い麗ちゃんに、そんな意地悪したことないのにぃ」
どの口が言うか! と、思わず大声をあげそうになったが、ここで彼女の挑発に乗ってしまったら、私の負けだ。
ぐっと言葉を飲み込んで、私は無視を決め込んだ。
と、そこに意外すぎる人物の声が聞こえてきたのだった……。
「安心しな、嬢ちゃん。時田俊太は大した罪には問われねえよ。もしかしたら不起訴処分で、無罪放免かもしれねえ」
「へっ……?」
声の持ち主の方へ、ぱっと顔を向ける。
すると廊下の奥からその人物が現れた。
「缶コーヒーと『23番』の!?」
そう、それはコンビニの常連さんで、いつも缶コーヒーと『23番』のタバコを買っていくおじさんだったのだ。
ぼさぼさの白髪交じりの髪を、ぼりぼりとかきながら、ゆっくりとこちらに近付いてくる。
私が目を丸くして見つめていると、右隣の店長がそっと耳打ちをしてきたのだった。
「彼は池袋警察署、強行犯2係の生島さん。ああ見えて、凄腕の刑事さんなんだよ」
「うそ……」
驚愕のあまり、言葉が出ない私。
そんな私をよそに、生島さんと呼ばれたおじさんは、ニヤリと笑って言った。
「鎧屋の坊主も言うようになったじゃねえか」
「ふふ、まあ細かいことはいいではないですか。ところで、さっきの言葉。本当なんでしょうか?」
生島さんのダミ声の後に、店長は鈴の音のような声で返す。
生島さんは、目を細めてもう一度髪をかくと、ゆっくりとした口調で答えた。
「ああ、本当だとも。なぜなら時田俊太は『誰も』傷つけていないんだからよぉ」
「え……? でも、長坂喜一さんと幸子さんの夫妻は後頭部を殴打されたんじゃないんですか?」
その問いかけに対する生島刑事の答えは、私をさらに仰天させるような事実だった――
「ああ、確かに夫妻は暴行を受けたさ。時田俊太以外の人間からな」





