執念の守護霊と悪魔の心
「ちっ! 邪魔が入ったか」
時田俊太の口元が歪み、ぎりっと歯ぎしりが出る。
しかし悔しがる暇があるはずもない。すばやく長坂智子の口をタオルを巻いて塞ぐと、なおも「ピーンポーン」と鳴らされるインターフォンの方へと大股で歩いていった。
どうせ新聞の勧誘あたりだろう。さっさと追い返し、覚悟が鈍らぬうちに長坂家の者たちを全員始末しなくては……。
燃えたぎる胸の内を一旦鎮めるため、大きく息を吸い込み、ほんの少しの間だけ息を止め、ゆっくりと吐き出した。
声だけでも『外向き』を装える自信が持てたところで、相手の様子を確認するために、インターフォンに設置されたカメラを覗く。
だがそこに映し出された意外な人物に、目を丸くしたのだった。
「コンビニの店長……?」
そう、それは彼が何度か顔を合わせたことのある『ファミリーセブン南池袋店』の青年店長だったのだ。
かすかな笑みを口元に浮かべ、今日の秋空のように爽やかな表情で、カメラをじっと見つめている。
しかしなんでもないはずの男の視線に、時田俊太は戦慄を覚えた――
こちらのことは全く見えていないはずだ。
なのに、なぜかその視線は真っ直ぐに自分の瞳を捉えているではないか。
それは心の奥底まで見通されているかのように不気味さを感じる。
ぞくっと背中に悪寒が走り、身震いが生じる。
不思議な目をしたこの男が何の用があってここに来たのか、見当すらつかない。
なぜなら男は「単なるコンビニの店長」なのだから……。
――なんなんだよ……。気味が悪い奴だ……。
一刻も早く追い返したい。
その一心で、彼は「受話」のボタンをぐいっと押し、相手が何か口にする前に、早口で告げたのだった。
「すみません、今取り込み中なんで、また明日来ていただけませんか。よろしくお願いします」
そうしてインターフォンから離れようと、もう一度「受話」を押そうとしたその時だった――
「俊太! 聞こえるか!? 俊太なんだろ!」
その声を聞いた瞬間に、時田俊太の全身が凍りついた。
「お……親父……。そんな……」
インターフォンから聞こえてきたその声は、まさに彼の父、『時田和正』そのものだったのだ。
しかし映像にはコンビニの青年店長しか映っていないし、そもそも父は既にこの世の人ではない。
ならば考えられることは一つしかない。彼はかっと頭に血を上らせて叫んだ。
「ふざけるな!! 親父の真似ごとしやがって!! てめえ! あとでぶっ殺してやるからな!!」
そう一息で言い終えると、荒々しく受話を切ろうとする。
しかしその寸でのところで、再びインターフォンから声が聞こえてきた。
「虹の向こう側! 行くんだろ!?」
ピタリと彼の手が止まった。
大きく見開いた目の奥に、混乱の火がともされ、体温が一気に上昇した。
――なぜだ……? なぜこいつがそれを知っているんだ……。
自分たち『家族』だけの約束事を、目の前の男が知っているはずもない。
もし考えられるとするならば、この男と父は以前から知り合いだったのか……。
いや、それもありえない。
なぜなら知り合いという知り合いには、金を無心にいったはずで、この男に頭を下げている父を彼は見たことがなかったからだ。
言葉を失った彼に、青年店長は『時田和正』の声で続けた。
「父さんと母さんに虹の先がどんなだったか、聞かせてくれるんだろ!? だったら、今すぐ馬鹿な真似はよせ! そんなことをしても父さんと母さんは喜ばない!」
惑わされるな! これは『本当の父』ではない! 父の真似をしている『敵』なんだ。
右手に持つ包丁の存在を正当化しようと、胸の内から悪魔が雄叫びをあげる。
彼はその声に背中を押されるように、インターフォンに向かって声を上げた。
「これも全部、親父と母さん、そして俺の『威厳』を取り戻すためなんだよ! 忘れたとは言わせねえぞ! 屈辱にまみれ、俺に対して苦笑いしながら『ごめんな。俊太』って悲しくつぶやいたあの日々を!!」
「俊太! それは間違ってる! 屈辱に耐え、それでも背筋を伸ばして正しく生きることが、『威厳』なんだ! お前のやろうとしていることは、屈辱に負けたのと同じなんだ!」
この男は本当に父が乗り移っているのかもしれない。
そう思い始めている『もう一人の自分』がいることに、彼は少なからず驚いた。
そしてあろうことからその自分は、突然現れた父親に対して、救いを求めようと、必死に手を伸ばしていることにも気付いていた。
――何を今さら迷う……。もはや踏み出した歩みは止められぬ。堕ちるところまで堕ちねば、今までのお前の行いはすべて笑いもの。一生、長坂家に恨みを晴らすこともできないんだぞ!
絶対に届かぬ小さな手を見つめながら、悪魔の自分があざ笑っている。
しかし救いを求めるもう一人の彼は、思いのたけをぶつけるように、声を張り上げたのだった。
「だったら……。だったらなぜ親父は俺を長坂家に『売った』んだよ!? 俺が長坂智子の婿養子になるのは、俺たち家族にとって『負け』じゃねえのかよ!!」
時田俊太の後ろで、口をふさがれたままの長坂智子が大きく目を見開いた。
そして姉、洋子に視線を送ると、姉は恨めしい表情を浮かべながらコクリとうなずく。
それは、姉にとっては不本意ではあるが、紛れもない事実であることを示しているのは明らかで、長坂智子の顔がますます困惑と驚きに変わっていくのに十分に、衝撃的なものであった。
その一方で、インターフォンに唾を飛ばし続けている時田俊太は苦しそうに顔を歪ませ、その背は丸くなっていた。なぜなら思い出したくもない、『父の裏切り』を思い起こしていたからだ。
しかし聞こえてきた父の声は、彼の苦しみを解き放つものではなかった。
「父さんは、お前が『幸せ』になるための選択をしただけだ!」
ひどく抽象的な物言いだ。
彼が想像していたグロテスクな答えとはかけ離れすぎている。
――やはりこの男は『偽物』だ。もうこれ以上、自分を苦しめるな。
悪魔が顔を出し「早く『受話』を切れ」とささやいてくる。
しかし彼はその言葉に従わなかった。
なぜなら彼は自分の覚悟をはっきりとさせたかったからだ。
父が自分を裏切り、この世には自分一人しかいないのだと確信が持てれば、震えている包丁を躊躇なく転がる4人の首に振り下ろすことができる。
そしてすべてを投げ出して、一人であの世へと旅立てるから――
そこで彼は、食いついた。
「時田の名を捨て、長坂喜一の『モノ』になるのが俺の幸せだと、本当に思っていたのか!?」
「言っただろ。屈辱に耐え、正しく生きることが『威厳』なんだ。時田とか長坂とか、そんな小さなことにとらわれるな。お前はお前でしかない。お前の人生は誰の『モノ』でもなく、お前のためにあるんだ」
「違う! こんな答えを俺は求めていない。もうはっきり言ってくれ! 親父は俺を裏切ったのだと。最初から時田家の借金を帳消しにするために、長坂家へ自分の命と俺の人生を売り飛ばそうと考えていたのだと!」
苛立ちが声色に変わって口をついて出てくる。
もはや相手の男が本物だろうが偽物だろうが関係ない。
自分の聞きたい言葉を聞かせてくれという、極めてピュアな欲望だけが彼の心を覆い尽くしていたのだ。
だが……。
『父の声』はそんな彼をどこまでも突き放したのだった――
「父さんは母さんと約束したんだ! お前の望むことは何でも叶えてやるってな! これが本当にお前の望むことなのか!? 温かいコロッケを美味しそうに頬張るお前が! 恥ずかしがりながらも、ちょっぴり誇らしげにテストの回答用紙を渡してきたお前が!」
「やめろぉぉぉ! 昔話なんか聞きたく……」
「やめるもんか!! 母さんが誇りを持って育ててきたお前は、他人と自分を不幸にする奴じゃない! お前のやっていることは、母さんを……家族をけがしていることと同じだ! 頭のいいお前なら分かるだろ!!」
「やめてくれよ……。俺は、俺は……」
「思い出せ!! お前が本当に望む幸せを!!」
魂を震わせるような言葉に、彼の心が大きく揺らぐ。
同時に玄関のドアを激しく叩く音が、彼のいるリビングまで響いてきた。
――惑わされるな!! お前が許してはならないのは時田和正ではない! 目の前で無様に転がる長坂家の4人だろ!! まずはあいつらを始末してしまえ! 父親のことはそれからだ!
『時田俊太』という器を戦場の舞台として、執念の父と悪魔の自分が、激しくぶつかる。
それでも悪魔の自分の声の方が、彼の耳からは近い。
――殺せ! 殺せ! 殺せ! そして何もかもを捨てて、お前も死ぬんだ! さあ、早くやれ!!
激しい耳鳴りで頭が割れるように痛い。
その苦痛から逃れるためには、今すぐ『受話』を押して父の声を切り、長坂智子を刺し殺すしかないのだ。
しかし残された一片の救いを求める心は、瀕死になりながらも最後の声をあげた。
「そんなこと……。詭弁だ!! ふざけるな!! それになんなんだよ、『幸せ』って!?」
その直後だった。
彼にとってさらに驚くべき声が聞こえてきたのは――
「俊太。『幸せ』とは、誰かに笑顔で『ありがとう』と言えることだって、浅間さんから聞いたわ。今のあなたにそれができるかしら?」
それはなんと、彼の母、時田美鈴の声だった……。





