何百年ぶりかの面白い子
………
……
「ああ、行っちまったな。あの子。しかもこじらした怨霊を連れて」
浅間麗が店から去り、開きっぱなしだった自動扉が大きな音を立てて閉じたところで、坂本葉月は苦笑いを浮かべながらつぶやいた。
そこに人間の姿に戻った鎧屋アヤメが静かに並んできた。
「ほほほ。何百年ぶりかしらぁ? こんなに面白い子を見たのは」
笑い方に不自然なものを感じた葉月がアヤメの横顔を覗き込む。
すると彼女の目は不思議な色をしていた。
心配、不安それに期待、喜び……。
葉月はまがりなりにも役者の端くれだ。
相手の目の色を見れば、どんな心持ちでいるのか、多少なりとも分かると自負している。
しかし今のアヤメほど、複雑な感情を抱いている者の目を見たことはなかった。
「藤次郎が入れ込む理由が分かった気がしたわぁ……」
葉月が一度も聞いたことがないような湿っぽいアヤメの声。
アヤメの横顔をもう一度ちらりと見ると、頭をボリボリ掻きながら大きな声で独り言を言った。
「ちっ、麗と私じゃあサイズが違いすぎるっつうの。ちょっとバックヤードで自分の制服着てくるわ」
アヤメが目を細めて葉月を見つめる。
澄まし顔を取り繕っているが、複雑な目の色は変わらない。
もう数年来の付き合いだ。
彼女の言いたいことはなんとなく分かっている。
――ったく……。入れ込んでいるのはお前の方だろ。
葉月は彼女に言葉を出させないように、早口で告げたのだった。
「後片付け。帰ってきたら、手伝ってもらうからな」
それが葉月にとって、アヤメに対する精一杯の気遣い。
彼女の言葉が終わらぬうちに、アヤメは煙のように消えていたのだった――
◇◇
南池袋にある「長坂邸」と言えば、ちょっとした観光名所に指定されてもおかしくないくらいに、大きくて立派な建物だ。ただ洋子さんたちの父親の長坂喜一は、洋子さんいわく「他人をいっさい信用しない性格」だそうで、使用人は誰もおらず、邸宅と庭の手入れのいっさいを家族で行っているというから驚きだ。
もちろん外からしか眺めたことくらいしかないが、誰に聞かずともその場所までの道のりは、私、浅間麗でも分かっている。
そのため、道に迷うことなく、さながら疾風のように街を駆けていった。
冬の訪れを感じさせる冷たい秋風が吹けば、薄手の長袖一枚では身震いを覚えてもおかしくない。
しかし今の私にとっては前へ進む追い風にしか感じられない。それほど私の胸の内は、自分がなすべきことへの意欲で燃えたぎっていたのだった。
なお、右手にさっきまで握っていた時田美鈴の細い腕は、コンビニを出た直後から姿を消している。
ただ、姿を消したのは彼女の腕だけではなく、彼女の全身が綺麗さっぱり見えなくなっていた。しかしその気配だけは背後にしっかりと感じられる。アヤメから受けたダメージは相当深かったようで、特に何も邪魔することなく、ついてきているようだ。
そして彼女は頭の中に直接声を響かせてきたのだった。
――私を長坂邸に連れていって、いったい何をさせるつもりかしら? 俊太には私の姿も見えなければ、声も届かないのよ。
私は手足を止めず、彼女の問いに答えた。
――そんなの知らない!
姿は見えずとも時田美鈴の目が大きく見開かれたのが感じられる。
――まあ、呆れた。やっぱり私は浅間さんのことを勘違いしていたようだわ。
――なんとでも言いなさい! でも、私は信じているの。子供の間違いを正すのは、親の役目だって。そして子の幸せを望むのが、親の祈りだって!
――俊太の幸せ……。あの子の望むことを叶えてあげることが、あの子にとっての幸せじゃないのかしら?
――それは違う!! 私はいろんな人の死を見てきたから、これだけは言える!
一度言葉を切った。
もうすでに長坂邸の大きな門を視界にとらえている。
私は彼女との会話を締めくくるべく、心の中で大きな声をあげたのだった。
――笑顔で相手に『ありがとう』と言えることが幸せだと、とあるチワワの守護霊が言ってたわ。私もそう思う。今の俊太さんにはそれができないと思うの!
――笑顔で『ありがとう』……。それが幸せ。
それっきり時田美鈴の声は聞こえなくなった。
私も黙ったまま目の前に迫ってきた長坂邸まで急ぐ。
そうして大きな門の前まで来た。
智子さんが駆け込んできたままだからだろうか。
その門は半開きのままだった。
「よしっ! 行くわよ!」
自分と背後にいるであろう時田美鈴の怨霊に向けてそう告げた私は、門をくぐり、よく手入れされた広い庭へと入っていったのだった。





