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許しを与える存在

 異空間にトリップなんてしたことないけど、もしそれが本当にあるとしたら、今のような状況のことを言うのだろう。

 不思議な浮遊感とともに、時田美鈴とたった二人だけしかいない空間に、気づいた時には立っていた。

 

 その中で、いくつもの彗星のような輝きが、私の横を通り過ぎていく。

 なんとなくその光に触れてみる。

 すると指を通じて流れ込んできたのは彼女の『念』だった。

 

 我が子の幸せを祈ることができない哀しみ。

 我が子の不幸を作り出した相手への恨み。

 

 私の心の中は、それらの『念』で埋め尽くされていき、溢れ出した感情が、涙となって頬を伝っていった。

 そうして『念』がすべて通り過ぎたところで、辺りの風景が一変したのだった――

 

………

……

 

 そこは、とある病院の一室。

 窓の向こうのオレンジ色の空を見れば、季節は秋の終わりに違いない。

 

 その病室に、一人の少年……時田俊太が、口をへの字に曲げたままやってきた。中学校の帰りのようで、スクールバッグを右肩にかけている。

 ベッドに横たわっていたやせ細った美しい中年の女性、時田美鈴が、彼を迎え入れようと懸命に体を起こす。

 それを見た俊太は、バッグをすばやく椅子に置くと、慌てて彼女の背中を支えた。

 

――無茶しなくていいから。すぐ帰るし。


――そういう訳にはいかないわ。せっかく俊太が一人で来てくれたんだから。


 優しい美鈴の声に、俊太はどこか気まずそうに顔をそらす。

 すると今度は芯の通った強い声がした。

 

――ほら。背筋! 曲がってるわよ! しゃきっと伸ばして。しゃきっと。


 俊太が脊髄反射のようにぐいっと胸をそらすと、美鈴は安心したように小さく微笑んだ。

 空がオレンジから紫にうつろっていく中、まるで柔らかな光を放つ街灯のような彼女の笑みに、俊太の頬がほのかに赤くなる。

 美鈴は彼の表情の変化に気づいていながらも、それには触れずに、静かな口調で問いかけた。

 

――どうしたの? 一人でここに来るなんて初めてじゃない。


 俊太は再び気まずそうにしながら、椅子の上のスクールバッグから数枚の紙を取り出した。


――なにかしら?


――中間テスト……。親父が持っていけってうるさいから。


――まあ、そうだったの!


 嬉しそうに目を細めた美鈴は、彼の手から中間テストの解答用紙を受け取ると、一枚一枚食い入るように見つめた。

 どれも点数は80点以上。中には満点のものまである。

 とても優秀な成績なのは、学校のことをよく知らない人でも分かるであろう。

 しかし美鈴の目を釘付けにしていたのは、学校の先生が記した点数ではなく、俊太の手で書かれた文字や数字であった。

 

 字は体を表すと言われている。

 

 俊太のそれは決して綺麗とは言えないが、力強さと芯の強さが感じられる立派なものだ。

 美鈴の目から、彼女の意図と関係なしに、熱いものが光る。

 

 この時、彼女は確信した。

 

 俊太は自分が想像している以上に真っ直ぐに大きくなっている。

 もう自分が背中を押さなくとも、彼は歩き続けていけるだろう。

 

 それは時田俊太が母の手から巣立ったことを意味していると、彼女は感じたのだった――

 

 感慨にふける美鈴の一方で、俊太は初めて目にする母の涙に、戸惑いを隠せない。

 ズボンのポッケからハンカチを取り出すと、美鈴の方へぐいっと手を伸ばして差し出した。

 彼女はハンカチは取らず、その代りに差し出された俊太の手に優しく自分の手を重ねた。

 そしてさらに戸惑いを大きくした俊太を見つめながら、小さな声で言った。

 

――俊太は覚えていないと思うけど、俊太が生まれた日。空に大きな虹が現れたのよ。


――生まれたての時のことを覚えている奴なんていねえよ。


 ぶっきらぼうな物言いは、昔から変わらない。

 しかしその奥に優しさが隠されているのを、美鈴はしっかりと知っている。

 彼女は口元を緩めると、穏やかな口調で続けた。


――ふふ、それもそうね。ねえ、なら知ってるかしら? 虹の向こう側には何があるか。


 普段は冗談など言わない厳格な母。そんな彼女の口から出たとは到底思えないファンタジックな質問に、俊太は言葉を失ってしまった。

 すると美鈴は、重ねた手に力を込めて続けた。

 

――昔ね。あなたが生まれたばかりの時。母さん、父さんと約束したのよ。『いつか俊太と三人で虹の向こう側へ行こう』って。


 俊太の目が大きく見開かれる。

 しかし彼が何か言い出す前に、美鈴は続けた。

 

――ふふ、馬鹿みたいな話でしょ? でも、父さんも母さんも心からそうしようと誓ったの。だって虹の向こう側には、きっと見たこともないような美しい光景が広がっていると思うから。


 美鈴の熱っぽい口調に気圧されるようにして、俊太はぼそりとつぶやいた。

 

――だ、だったら早く病気を直してくれよ。


 ほら、やはり俊太は優しい。

 美鈴はもう一度、目を細めて微笑んだ。

 

――ええ、俊太がそう願うなら母さん、頑張る。俊太も一つだけ母さんの願いごとを聞いてくれる?


――なんだよ?


 美鈴に手を握られ、頬を赤く染める俊太が、眉をひそめて問いかけた。

 そんな彼に愛おしそうな視線を向けている美鈴は、柔らかな表情のまま、願いごとを口にしたのだった。

 

 

――俊太。約束して。俊太は、真っ直ぐに生きて、いつか絶対に虹の向こう側に行くって。私はずっと見守っているから。



 美鈴の言葉に、俊太の表情が強張った。

 一方の美鈴はいつになく真剣なまなざしで俊太を見つめている。

 その瞳を通じて、彼女の言葉の真意が正しく伝わったのだろうか。

 俊太は彼女が握っていた手を荒々しく引くと、棘のある調子で言った。

 

――病気、治す気ねえじゃんか! ふざけるな!


 彼はスクールバッグをひったくるようにして肩にかけると、大股で病室の扉の前まで歩いていく。

 そして、振り返ることなく、手すりに手をかけて言った。

 

――虹の向こう側……。三人で行くんだろ? だったら、早くここから出てくれよ。


 そう言い残して、彼は病室をあとにしたのだった――

 

 

………

……


――バシッ!!

 

 乾いた高音が背中から響いてきたところで、鋭い痛みが私を現実の世界に引き戻した。

 思わず背中をはたいた人物の方へ顔を向けると、そこには険しい顔つきの坂本さんの姿があった。

 

「気をつけろ。憑依されるぞ」


 その言葉にはっとして、目の前でうつ伏せのままの時田美鈴を見た。

 彼女はまさに私を食い殺さんばかりに、怨念のこもった瞳で睨み続けている。


 この目に飲み込まれそうになっていたのか……。


 坂本さんが口にした『憑依』とは、心と体を霊に乗っ取られ、意のままに操られてしまうこと。

 もし時田美鈴が私に憑依したなら、私は自らの命を絶っていたかもしれない。

 そう考えただけで、背中に悪寒が走る。

 ゴクリと唾を飲み込むと、気持ちを落ち着けるために、一度目をつむった。

 

「麗ちゃん。早くやっておしまいなさぁい。ためらう必要なんてないわよぉ」


「そうだ。この怨霊は『許さざる存在』。もはや後戻りはできない」


 アヤメと坂本さんの声が、振り上げたままの右手に力を与える。

 

――許さざる存在を、巫女として退治するだけのこと。


 理屈はしっかり分かっているつもりなの。

 でも脳裏を支配していたのは、まったく違う感情だった。

 

 もし……。

 私が時田美鈴を許さなかったら……。

 

 きっと時田俊太をも『許されざる存在』に変えてしまうだろう。

 そうなったら、この世の者でなくなってからもなお、息子のために『執念』を燃やす時田和正の守護霊は報われなくなってしまう。

 いや、それだけではない。

 

 三人の切なく、美しい『約束』は果たされなくなってしまう――


 ふと時田美鈴の言葉が風のようによぎる。


――あなたは『許し』を与える不思議な才能を持つ人。


 あの時の彼女の言葉に偽りなど感じられなかった。

 もし、本当に私にそんな才能があるのなら……。



 私は彼女と、そして彼女の家族に『許し』を与えたい。

 彼ら家族の大切な思い出と約束を守るために――

 


 一度大きく息を吸い込むと、ゆっくりと目を開いて、目の前の時田美鈴に命じた。


 

「……立ちなさい……」



 彼女の瞳の中にかすかに動揺の色が混じる。

 私の隣に立っている坂本さんも、口をわずかに開け、何か言いたげだ。

 しかし私は誰かが反応する前に、天まで轟くような大きな声をあげたのだった――

 

 

「自分が言い出したことくらい、自分で守りなさい!! 時田美鈴!! 俊太さんと約束したのでしょう!? 彼が虹の向こう側にたどり着くまで、見守っていると!」



 ズボンのポケットにお札をしまうと、そのまま時田美鈴の右手を取った。

 

「ちょっとぉ! 麗ちゃん! 何やってるの!?」


 アヤメの驚く声が聞こえてきたが、それを無視するように時田美鈴を立たせると、そのまま彼女の腕を引っ張って自動扉の方へ歩いていった。

 

「おいおい! 浅間さん、ここから出てどこに行くつもり? 仕事中だろ?」


 坂本さんの呼び止める声がしたところで、私は長袖のシャツの上から羽織っていた制服を脱いだ。

 そしてそれをヒラリと、坂本さんの方へ投げ放つ。


 ふわりと舞い上がった真紅の布地は、使命感に燃え上がる私の心のようだった。

 

 それを目を丸くしながら受け取った坂本さんに、私は高らかと告げた。

 

 

「今日のシフト、交換してください!! お願いします!!」



 そして次の瞬間には、時田美鈴を引き連れてコンビニの外へと駆け出していったのだった――

 

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WEBアマチュア小説大賞
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