『愛』の怨霊
◇◇
「あぐっ……。ううっ……」
突如として首に食い込んできた時田美鈴の五本の細い指。
おぞましい怨念が指の力となって、私の喉をつぶしてきている。
そのあまりの強い力に、全身が痺れ、右手に握っていたお札も床に散らばってしまった。
なすすべがない私は、ただ短く問いかけるより他なかった。
「な……なんで……?」
私の問いかけに、時田美鈴の霊は小さく微笑みながら答えた。
「そうね……。あなたは『危険』だから、かな」
「危険……?」
私が時田美鈴に危険視されるいわれなどまったくない。
しかしそれ以上の言葉が通らぬほど、私の喉はつぶされかけていた。
すると彼女の方から続けた。
「あなたは『許し』を与える不思議な才能を持つ人」
「許し……」
「前にあなたとお話しした時に、そう直感したの。あなたが俊太の前に現れれば、きっと俊太は許してしまう。……憎き長坂家の人間を……」
「ど……どうしてそんな……ぐっ……!」
すべての言葉が終わらないうちに、時田美鈴の手の力が強まり、私は小さなうめき声を漏らした。
いつの間にか彼女の口元からは笑みが消え、今は冷たく引き締まっている。
そして突き刺すような眼光を携えたまま、彼女は続けた。
「私は俊太が望むことは何でも叶えてあげたい。その邪魔をする者は排除する……。それが母親としての役目。愛する家族を守るためなら、この手を汚すこともいとわない」
違う……。それは間違ってる……。
愛する家族を守りたいなら、あなたのやり方は間違っている……。
言葉にできない代わりに懸命に首を横に振る。
私の様子を見つめながら、時田美鈴の顔が険しくなっていった。
「納得がいかない、とでも言いたいのかしら? では、あなたには分かるの? 両親を亡くし、膨大な借金だけが残されたあの子の気持ちが」
「うぐ……」
ますます彼女の手に力がこもる。
視界が徐々に白く薄れていく中、彼女の槍のように鋭い言葉だけは、はっきりと鼓膜を震わせた。
「あの子に残された道は、もはや長坂家の『モノ』となるしかないことを……! 自分だけではなく、家族の威厳を踏みにじられたあの子の無念を……! あなたは分かるとでも言うの!!?」
時田美鈴の激しい感情が私の首を通して直接胸に響く。
恨みと怒りが漆黒のうねりとなって荒れ狂う。
だが……。
私にははっきり見えていた。
その濁流の中で、小さく震えながら我が子を抱く、か細い母親の姿が――
現実はかくも厳しく、そして冷たい。
しかし、我が身が滅びようとも、愛する子だけは温もりで満たそうと、懸命に背中をなでるその姿を見て、私はようやく気付いたのだ。
――彼女は『助け』を求めている。
『愛』の怨霊なんだ――
そう確信した瞬間に、私の両目から涙がぽろぽろと落ち始めた……。
「あなた……。泣いているの?」
時田美鈴の驚きにみちた細い声が、かすかに聞こえてきた。
もう意識はほとんど残されておらず、頬をつたう涙の感触すら私にはない。
しかしその涙の意味だけははっきりと理解していた。
そして、私は最後の力を振り絞ってつぶれた喉から声を吐き出したのだった。
「助けた……い……。あなたも……。俊太さんも……」
その言葉の直後に、時田美鈴の目が大きく見開かれたかと思うと、次の瞬間には鬼のような形相となって甲高い声で叫んだ。
「ふざけるなぁぁぁぁ!! 赤の他人のくせして、馬鹿にしやがってぇぇ!!」
これまでにないほどに凄まじい力が私の喉に襲いかかった。
だがすでに私はその痛みや苦しみすら感じることもできない。
体のあらゆるところが言う事を聞かず、もはやただ喉を掴まれて立たされているだけの状態。
ついに私は観念した。
もう……。
だめだ……。
ごめんなさい……。
パパ、ママ、おばあちゃん……。
そして店長……。
アヤメ――
しかし、次の瞬間だった――
――ほほほ。おねんねにはまだ早いわよぉ。残念系三つ編おさげちゃん。
と、頭の中にあのいやらしい声が直接響き渡ってきたではないか。
失いかけた意識と感覚がかすかに戻ってくる。
すると派手な炸裂音が響いてきたのだった。
――ドオオオオン!!
それまで押し潰されていた喉が一気に開き、新鮮な空気が、堰を切ったように肺の中へと流れ込んできた。完全に取り戻した聴覚がとらえたのは、ガシャンという音と、雑誌コーナーに並べられた本が床に散乱するのが音だ。
次に戻って来た視覚がとらえたのは、雑誌コーナーでうずくまる時田美鈴の霊の姿。
そしてようやく思考力が戻ってきたところで、
――もしかして、誰かが時田美鈴を吹き飛ばしたの?
と、真っ先によぎった。
だが体は状況把握よりも、生存本能を優先したようだ。考えを巡らせる前に、呼吸を元通りにしようと、口から空気が漏れだした。
「はあああっ!!」
私の口から出てきたとは思えない高い声が肺から押し出されたとたんに、がくりと膝が床に落ちた。
かすかに体が震えているのは、それまでの死への恐怖によるものか、それとも命が助かったことへの喜びによるものか、判断がつかない。
そして、ふと床に映った影が真横までやってきたところで、私はゆっくりと顔を上げたのだった。
すると目に映ったのは……。
「坂本さん……?」
そう、アラサー劇団員の坂本葉月さんの姿だった。
なぜ坂本さんがここにいるのだろうか……。
その疑問さえも口に出す間もなく、先に坂本さんの口からいつも通りのハスキーボイスが聞こえてきた。
しかしその言葉遣いは……。
「わらわの可愛い麗ちゃんをいじめたツケは、きっちりその身で払ってもらうわよぉ」
私の大っ嫌いな女狐のあやかし。
鎧屋アヤメそのものだった――





