11月18日 昼 劇団『柳の下』稽古場
◇◇
坂本 葉月、29歳。劇団『柳の下』に所属する劇団員だ。
すらりとしたスレンダーな体型で、整った顔立ちをしていると言われれば、その通りだろう。
しかし、めったに化粧なんてしないし、おしゃれもしない。
当然、彼氏なんて作ったこともない。
しかし彼女がそんな小さなことは気にも留めていないのは、大きな夢があるからだ。
それは「演劇の世界で華々しく成功すること」。
――30までに成功しなかったらこっちに帰ってきなさいよ。お見合い先なら父さんが見つけてくれるから。
田舎に住む母はいつもそう彼女に言って聞かせたが、実家に帰る気など毛頭ない。
今は小さな劇団で、端役しか貰えないが、いつかは自分にもスポットライトが当たる日が来る。
彼女は、そう願っているし、そうなるものだと信じてやまなかった。
ただし、夢のことばかりにかまけていても、腹は減るし、飯は食えないのが現実だ。
そこで彼女は「特殊な力」が活用できる場所で、アルバイトをすることにした。
アルバイト先の名は『ファミリーセブン南池袋店』。
そう、彼女は生まれつき霊感が強く、しかも霊から憑依されやすいという特異な力の持ち主なのである。
11月18日、日曜日。
この日も彼女は午前中から夕方にかけてシフトが組まれる予定だった。
しかし、
――浅間さんに午後入ってもらうことにしたから、坂本さんは夕方のシフトをお願いできないかな?
という店長である鎧屋藤次郎からの申し出があり、彼女はしぶしぶそれを受けた。
そこで、この日は昼から夕方まで、劇団の稽古場に顔を出すことにしたのだった。
「あの店長には、どうも逆らえねえんだよな」
稽古の合間の休憩時間。
スポーツドリンクの入ったペットボトルを口につけたところで、藤次郎の顔がふと浮かび、思わずため息がでる。
今回の劇では、演者全員によるダンスパートがあるため、多くの人数が参加する夕方からの稽古に参加したかった。
しかし鎧屋藤次郎から頭を下げられると、普段は勝ち気な彼女であっても、自然と受け入れてしまうのだから不思議なものだ。
今は稽古場には彼女の他に、やせ型で中年の男が一人しかいない。
その一人が、葉月の言葉に耳をぴくりと動かした。
「あらぁ? 葉月ちゃん、それってもしかして、『恋』ってやつじゃない?」
彼は藤堂 隆康。
この時間に稽古場に入り浸れるのは、彼の職場が新宿二丁目のゲイバーで、シフトが夜勤だからだ。
彼は、葉月の言葉に、何を勘違いしたのか、腰をくねくねさせながらすり寄ってくる。
葉月は鬱陶しそうに藤堂を押しのけながら言った。
「そんなんじゃないけどさ……。まあ、いいよ、どうでも。じゃあ、そろそろ再開しようか」
彼女は手にしていたペットボトルのキャップを閉めて、床に置くと、すくりと立ち上がった。
「ええー! せっかく面白そうな話なのにぃ。もう終わっちゃうのぉ!?」
目を輝かせながら何かを懇願してくる藤堂を見て、葉月はふぅと大きく息を吐いた。
「あのさ……。どうでもいいんだけど、そのしゃべり方だけは直してくれる?」
「しゃべりかたぁ?」
藤堂が目をぱちくりさせて、小首をかしげる。
それを冷ややかに見ていた葉月は、吐き捨てるように言った。
「私の大っ嫌いな女狐にそっくりなんだよね。そのしゃべり方」
「女狐って、まあ! それ、いい響きねぇ! あたしもついに女狐デビューかぁ!」
なんでも前向きに捉えられる藤堂のことを、彼女はまったく理解できない。
これ以上は彼のことを相手にする気になれず、稽古を再開するために音楽をかけることにした。
大がかりな音響などあるわけもなく、自分のスマホがステレオがわりだ。
そのスマホを操作するため、大きなため息とともに首を横に振りながら、部屋の片隅にあるテーブルの方へ向かった。
しかし、葉月のスマホの真横に誰かが腰をかけているのが目に飛び込んできたのだった。
それは黒い和服を着崩した美女。目尻に鮮やかな紅をつけた瞳で、にやにやしながら葉月を見つめている。
葉月はその姿を見た瞬間に、条件反射のように顔をしかめた。
なぜならテーブルの上でニコニコしながら葉月に向かって手招きをしている美女は、彼女の良く知る相手だったのだから……。
「こんにちは。葉月ちゃんの大っ嫌いな女狐ですよぉ」
そう……。それは鎧屋アヤメだった。
葉月は「ちっ」と舌うちをすると、藤堂に聞こえないような小声でつぶやいた。
「……すまんな、ここは関係者以外立ち入り禁止なんだ」
「ほほほ、わらわと葉月ちゃんの関係じゃなぁい。固いこと言わないの」
「悪りぃ。私とあんたの関係を口にするならなおさらだ。早くここから出ていってくれ」
「つれないなぁ。ちょっとだけ用事があっただけなのにぃ」
アヤメは、もの悲しげな顔つきになって、上目遣いで葉月を見る。
どんなに生理的に受けつない相手でも、弱々しい視線を向けられると、手を差しのべようとしてしまうのが葉月の悪い癖だ。
彼女はイライラを抑えながら問いかけた。
「なんだよ、用事って?」
「ちょっとだけ貸して欲しいのよぉ」
「貸す? 何をだ?」
しかしこの問いかけをしたことに葉月は後悔した。
どうして彼女の存在そのものを無視しなかったのだろうと……。
なぜならアヤメはニタリと口角を上げながら、こう告げたからだ。
「葉月ちゃんの『体』。ちょっと借りるわよぉ」
と……。





