11月18日 昼 ファミリーセブン南池袋店 ⑤
その言葉の直後、時田美鈴は私に色のない視線を向けたまま、一歩後ろへ下がる。
無論、その先にあるのはイートインスペースだ。
ぞわりと背中に悪寒が走り、思考が瞬時に凍りついた。
いったい彼女が何を考え、何をするつもりなのか……。
このまま智子さんの元へ行かせたら、何が起こるのか……。
まるで検討もつかない。
ただ、彼女の三日月のような尖った笑みからは、何かおぞましい未来しか予感させなかった。
私は思わず叫んだ。
「智子ちゃん! 今すぐそこから出て!!」
雷鳴のような私の言葉に、智子さんが転がるようにしながら売り場へと姿を現した。
「どうしたの? うらっち?」
目を丸くした智子さんの顔が、私に向けられる。
ほとばしる緊張感の中、どこか彼女一人だけがふわりと浮きあがっているかのようだ。
「なんか怖いよ。うらっちの顔……」
眉をひそめて顔を曇らせる智子さん。
時田美鈴は、そんな彼女に向かって、私を見つめたまま一歩また一歩と近づいていく。
説明している暇などない。
とにかく彼女を安全な場所へ……。
その一心で、唾を飛ばした。
「こっちへ来て 早く!!」
「へっ? なんで?」
「理由は聞かないで! とにかく智子さんの命が危ないの!」
「はぁ!? 命? ちょっとうらっち! 大丈夫?」
鬼気迫る私の顔に、智子さんはますます困惑して、一歩こちらへ足を踏み込んできた。
彼女をここにとどめておいてはならないという思いだけで、私も彼女に向かって足を踏み出す。
そうしてあと一歩ずつのところまで二人の距離がつまったところで、私は彼女の左腕に向かって手を伸ばした。
腕を掴んでしまえば、あとは強引にお店から出すだけだ。
あと数cm――
しかし……。
「あれ? あれれ?」
突然智子さんが一歩二歩と後ろに下がり始めたのだ。
「智子さん!」
「あれ? うちどうしちゃったの? あれれ?」
智子さんの背後には時田美鈴の怨霊がぴたりと取り憑き、白くて細い手を、智子さんの両肩にしっかりと食い込ませていた。
「なんか肩が重い……。うち疲れてるのかなぁ?」
おでこに手を当てて顔をしかめる彼女に、まるで蛇のように体を巻きつかせた時田美鈴。
彼女は智子さんの耳をなめる仕草をしながら、ゆったりと告げた。
「ふふ、別に私がここで首をしめてしまってもいいのよ」
「やめなさい!」
私の甲高い声に智子さんが目を大きく見開いた。
「えっ? 何? もしかして誰かここにいるの? 幽霊が出るってただの噂じゃなかったの!?」
私は言葉で答える代わりに、コクリとうなずいた。
血色のよい智子さんの顔からさっと血の気が引く。
「誰なの? 誰の幽霊がいるの?」
「ふふ、浅間さん。その質問に答える必要はないわ。その代わり、早く家に帰るように言ってちょうだい」
時田美鈴がそっと智子さんの首に手をかける。
首に冷たいものを感じたのか、智子さんの顔が歪み、その背筋がぴんと伸びた。
私はお札をしのばせたポケットに右手を突っ込んだ。
――これは使いたくない……。でも……。こうなったら仕方ない!
緊張のあまりに口の中はからからだ。
その代わりに喉の奥に唾が貯まる。
ごくりとそれを飲み込むと、私はぎりっと時田美鈴を睨みつけた。
彼女との距離を目で測る。
あと二歩……。
注意と話をそらしながら距離をつめるしかないと覚った私は、とっさに出てきた問いを口にした。
「どうしてそこまでするの? あなたたち血のつながった親族でしょ!」
智子さんの目が大きく見開かれた。
どうやら彼女にもここにいる『人物』が誰なのか、見当がついたに違いない。
しかし時田美鈴は智子さんの反応など気にも留めず、頬を緩めると静かに答えた。
「もちろん俊太のためよ」
「俊太さん? 俊太さんがこんなことを望んでいるとでも言うの?」
「……俊太? うらっち、どういうことなの……?」
恐怖に引きつったまま、声を絞り出した智子さん。
だがそんな彼女を無視するように、時田美鈴は続けた。
「前に言ったでしょう? 俊太は家族思いのいい子。だから家族の『威厳』を穢した奴らを絶対に許さない」
恨みと憎しみのこもったおぞましい声が鼓膜を震わせる。
同時に私は、中間テスト前最後のシフトの時に、たった一人でやってきた少女のことを思い出した。
あの時の少女もまた『時田美鈴』だったのだ……。
――とても家族思いのいい子なの。だから何があっても、信じてあげて。
彼女が去り際に残した言葉が、一陣の風のようにさっと脳裏を吹き抜ける。
同時にもう一つの会話が、今度は鐘の音のように響き渡った。
――あの……。何か怖がっていることや不安に思っていることはないですか?
――そうね……。一言で言えば『許し』かな決して許してはならないことを許してしまう情と弱さ
私ははっとして時田美鈴に問いかけた。
「俊太さんが決して許してはならないこと……。それが長坂家そのもの、ということなの?」
「うらっち! 何それ!? 俊太がうちら家族を許さないってどういう……。ううっ!」
智子さんの言葉が終わらないうちに、ついに時田美鈴は凶行におよんだ。
なんと両手で彼女の喉をつぶし始めたのだ。
「やめなさい!! 退治するわよ!!」
右手でお札をかざしながら二人に一歩迫る。
しかし時田美鈴は焦ることもなく、智子さんの首をつかんだまま、私から一歩離れた。
「ふふ、あなたが私の元へ飛び込んでくるのと、智子の喉が完全に潰れるの……。どちらが早いかしら?」
「ぐぬっ……!」
「……うらっち……。苦しいよ……」
涙目の智子さんが、喉をかきむしって苦しむ一方で、私はただ歯ぎしりをするしかできない。
時田美鈴は夜叉のような顔つきで、智子さんを睨み続けていた。
「私があの人と交わした約束を果たすの……。あの子の願うことはなんでも叶えてあげるって約束を……。それが愛する家族を残して逝ってしまった私の償いなのだから……」
私はその声を聞いた瞬間に、踏み出そうとした足がぴたりと止まってしまった。
怨念のこもった、地獄の底から湧きあがってきた音のように低い声に肝を冷やしたのは確かだ。
しかしそれだけではない。
その声に、悲痛な愛の叫びを感じたのだ……。
「うらっち……。助けて……」
「智子さん!」
絞り出された智子さんの声で、はっと我に返る。
なおも戸惑う私にしびれを切らした時田美鈴は、指を智子さんの首に食い込ませながら叫んだ。
「さあ、言いなさい! 早く家に帰りなさい、と!」
紫色に変わった智子さんの顔を見れば、悩んでいる暇はないのはじゅうぶんに分かっている。
お札を握りしめた右手からは、じんわりと汗が滲み、自然と呼吸も早くなっていった。
いちかばちかで時田美鈴に向かって飛び出すか、それとも智子さんを解放すべく相手の要求を飲むか。
究極の選択が私を追い込み、胸の鼓動はドクドクと音を立てて早くなっていた。
もう時間は残されていない……。
周囲には店長も、アヤメも、おばあちゃんもいない。
私一人で決断せねばならないのだ。
極限のプレッシャーに押しつぶされそうになるのをどうにか耐えながら、ゆっくりと目をつむる……。
そして……。
顔をうつむいた私は、ぼそりと呟くように口を開いたのだった。
「智子さん……。家族が待ってる……。早くお家へ帰って……」
と――





