再び、10月7日 ②
◇◇
子は親が思っているより、よほど多くのことを知っている。
例えば固く口を閉ざした重大な秘密でさえも、何気なく食卓で暴露され、驚きのあまりにスプーンが床に転がり落ちてしまうことだってままあるものだ。
それは親が子を過小評価しているからに他ならない。
子は彼らが思うよりもずっと賢い。
そして、ずっと敏感なのである。
長坂洋子。
高校三年生の彼女もまた、多分にもれず親の想像する範疇を大きく超えていた。
学業優秀で人望もある彼女の学校生活が光に満ち溢れていることについては、父親の喜一と母親の幸子の想像通りであるのは間違いない。
だとすれば一体、何が彼らの想像の的から遥かに離れた場所にあるのか。
それは一言で表せば『愛』。
特に妹の智子に対する愛は、実の母親をも凌駕するほどに強いものだったのだ。
彼女は智子を守るためなら、鬼にも蛇にもなれると考えている。
だから、彼女はすべてを知る必要があった。
そう……。智子に降りかからんとする災いの火種を――
◇◇
10月7日、午後8時30分――
「そうか。和正くんの死に目には会えなかったか。それは残念だったな」
長坂喜一の声が、彼の書斎から漏れる。相手は甥の俊太であるのは明らかだ。
義理とはいえ弟が死んだとは思えぬほどに無機質なその声は、秋の夜風に紛れてしまえば誰の耳にも止まることはないだろう。
無論、彼はそれを知っていて、あえて低い声を出していた。
なぜなら電話で話している俊太の他に、言葉を聞かれたくなかったからだ。
「あとのことはこっちに任せなさい。悪いようにはしないから」
少しだけ早口になったのは、もう死んだ人間の話題をしたくないという気持ちの表れである。
――相変わらず身勝手な人。義理の弟のことなんて『人』とも思っていないんだわ。
ふと書斎の前を通り過ぎた時に聞こえてきた声に足を止めた洋子は、そば耳を立てながらそう思っていた。
彼女は父、喜一のことを信頼していない。
それどころか蔑視している。
多額の小遣いを与え、大きな家に住まわせ、何不自由なく生活させることを、『愛情』と定義するならば、長坂喜一という男には百点満点が与えられるだろう。
だが、少なくとも洋子にとっては、それらはさして重要でないのは、彼女が父を見る時の『目の色』に如実に表れていた。
とても冷たく色のない視線……。
とは言え、彼女も生まれた時から父を軽蔑していた訳ではない。
幼い頃はどこにでもいる女の子と同じように父になついていたのだ。
しかし、それは彼女が中学2年の時だった……。
――二人のうち、どちらかが男だったら、お前は妻としてパーフェクトだったのに惜しかったな。女しか生まなかったから、ゼロ点だ。
酔った喜一が、洋子たちの母、幸子に対して笑いながらそう告げていたのを聞いた日から、洋子の心は完全に父から離れた。
長坂家は代々から続く由緒ある大地主。
直系の男子に日本各地にある不動産をはじめ、多くの財産を継がせるのが、宿命であった。
その為、女子しか恵まれなかったことに父の不満と焦りが少なからずあるのは、賢い洋子であれば小学生の頃から分かっていたことだ。
ただ、大人というものは決して口に出してはいけないことがある、と彼女は信じている。
その『禁呪』こそが、先の言葉であった。
母だけではなく、二人の娘の存在すら嫌悪する父の物言いに、一人部屋で悔し涙を流したのを、今でも鮮明に覚えている。
そしてそんな父に対して、媚びて愛想笑いを浮かべる母もまた、洋子にとっては忌むべき存在となっていたのである。
ふと再び声が聞こえてきた。
「お前も和正くんから聞いていると思うが、俺が和正くんに生命保険をかけてやっていた。それで借金が帳消しにできる上に、お釣りが出る」
――こいつらしい『やり口』だわ。きっと受取人も自分にしているに違いない。
喜一はビジネスが上手い。
それは「良く言えば」というものであり、言い替えるなら、他人の足元をすくって自分の利益を得るのを平然とやってのける狡猾さがある、ということだ。
ただここまでの会話の内容は、「和正おじさんが急死した」ということ以外は、洋子の想定内であり、さして心を動かされるものではない。
しかし、次の言葉は彼女の逆鱗に触れるものだった――
「お釣りは、お前が『智子の婿養子』になった時に全額渡そう。その金で学校にでも通えばいい」
それを耳にした瞬間に、洋子の全身に電撃が走った。
俊太を智子の婿養子にする……ですって……!?
すなわち事実上の彼らは婚姻することを意味いるのは疑いようがない。
そこで洋子は確信した。
父は、智子のことを彼女が生まれた時から長坂家のために利用するつもりだったのだと――
くすぶっていた心の中の炎に油がまかれる。
「ありえない……。ともちゃんの未来を、自分の野望のために奪うなんて……」
思わず漏れた小声は、まかれた油に放り投げられた小さなマッチ。
みるみるうちに洋子の中で使命感の炎が天まで昇らんばかりに燃え上がった。
しかし部屋の中の喜一は娘の激昂に気付こうとすらしていないようで、電話の先の俊太に向けて唾を飛ばしていた。
「ああっ!? 何も聞いてないだと!? だが、今さら『なし』にはできないからな。こっちには和正くんと取り交わした誓紙があるのだから」
喜一の声が荒くなる。
そこには最愛の父親を亡くした甥に対する同情の念など微塵も感じられない。
一方で扉一枚挟んで体を震わせている洋子も同じであった。
彼女の脳裏を埋め尽くしているのは、妹への愛と父への呪詛だけだったからだ。
「ともちゃんの未来は私が守る。あいつには絶対に渡さない」
黒い息を吐きながら瞳に地獄の業火を灯した洋子は、誰に知られることもなく静かに家から出ていった。
一方の喜一は早口でまくしたてた。
「11月18日だ。その日にすべての手続きをするから、こっちへ越して来なさい。これはもう決定事項だ。お前のような子どもの異論などありえんからな」
一方的に電話を切った途端に上機嫌のあまり、口角が自然と持ちあがる。
「おいっ! 酒だ! ウイスキーを持ってこい!」
妻に命じたその大声もどこか弾んでいた。
そして……。
「これで長坂家も安泰だな。ああ、早く死んでくれて本当によかった。ははは!」
彼の高笑いは、深夜になるまでいつまでも響き渡っていたのだった。
………
……
午後8時35分。
川崎のとある病院の敷地外にある小さな公園のベンチに、時田俊太は腰をかけていた。
その右手には長坂喜一と通話を終えたばかりのスマホがほんのりと熱を帯びている。
しかし俊太の顔は、そんなスマホとは正反対に、冷たく色を失っていた。
普段の彼からは想像もできないような、にやけた顔。
もし彼を知る者が隣にいれば、すぐにでも彼をすぐ隣の病院の精神科へと連れていったことだろう。
だが、彼のそばには誰もいない。
今も、そしてこれからも……。
彼の心を粉々にしたのは、『父の裏切り』であった。
まさか自分を長坂家に『売り飛ばす』ような約束をしていたなんて、どうして想像できようか。
それだけではない。
父にかけられていた生命保険の存在など、彼はまったく知らなかったのだ。
そして、まるで彼が婿養子に出されるタイミングを図ったかのように父はこの世を去った。
臨終を告げた医者は「不審な点はなし。病死です」と言っていたので、誰かの手によって命を落としたわけではないだろう。
しかし命を落とすような病に冒されていたのを、なぜ父は黙っていたのだろうか。
なぜもっと早く病院で診てもらわなかったのだろうか。
考えれば考えるほど、一つの邪推が彼を覆い尽くした。
――父が死病に冒されているのを、長坂喜一は知っていたのではないか。
と……。
母を失い、父を失い、そして帰るべき家もない俊太に、もう失うものはなかった。
不退転の決意を胸に、ゆっくりと立ち上がる。
「全部殺してやる……。長坂喜一も長坂幸子も……。そしてあの忌まわしい『4つの目』も……」
人間には目が「2つ」ある。
ゆえに彼の言う「4つの目」とはすなわち「2人」を指す。
その相手は……。
ここでその名を出すまでもないだろう。
彼は灰色の目をしたまま、星のない濁った夜空を見上げた。
「母さん……。親父……。全て終えたら、俺もそっちへ行くから。叱るのはその時にしてくれ」
そう口にした彼の背筋は、竹のように真っ直ぐに伸びていたのだった――





