再び、10月7日 ①
◇◇
ちょっとだけ時を戻す。
10月7日、日曜日。午後6時。
池袋では、浅間麗が中間テスト前最後のアルバイトに精を出していた時のことだ。
時田俊太は日雇いのアルバイトを終えて帰路についていた。
雄大な多摩川にかかる大きな橋を蒲田から川崎へと急ぐ。
またがっているのはリサイクルショップで買った、錆だらけの自転車。
都内の高校への通学も利用しており、彼は『相棒』と言っている。
酷使された『相棒』はギシギシと不気味な音を立てているが、忠実に持ち主の期待に応え、彼を疾風に変えていた。
「今日は少し長く働けたし。たまにはいいだろ」
いつもより1時間だけ多く働いた分、薄茶色の封筒の中に入っている千円札も1枚だけ多い。
そこで彼は商店街の総菜屋に立ち寄り、野菜コロッケを2枚注文した。
「120円ね」
「はいよ!」
封筒の中に入っている小銭から百円玉と十円玉を取り出し、店主のおじいさんに手渡す。
引き換えに受け取った揚げ物の温もりに、思わず彼は笑みをこぼすと、再び『相棒』のペダルを力強くこぎ始めた。
「きっと親父も喜んでくれるさ」
黒が濁った色の空に浮かんだ白い街灯が照らすこの世界は、今宵の空気のように冷え込んでいる。
しかし手にしたコロッケは温い。
ただそれだけで彼は小さな幸せを感じていた。
いや、むしろたったそれだけで、じゅうぶんだ。
たとえ偉くなれなくても、大金持ちになれなくても、ただ温かいコロッケを父と頬張るだけで、彼は満たされていたのである。
――夢や希望を持て。
――努力は必ず報われる。
中学の時も、高校になった今も、先生はいつだって同じことを言う。
でも、それは成功できる『下地』のある者だけに通用する文句だ。
それは家庭環境であったり、経済状況であったり、はたまた人脈であったり。
そうした『下地』があって、才能や努力といった夢物語の扉は開かれる。
今の彼のように『下地』がない者にとっては、絶対に開かれることのない扉。
だからこそ、時々こうして2枚のコロッケに贅沢を感じられるだけでよい。
死んだ母だって、許してくれるはずだ。
こんな自分でも……。
彼は母のことを思う時、いつも胸がぎゅっと締めつけられる。
なぜだろう……。
思い起こせば、母はいつだって強くて厳格な人だった。
――常に背筋を伸ばしなさい。
猫背になりがちだった彼は、毎日そう注意されたものだ。
なんでも背筋を伸ばすと、自然と威厳が湧きあがってくるそうだ。
――見た目からでもいい。威厳を持って生きなさい。
最初は彼にはそうする意味がまったく分からなかった。
物心ついた頃から借金取りにおびえ、逃げるように各地を転々とする日々だったからだ。
しかし母が死んでからしばらく経ったある日。
プライドの欠片もなく、伯父に土下座をする父を見た時に、母の言葉の真意をようやく理解した。
ああまでして『生きる』意味とはなんだろうか。
どんなに貧しくても、人としての最低限の威厳を失う恐怖を身を持って知ったのだ。
それ以降、彼は何があっても背筋を伸ばすようになった。
同時に自分と父の威厳を破壊してこようとしてくる、『目』を憎悪するようになっていったのだ。
温かいコロッケで幸せを感じられる今の生活。
それが言わば『土俵際』だ。
彼はそこから一歩たりとも動くつもりはない。
それこそが彼の威厳そのもの。
『相棒』が悲鳴とも喜びともつかぬ、きしむ音をあげている。
彼はその音に心地良さを感じながら、目の前に迫った簡易宿泊所へと急いだのだった――
………
……
宿泊所に駐輪場などない。
適当な場所を見つけて自転車を停める。しっかりと鍵を抜いておかないと「パクってください」と言っているのも同然だ。
小さな鍵をズボンのポッケにつめこみ、父親の待つ3階の部屋を見上げる。
ここ最近、父親の和正は風邪をこじらせていた。
給料の良い夜の仕事に穴を開けたことはないが、日中の仕事はここ3日ほど休み、部屋で横になっている。
その分俊太が二人分働いているから問題ない。
学校の中間テストは近いが、授業を真剣に聞いていれば、自然と点数が取れることを、彼は中学の頃から知っている。だから周りがテスト勉強で焦っている間、彼は父親の世話と日雇いバイトに集中していた。
それでも父は俊太が帰ってくる頃合いを見計らって、温かい食事を用意しておいてくれる。
だが、この日。部屋の明かりは消えたままだ。
彼はちょっとした胸騒ぎを覚えて、階段を一段飛ばしで駆けあがっていった。
それは彼の居ぬ間に、父親がどこかへ消えてしまったのではないかという不安であった。
鍵を開けた後、ドアのノブを回す。
玄関も漆黒の闇に包まれ、人の気配すら感じない。
ますます彼の不安は大きくなり、もはや胸がはちきれんばかりであった。
「ただいまー」
と口調だけはいつものぶっきらぼうな感じであっても、靴を脱ぐ指先がかすかに震えている。
そしてようやく玄関から出た彼は、転がるようにして灯りのスイッチのもとまでやってきた。
パチッ。
乾いた音とともに、古い白色電球が二度三度とまたたく。
薄汚れた白い光が部屋を満たしたところで、彼の視線は部屋の片隅にある布団に注がれた。
するとそこには、わずかな膨らみと、その先に白髪混じりの頭が覗いているではないか。
「なんだよ……。驚かすなよ」
という言葉とともに、彼の胸に小さな穴が開けられた。
すぅっという音が聞こえてきそうなくらいに、彼の不安が急激に取り除かれていく。
小さなテーブルの上に、見慣れぬ厚みのある封筒が目に入ってきたが、彼はそれを手に取らずに父親の方へ近寄った。
「寝てるのか?」
起こさぬように小声でつぶやきながら、父の寝顔を覗き込んだ。
すごく穏やかな顔。
見る者の口元をかすかに緩める優しさを感じさせる。
だが……。
俊太はすぐに異変に気付いた。
なぜなら聞こえてくるはずの音がまったく聞こえてこなかったからだ。
それは、寝息……。
「親父! おい、親父!」
慌てて和正の両肩を持ち、激しく揺さぶる俊太。
しかしまるで糸の切れた操り人形のように、和正の頭は俊太にされるがままに上下左右に揺れている。
俊太は和正を抱きかかえたまま、右のポッケをまさぐる。
小さな鍵が手に触るが、今は邪魔でしかない。
乱暴に抜きとって投げ飛ばすと、ポッケにあるもう一つのものに手をかけた。
プリペイド式のスマホだ。
『119』と番号を押した直後、相手が電話に出るかでないかのうちに叫んだのだった。
「親父が息をしてないんだ! 救急車を早くよこしてくれ!!」
と――
………
……
救急車が宿にやってくるまで、わずかに時間ができた。
少しでも気を紛らわせるものがないと、気狂いを起こしてしまいそうなくらい、俊太は精神的に追い詰められていた。
ふとテーブルに目を移すと、先程も見た一通の封書。
ほぼ無意識のうちにそれを開いた。
すると、そこには父の字がびっしりと埋められている一枚の紙。
遺書だった――
彼は食い入るようにして、見慣れた少し汚いその字を読み始めた。
◇◇
俊太へ
これをお前が読んでいるということは、俺の身になにかあったということだ。
父さんには、謝られねばならないことがいっぱいある。
せめてここで謝らせて欲しいと思い、筆を取ったのだ。
まずい文かもしれないが、できれば全部読んで欲しい。
まずは、お前を残して、あの世に旅立ってしまうこと。
本当にすまない。
借金のこと、それにお前の学校のこと。
全部、喜一おじさんに頼んである。
だから喜一おじさんに電話をして、今後の身の振り方を相談して欲しい。
次に、父親らしいことは何ひとつしてあげられなかったこと。
本当にすまない。
父さんはお前という息子と一緒に暮らせて、本当に幸せだった。
だからお前を幸せにしてやれなかったことは、本当に悔しいし申し訳なく思っている。
どうか幸せになってくれ。
どんな形でもいいから、お前が望む幸せを掴んでくれたら、父さんはこれほど嬉しいことはない。
最後に。
これはあの世の母さんに向けて。
約束を何一つ果たせなかった。
本当にすまない。
俊太が学校を卒業するまで面倒見ること。俊太が望むことを全て叶えてやること。
そして俊太と俺の二人で、虹の向こうにある景色を見に行くこと。
たった一つも守れなかった。
あの世でもし待っていてくれたなら、俺を叱り飛ばしてくれてもかまわない。
だが、これだけは言わせてくれ。
俊太は本当に自慢の息子に育ったぞ。
学校まで片道二時間かけて自転車で通っているのに、一度だって休んだことはないんだ。
まだ朝日が上る前から起きて、俺の分まで朝ごはんを用意してくれるんだ。
洗濯だって、掃除だって、食器洗いだってできる。
それに、ちょっとだけバイト頑張った時は、コロッケを買ってきてくれるんだ。
そのコロッケが旨くてな。
お前にも食べさせてやりたかったよ。
ああ、死にたくねえな。
死にたくねえな。
神様でもいい。
こんこん様でもいい。
願いを一つだけ叶えてくれるなら、俊太を幸せにしてやってくれよ。
どんなに辛くたって、どんなにみじめな思いをしたって、
愚痴の一つもこぼさねえ、良い奴なんだ。
だからどうか幸せに。
時田和正
◇◇
最後の方は涙でよく読めなかった。
一緒に封筒に入っていたのは、親子三人で笑顔でいる写真。
もう一枚の、和正の妻、美鈴だけが写っている写真は、どうやら彼が冥土にまで持っていくつもりだったのだろう。
俊太がどこを探しても見当たらなかった。
そうしているうちに、甲高いサイレン音が迫ってきたかと思うと、すぐ近くでやんだ。
しかしどんなに急いでも、すでに遅かった。
時田和正。
わずか43年の短い生涯を、宿の片隅でひっそりと閉じていたのだった――





