10月26日
◇◇
10月26日、金曜日――
中間テストも無事に(?)終わり、私はアルバイトに復帰した。
復帰と言っても、テスト勉強のために、たかだか2週間ほど休んでいただけだ。
それでも久々に真紅の制服に身を包むと、初めて出勤した日のような緊張に身が固くなる。
しかし、バックヤードを出た直後、その緊張が憤りに取って代わろうとは……。
「あらぁ、麗ちゃんじゃないの。あれぇ? ちょっと見ないうちに、少し太ったんじゃない?」
と、デリカシーのかけらもない憎たらしい声が聞こえてくる。
考えるまでもなく、アヤメの声だ。
瞬間湯沸かし器のように一瞬のうちで頭の中を沸騰させた私は、唾を飛ばしながら叫んだ。
「うるさいわね! お腹にお肉がついちゃったのを、気にしてるんだから!」
しかし、次の瞬間……。
私を襲ったのは激しい後悔だった。
だってすぐ目の前には数人のお客様。
私の大声に、みんな唖然としていたのだから――
言うまでもなく全員の視線が私のお腹を突き刺してくる。
中には顔を真っ赤にして口元を抑えながら、必死に笑いをこらえているお姉さんもいるではないか。
そんな中、お母さんに連れられた小さな男の子が、私を指差して大きな声をあげた。
「お姉ちゃん! おデブになっちゃったのー!?」
まさに自らの意志で地雷に飛び込んだ勇者of勇者!
彼によってスイッチが入れられると、店内は大爆発ならぬ、『大爆笑』に包まれたのだった。
「ホホホ!」
もちろんアヤメも涙を浮かべながら、腹を抱えて大笑いしている。
私は大急ぎでバックヤードの中に戻ると、「バタンッ!」と扉を閉めた。
そして悔し涙をいっぱいに浮かべ唇を噛みしめた。
ポケットというポケットに詰め込んだ『お札』に、私は固く誓った。
「あいつぅぅぅ! 絶対に成敗してやる!」
と……。
そして、扉に耳をあてて、店内が静かになるのを待ち続けたのだった――
………
……
「そんなに怒らないでよぅ。ちょっと冗談言っただけじゃない」
レジカウンターの中でタバコと中華まんの補充を始めた私の横で、アヤメがつんつんと肩をつついてくるが、私は『いないモノ』を貫いていた。
――アヤメも反省しているようだし、今日のところは大目に見てやってくれないかな。
と、店長に頭を下げられてしまっては、ポッケに忍ばせておいたお札を渋々かばんに戻すより他ない。
しかし、私は「金輪際、彼女とは口を聞きませんから!」と、高らかと宣言して持ち場へと戻ったのである。
「お姉さん、反省してますぅ」
と言った彼女をほんの一瞬だけ見ると、ぺろっと舌を出して、コツンと自分の頭を叩いている。
その仕草を見れば、誰でもこう思うに違いない。
――誰かこいつに『反省』という言葉の意味を教えてあげて!
と……。
何はともあれ、この世に「アヤメ」などという女狐のあやかしは存在などしていないのだ。
「もぅ。麗ちゃんの、いけずぅ。お姉さん、いじけちゃうぞぉ。いいのぉ?」
という練乳のような甘ったるい声なんて、私の耳には届いていないし、頬をぷにぷにとつついてくる細い人差し指など、まったく見えない。
こうして私は、アヤメのしつこい妨害をものともせずに、淡々とこの日の仕事をこなしていったのだ。
………
……
午後6時。秋の陽が落ちるのは本当に早い。
もう空は紫色に変わりかけた頃。
「おっはよー!!」
という底抜けに明るい声が響き渡ると、時間が巻き戻ったかのように、店内がぱあっと明るくなった。
長坂智子さんだ。
もう季節は秋だというのに、真っ黒に日に焼けた彼女は、テニスラケットの入ったバッグを背に、右手を上げながらやってきた。
「いらっしゃいませ! 智子さん!」
「おお! その声は、うらっち! 元気そうで何よりじゃ! はははっ!」
大笑いしながら、アイスコーナーへと大股で歩いていく智子さん。
いつも通りの光景に、私は目を細めながら微笑ましい気分で見つめていた。
……が、しかし。
智子さんが私の目の前を通り過ぎていった、次の瞬間。
私の口は大きく開いてしまった。
なんと彼女の背中にぴたりとアヤメがひっついていったではないか!
「ちょっと待ちなさい!」
思わず声をかける。
すると智子さんが怪訝そうな顔つきを私に向けた。
「うらっち、どうしたの?」
しまった!
と心の中で舌打ちをしたが、もう遅い。
智子さんの背後でニタニタとしているアヤメを見ないようにしながら、私は必死に弁解した。
「勘違いさせちゃって、ごめんね! 今、自分に言い聞かせたの! ほら私っていつも焦ってドジしちゃうから、『ちょっと待ちなさい!』それを今やっても平気なの!? ってね!」
自分でも苦しすぎる言い訳だと思うが、とっさに出てきたのはこれが限界。
でも、智子さんは納得したのか、にんまりと笑顔になった。
「なーんだ! そうだったのね! もう、うらっちは紛らわしいなぁ!」
そう言って再びアイスのコーナーへと足を向けた彼女を見て、私はほっと胸をなでおろした。
しかし、アヤメのいたずらはとどまるはずもなかった。
「ふぅ」
なんと今度は智子さんの首筋に息を吹きかけたのである。
「ひゃっ!」
と、彼女が飛び跳ねる。
アヤメは手を叩きながら喜んだ。
「ホホホ。この子、意外と才能あるかもぉ。私の息を感じられるなんてぇ」
「ちょっと! やめなさい!」
「やめる? どゆこと? 誰かに息を吹きかけられたんだけど!?」
目が点となって、何度も振り返ったり、床を覗き込んだりしている智子さん。
このままだと彼女がとある疑いをかけるのは火を見るより明らかだ。
――もしかしてお化けがいるの!? うらっち、見えているの!?
と……。
そうなったらものすごく厄介だ。
なんとかごまかそうと、話題をそらした。
「そ、そう言えば、洋子さんは!? 今日は一緒じゃないみたいだけど!?」
智子さんはピタリと動きを止めると、私の方を向いて答えた。
「お姉ちゃん、もう三年生だからさぁ。結構、学校が休みになること多いんだよねぇ。ずるくない?」
よしっ! 注意がそれた!
私は心の中でガッツポーズを決める。
しかし、アヤメがそう簡単に諦めるはずもなかった。
今度は無防備な彼女の太ももに指を滑らしたのだ。
「うひゃあっ! やっぱり何かいるって!」
「いやいや、いない! いない! 勘違いだよ! そう言えば、俊太さん! 俊太さんは元気!? 最近全然見ないけど!」
再びピタリと動きを止めた智子さんは、右手の人差指をあごにあてた。
「うーん、実はうちにも全然連絡なくてさぁ。元気にやってるかも分からないんだよ……。ひゃああっ!!」
なんと今度は彼女の脇腹をくすぐったアヤメ。
ええい、もうやぶれかぶれだ!
「と、ところで俊太くんのお父さん! 和正さんはどう!? 元気にしてる!?」
俊太さんの状況が分からなければ、彼の父親のことなんて知るはずもない。
でも、私が知っている名前は、もう「和正さん」しか残っていなかったから、それも仕方ないと思うの。
それでも人の良い智子さんは手をあごにあてて、真剣に考え込み始めた。
だが、彼女の口から答えが出る前に、意外なところから声が聞こえてきたのだった。
「あらぁ、もう死んじゃったわよぉ。時田俊太の父、時田和正なら」
と――





