10月7日
◇◇
10月7日、日曜日。
こんな都心の真ん中でも、秋の虫の声が聞こえてくる夜に、私、浅間麗は『ファミリーセブン南池袋店』でアルバイトをしていた。
夕方5時から夜10時までのシフトも、残り1時間。日曜のこの時間は、特に客足が鈍く、無機質に何度も繰り返される決まりきった音楽とキャンペーン告知の店内放送だけが、右の耳から左の耳へと抜けていた。
この日、店長は不在。つまりアヤメもいないわけだが、それが静寂の寂しさを醸し出す一助となっているのかもしれない。
いやいや! 何を言っているの!? 浅間麗!
あの『天敵』がいないのが寂しいなんて、絶対にありえないんだから!
ぶんぶんと首を左右に振って、そのままバックヤードの方へ視線を向ける。
もう一人のアルバイトさんである劇団員の坂本 葉月さんがバックヤードで発注作業をしているからだ。
そう。今、店内は私一人なのである。
「はぁ……。静かだなぁ」
一通り課せられた仕事を終えた後、ぼーっとしながらレジカウンターの中で直立したまま一歩も動こうとしなかった。
夏休みが終わった後の一カ月って、まるで糸の切れた風船のように、ふわふわと気が抜けてしまうのって、私だけかしら?
でも来週からは中間テストも始まるし、その翌月には文化祭や進路面談も待っている。
うかうかしている場合でないのは、分かっているつもりなのだが、どうにも気合いが乗ってこないのだ。
――最近の麗ちゃんは、ますます鈍くなってつまらないわぁ。
と、アヤメにさえも呆れられたが、腹を立てることすら忘れてしまっていた私。
ただ時間が過ぎるのをじっと待ち続けていたのだった。
……と、その時。
「こんばんは」
と細い声が入り口の方から聞こえてきた。
はっと我に返って顔を声の持ち主に向けると、そこには白のワンピースに身を包んだ、今夜の三日月のような美少女が静かにたたずんでいるではないか。
艶やかな黒髪に、切れ長の細い目、そして小さな唇……それは明らかに長坂洋子さんだった。
「あっ! いらっしゃいませ!」
急いで声をあげたものだから、すっとんきょうな調子になってしまった。
しかし彼女は気にする様子もなく、ニコリと微笑んで小さくお辞儀をしてきた。
目の前で声をかけられるまで気付かないなんて……。
自動扉の音すら耳に入ってこなかったのかと思うと、自分の情けなさに「はぁ……」と、大きなため息が出てしまった。
「ふふ、お若いのに、大きなため息をつくなんていけませんわ」
たった一つしか歳は変わらないのに、まるで母親のような彼女の物言いに、背筋がぴんと伸びる。
その様子がおかしかったのか、彼女はくすりと笑った。
目の前の人に自然な笑みがこぼれると、心が落ち着くのはなぜなのだろう。
私は大きく息を吸い込んでから、いつもの調子に戻って問いかけた。
「今日はお一人なんですか?」
洋子さんと智子さんは二人でワンセットであると思いこんでいた。
その為、彼女が一人でこの場所に立っているのが、不思議でならなかったのである。
ただ彼女は何でもないように、さらりと答えたのだった。
「ええ、今夜はあの子を一人にさせてあげたいんです」
その言葉にピンと電球がついたように一つの考えがひらめいた。
――テスト勉強のことだわ!
智子さんの学校も私の学校と同じように、中間テストが近いのは容易に察しがつく。
きっと洋子さんがそばにいると、すぐにおしゃべりにうつつを抜かして、勉強に集中しようとしないのだろう。
智子さんの陽気な笑い声が頭の中でこだましてくると、心にぽっと火が灯ったように優しい心持ちになる。
自然と声の調子も明るくなった。
「相変わらず家族思いなんですね!」
私の言葉に彼女は細い目をさらに細くした。
「ふふ、家族のことを大切に思うのは当たり前だと思うの。愛する者であればなおさらよ」
「そ、そうですよね! ごめんなさい!」
思いの外鋭い一言に、弾かれたようにペコリと頭を下げた。
でも彼女の方は特に何とも思っていないようで、慈愛に満ちた穏やかな笑顔で続けたのだった。
「ふふ、前々から思っていたのだけど、浅間さんって正直でいい子ね。そういうところとても好きよ」
「えっ?」
突然褒められたものだから、目がまん丸になって頬が桃色に染まっていくのが自分でも分かった。
何を言ってよいのか分からずにただ戸惑っていると、彼女はいたずらっぽく笑いながら言った。
「ごめんなさいね、困っちゃうわよね。素直な気持ちを口に出しただけだから気にしないで」
「あ、はい……」
そこまでで会話が途切れた。他のお客様がお店に入ってきたからだ。
常連のおじさんで、いつもタバコとコーヒーを買っていくのだが、今日も変わらないようだ。
レジカウンターに缶コーヒーを置いてから、かすれた声で言った。
「これと、23番のタバコ、一つくれる?」
「はいっ! かしこまりました」
カウンターの壁に種類ごとに並べられているタバコのケースから、「23番」を一つ取り出す。
缶コーヒーとそれをバーコードで読み取って、レジの画面に表示された金額を声に出した。
おじさんが小銭入れをじゃらじゃらとさせて百円玉の枚数を数えている間、私はお店の中をうろうろしている洋子さんの背中をちらちら見ながら、彼女のことを考えていた。
以前から感じていたことではあるが、喜怒哀楽がはっきりとしている智子さんと比べて、洋子さんは何を考えているのかよく分からないことが多い。
子供っぽい仕草で周囲を笑わせることもあれば、別人かと思われるくらいに大人びた時もあるのだ。
とは言え、そのミステリアスな部分もまた、彼女の魅力の一つ。
猪突猛進型で、いつでも「分かりやす過ぎるわぁ」とアヤメにちゃかされている私には、絶対に醸し出せない紫色した艶美な雰囲気を、瞳の奥から感じる。
それでも私には、たった一度だけ見せた彼女の表情が頭からどうしても離れないでいた。
――私は長女だから。守られるより守る方よね。ありがとう、浅間さん。
あの時の彼女から感じた『弱さ』こそが、彼女の本当の姿なのではないか。
だとしたら今日ここに一人で来たのも、彼女が私に訴えたいことが、何かあるのではないか。
会計を終えたおじさんが店を去り、再び店内は彼女と二人きりになった。
考えすぎかもしれないが、あの日以来どうしても晴れないモヤモヤを取り除こうと、私は彼女に問いかけたのだった。
「あの……。何か怖がっていることや不安に思っていることはないですか?」
彼女の細い目がわずかに大きくなる。
そして彼女は口元に小さな笑みを浮かべて答えた。
「そうね……。一言で言えば『許し』かな」
「許し……?」
「ええ、決して許してはならないことを許してしまう情と弱さ」
遠くを見つめながら答える彼女の顔は、とても凛々しい。
しかし、哲学的なその回答を理解するには、私はあまりにも幼すぎていた。
眉をひそめて次の言葉を失っていると、彼女は申し訳なさそうに笑みを浮かべたのだった。
「ごめんなさいね。こんなことしか言えなくて」
「いえ、むしろ私の方こそ……。理解できずに、ごめんなさい!」
「ふふ、浅間さんはやっぱりいい子ね。さてと、そろそろ行こうからしら。ありがとう、付き合ってくれて」
ちょうど別のお客様が入ってきたところだ。
自動扉が開いている隙に、彼女は出口に立った。
「最後に一つだけ。俊太のこと、よろしくね」
「俊太さん?」
彼女の従兄弟のことだ。
智子さんに連れられて三人でここにやって来たのを何度か見たことがある。
しかしまともに会話らしい会話をしたこともなかったので、その名前が出てきたことが意外でならなかった。
「とても家族思いのいい子なの。だから何があっても、信じてあげて」
「え、ええ。分かりました」
「ありがとう。やっぱりあなたに会いに来てよかったわ」
にこりと微笑みかけた彼女は、静かに店を後にした。
そして闇夜の向こうへと消えていったのであった――





