9月22日
◇◇
――ねえ、あなた……。覚えてる?
――何をだい?
――あの子が生まれた日のこと。
――ああ、よく覚えているよ。確か、空に大きな虹が現れたんだ。
――そう。虹。親子三人でいつか虹の先に何があるか見に行こうって約束したの覚えてる?
――ああ、それも覚えてる。
――……ごめんなさい。私……。約束守れそうにない……。
――気にするなよ。俺たち二人でお前が見れなかった景色を見に行って見せるから。
――ほんとに?
――ああ、約束だ。だから今は、自分の体のことだけを考えればいい。
――うん、ありがとう。じゃあ、少しだけ眠るわね。
――ああ、ゆっくりお休み。
――ええ……。おやすみなさい。
◇◇
9月22日、土曜日――
池袋から電車で30分離れた埼玉県のとある町のアパートの一室。
表札のないその部屋で、和正と俊太の親子は二人で朝食を取っていた。
まだ夜が明けぬうちから出かける身支度が整っているところからも、この日は彼らにとって『特別』な日になるであろうことは想像に難くない。
わずかな白米に一枚の塩鮭、それに味噌汁。
育ち盛りの高校二年生の俊太には、とてもじゃないが満足とは言えない。
しかし、彼は文句一つ言わずに茶碗と箸を手に取っていた。
「もう少し食べるか?」
和正は自分の分の鮭の切り身を、俊太の茶碗に放った。
「いや、いい」
俊太は和正に鮭を返す。
こうして二人は、再び無言で食事を続けた。
冷たい沈黙とがらんとした部屋の中が、寂寥感をより一層引き立てる。
そんな中、俊太はちらりと窓際を見た。
そこには二枚の写真立てが立て掛けられていた。
一枚は幼い彼を真ん中にして、若い和正と、見た目からして薄幸の佳人が笑顔で並んでいる。
もう一枚は、その美しい女性が一人だけで写っていた。
それらの写真を見つめる俊太の顔は、悲しいとも悔しいとも判別のつかぬ、複雑なものだ。
和正は俊太の仕草に対して、すぐに反応した。
「母さんも許してくれるさ」
俊太は和正の顔に視線を移す。
しかし直後には空になった茶碗を見ながら、ぼそりとつぶやいた。
「一人で勝手に死んだ奴に、許して欲しいだなんて思わねえよ」
口は悪い。しかし本心でないのは、目を見れば分かる。
だから和正は何も言わなかった。
俊太はすぐに立ち上がり台所に立った。
手慣れた動作で、使った食器を水洗いする。
そうして食事についてから、わずか5分後には荷物を片手に玄関で靴を履き終えたのだった。
「ぼさっとしてると、『ヤツら』が来るぜ」
「ああ、分かってる。今行くさ」
ちなみに、俊太の言う『ヤツら』とは、人を人とも思わぬ借金取りだ。
明らかに法に触れた取り立てに対して、警察を頼っても無駄であるのは過去の経験から分かっている。
なぜなら彼らはいつも事なかれ主義を貫くからだ。
――あなた既に自己破産したでしょ? なのにまた借金抱えて……。こうなると私たちもなかなか……ねぇ。
通報しても電話口でこう返されたのは、一度や二度の話ではない。
こうなるともう、殺傷事件でもない限り、警察をあてにすることはできないだろう。
だから俊太が休みの日はこうして陽が昇る前から家を出て、身を潜めるのが習慣になっているのだ。
………
……
カチャカチャと音を立てて白米をかきこんだ和正。
彼もまた台所で食器を水洗いした後、二人分の食器をタオルにくるんでかばんにつめこむ。
そして玄関まで急ぎ、靴を履きながら俊太にたずねた。
「もう忘れもんないか? ここには戻ってこないんだぞ」
「忘れるほど、物なんてないだろ。……じいちゃんの残した借金を置いていけたらいいんだけど」
俊太が、ちり一つ落ちていない部屋を見渡しながら、苦笑いを浮かべる。
和正はつられて笑みを浮かべただけで、何も言えなかった。
俊太はそんな彼を見て、顔をそむけながら言った。
「親父は何も悪くねえんだから。そんな顔するなよ」
子供に励まされ、ますますどんな言葉を口に出したらよいのか、和正には分からなくなってしまった。
なお、借金を作ったのは和正ではない。和正の父親であり、一度だけ彼の肩代わりとなって自己破産をして借金を帳消しにした過去がある。
だが重度の痴呆症に冒されていた彼の父は、あらゆる手口に騙されて、多額の借金を残しこの世を去った。
そのため、一回目の自己破産からわずか二年後に、和正は再び多額の借金を抱えてしまった。
もう一度、自己破産を申告するには「あと五年必要」と法律で決められている。
つまり彼はなんとしても五年間は、歯を食いしばって生きていかねばならなかったのだ。
だが一度借金を踏み倒された闇金業者は、次は逃げられまいと容赦しなかった。
多額の借金のことはすぐに職場に知れ、たちまち立場を失った。
さらに悪いことに、彼の妻で俊太の母である美鈴が末期の乳がんに冒されていると分かったのは、二年前のことだ。
――どうか、俊太に高校だけは卒業させてあげてください。あの子の願うことはなんでも叶えてあげてください。この通りです。
死の間際になって、やせ細った体を、くの字に曲げて必死に頭を下げた妻。
彼は涙を流しながら、彼女を抱き締めた。
そして固く約束を交わしたのである。
――美鈴……。お前の願いは絶対に俺がかなえてみせる。だから安心してくれ。
と――
………
……
「ちょっと待ってくれ」
和正は履きかけた靴を脱ぎ捨て、窓の方へと駆け込んだ。
そして大事そうに二枚の写真立てを手にした。
その両方に共通している人物に祈りを捧げるために――
――美鈴。お前との約束だけは、たとえこの身が業火に焼かれようとも、守ってみせる。
それはまさに執念であった。
昼夜を問わず馬車馬のように働き続けたのはもちろんのこと。
恥も外聞も捨てて、あらゆる知り合いや親族に頭を下げ続けたのも、息子を守るためだ。
――もう来ないでくれ。
何度、そう言われたことか。
何度、軽蔑の視線を浴びせられたことか。
何度、唾を吐きかけられたことか。
それでも、どんなに泥をかぶろうとも、彼は必死に息子を守り続けた。
だが、時として神は無情で、過酷な運命を人に課すものだ。
和正は既にぎりぎりのところまで追い込まれてしまっていた。
その為、とある決断を下さざるを得なかったのだった。
それは愛する息子を信頼の置ける家に預けること。
預け先は、美鈴の兄、長坂喜一の家……すなわち長坂洋子と智子の姉妹の家であった。
長坂家は代々続く大地主。
和正のことを何度も邪険に扱った喜一であったが、男子のいない彼ら夫婦にとって、俊太を養子に迎えるのは願ってもないことだったのだ。
――俊太をもらえるなら、お前の借金を肩代わりしてやってもいい。
玄関先で土下座した和正に対して、浴びせられた屈辱的な言葉。
あの時は、「絶対に息子をやるものか!」とかえって発奮したものだ。
しかし、今はその屈辱にすら膝を曲げようとしている。
――美鈴……。許してくれるか?
あの日以来、彼は一度も虹を見たことはない。
だから妻と一緒に想像を膨らませた虹の先がどうなっているか分からない。
それでも彼は信じている。
たとえゆっくりでも、遠回りだとしても。
歩み続ければ、きっと虹の先にたどりつけると……。
今日から2カ月後の11月18日、日曜日。
俊太を長坂家に引き渡すことになった。
それまで出来る限りの準備をするために、借金取りから逃れるように簡易宿泊所で過ごすことに決めた。
彼はまだ息子にそれを告げていない。
川崎に引っ越すことにした、としか伝えていなかったのだ。
「じゃあ、行くか。……ごほっ、ごほっ」
「親父? 大丈夫か?」
「ああ、夏風邪は長引くからお前も注意しろよ」
口元に笑みを浮かべた和正は再び玄関に向かって、一歩踏み出した。
「今度こそ、虹の先……。行けるといいな」
俊太がぼそりとつぶやく。
和正は何も答えずに、その背中に小さく微笑みかけた。
まだ見ぬ虹の先は、希望に溢れていると信じて――





