タイムテーブル上の科学者
その科学者はタイムテーブルの上を生きていた。
会議、研究、講義といったパブリックに始まり、起床、食事、就寝などのプライベートもすべてスケジュールに事細かく書き込まれている。果ては排便時間や助手との何気ない会話ですら。彼の経験観測する事象の中で、彼の手帳に書かれていないものは無い等しかった。
「教授、タイムパラドックスにおける因果律予測実験のデータが出ました」
教授机を挟んで資料を渡す白衣の女性はその科学者の助手である。特別な所作なく受け取る痩せ型の男性はその科学者だ。
彼は四次元時空間研究の第一人者だった。俗っぽく言えば、タイムマシン開発の先駆者である。
「君がこの時間にその資料持ってくるのはまさしく予想通り、いや予定通りだよ助手君。そしてその結果もね」
科学者は助手が来ると決まってそういう風に見透かした態度をとる。
「私も教授がそういうだろうと思ってましたよ」
対して助手は手馴れていて、毎度のことだと呆れ顔をする。
「その発言も予定通りだ」
今の一連の会話も出来事も彼の内隠しの中には描かれているのだろう。得意げぶるわけでもなく、淡々と事実のようにそう述べた。受け取った紙には格式ばった書体の文字。「Result」の欄にはでかでかと「ER」の二文字が印刷されている。「エラー」だ。
「やはり数値とコンピューターを使った予測実験は意味を成しませんね、教授」
「そうだな。タイムパラドックス問題を解決しなければ、ようやく見通しの立ったタイムマシン開発も正当に着手できない。過去への介入が現在、未来にどう影響するのか。それを解明せねば」
今現在、彼の抱えている研究は大きく分けて二つあった。
無論、一つは超時空間多次元移動装置、通称タイムマシンの開発。彼はこの研究を学生の頃から始め、数十年以上手掛けている。研究者としては若手の部類に入る彼だが、マシン自体の開発はすでに光明が見えていた。この調子でいけば向こう十五年、いや十年以内に完成する見込みである。彼のスケジュールにはそう書かれている。
二つ目はタイムパラドックスについての研究である。現在の時間に存在する人間が過去にリープした場合における、その時間軸に対する影響。それがタイムパラドックスである。例えばある人がタイムマシンで過去に飛び、自分を生む以前の親を殺める。するとその人物存在自体がその世界に置ける矛盾となってしまうのだ。
その人物は存在自体消滅し誰の記憶からも消えて、生まれなかったことになってしまうのか。はたまた現在世界には何の影響も及ぼさず、ただの殺人者となるのみか。そういった問題だ。これを解決しない限りはタイムマシンを開発してもその危険性により利用できない。新型兵器として悪用しようと考えるかもしれない政府関連組織や犯罪グループなども視野に入れれば、開発さえ危ぶまれるのだ。
「こればかりは見通しが立たない」
科学者は感情を表に出さないまでも常に内心で第二の問題について憂慮していた。マシンが完成する予定の十年以内に解決しなければならない。目下、科学者の時間はこちらに注がれている。
部屋の目立つところに置かれた時計からメロディーが流れてくる。腕時計のタイマーが鳴って、助手はいつのまにか用意してきた珈琲カップを机にそっと置いて差し出した。
「教授、いつものです」
「ありがとう」
そして助手はと教授室を出て行った。
科学者はこの時間、一人でこの教授室で珈琲と共に過ごす。外部からの情報をすべてシャットアウトして思考の世界に没頭するのだ。どんなことが起きようと、どれだけ多忙であろうと、研究を始めてこの時間を欠かしたことはなかった。前に上階の部屋が火事になっても出てこなかったことがあるほどだ。集中状態で喧噪が耳に入らなかったというのもあるが、この時間は彼のスケジュールの中でもそれほど最優先事項だったのだ。マシン開発のとっかかりもこの部屋から生まれた。
「ふぅ……」
白いカップをすすって、深く椅子に腰かけた。目を閉じて熟考姿勢に入る。
――パラドックスが起きることがなければそれで問題はない。考えなければならないのは起きた場合におけるパラドックス自体の回避方法の模索とタイムマシンの危険性の排除。そういった点だ。
それを現状から推理のように演繹的に考えても決定的要因を見つけるのは不可能だろう。推理は推理、予測の範囲を超えない。かといって予測実験は意味を成さない。やはり開発した後、実証的に試してみるしかないのかもしれない。
ひとまず、タイムパラドックスは防ぎようのないものであると仮定してみよう。その場合、タイムマシンをそのまま開発したとすれば、世界は大きく揺れる。様々な政府、様々な組織がマシン獲得に向け動いてくるのは間違いない。過去改編の力というのは世界を意のままに操る神の力に等しいのだ。
…………待てよ。もし仮に、マシンがそういった存在に奪われてしまえば私はどう行動を起こすだろうか。マシンが奪われて私が生きているとは到底思えないが、万一その可能性があれば私は、きっと。いや、生きていればまだいい。死んでいれば、他の誰かに託すしか……。
科学者はそっと手帳にペンを走らせた。
科学者は熟考に熟考を重ねた。
そして一週間後、科学者はパラドックスの存在を証明して見せた。パラドックスの発生を抑制する手段がないこともタイムマシンは恐るべき兵器になりうることも完璧に示した。驚くことにそれも科学者の手帳に書き記されていたのだ。
しかし、危険性を目の当たりにしつつも科学者はマシン開発をやめない。この科学者は何よりも「予定通り」を重視した。であるから、科学者の中でタイムマシンを十年以内に開発することは決定事項であった。つまりその過程、ないしはその結果として自分の身に何が起ころうと、それが想定され自らの手帳に書かれている限り、一向にかまわないのである。いったん決めればそうとしか行動を起こさないのである。
パラドックスの証明に成功してそこからまた一週間後、科学者はいつものように珈琲を片手に思考の世界へと落ちていた。
――来るとしたら今日だろう。マシンの開発予定日やそれを取り巻く十年後の人々の動きを考慮に入れれば、今日のこの時間が最も有力。私が確実に一人になり、無防備になる時間。私の手帳にもそう書いた。私のタイムテーブルは寸分も違うことなく正確なのだ。
おそらくこの後、私は殺される。マシンを狙う政府関連組織や犯罪者グループの手に落ちるわけではない。もっと身近な者、今先ほど私に珈琲を給仕してくれた……。
かちゃりと静謐な教授室に金属の擦れる音が響いた。科学者は持ち前の集中力をしまい込み、後方に気配を察知した。振り向くことなく淡々とよどみなく、科学者は言った。
「君がこの日この時間にこの場所に来るのは予想通り、いやまさしく予定通りだよ、助手君。いや十年後の助手君というべきだろうか」
銃を背中に突き付けられて、その何気ない反応ができるのは余程訓練された戦士か狂っておかしくなった者のどちらかだろう。
「私も教授がそういうと思っていましたよ。いや、十年前の教授というべきでしたか」
逆に銃を突き付けてそれほど落ち着いていられるのは凄惨な地獄を見てきた者だけだろう。
「その発言もまさに予想通りだ」
十年の差異はあれど、そのやり取りは何も変わらない。
「とは言えすまないね、苦労を掛けただろう。よく生き残ってくれたよ。いや、私もそう予想、もとい予定していたんだがね」
「教授、あなたはほんとうに勝手な人です。マシンを開発するだけしといて、自分はあっという間に殺され、あとの尻拭いを部下にさせるなんて。おかげで十年後はマシンを奪い合う紛争に抗争に戦争。地獄と化してますよ」
「だろうね、私が予定した通りだ」
「マイペースもここまでいくと狂人ですね。自分の命を賭して世界を危険に晒してまでそのポリシーを貫く必要なんてあるのですか」
「私は予定通り偉業を成し遂げ、そして予定通り死ぬ。なんとも素晴らしいことではないか。まさにタイムテーブルの上に生きた男。それも予想しやすいただ単調な日々を送るのではなく、誰も予定できないような壮絶な人生だ」
「まぎれもなく狂ってますよ」
「君も大概だろう」
「私はあなたの手帳を見なければこんなことはしていませんよ。ただ一応、あなたに指南してもらった身ではありますから細やかな恩返しに来ただけですよ」
「そうかそれは有難い。持つべきものは律儀な助手だな」
珈琲をすすった。
「さあ早く殺したまえ。誰かこの教授室に入ってきて未来があらぬ方向に変わってしまってはコトだ。君もそのためにこの時間のこの教授室を選んだんだろう? 私はマシンと共に消え去り、伝えられることのない伝説となるのだよ。予定通りに――」
銃声が轟き、弾丸が心臓を貫いた。
倒れた勢いでぽとりと胸にしまってあった手帳が晒される。血に染まりぽっかり穴の開いた手帳の最後のページにはこう書かれていた。
「助手君に殺される。そしてすべてが、無かったことになる」