【現】3.嫌がらせ
今日の朝練は集中して行えなかった。昨晩見た夢をはっきりと覚えているせいだ。時人と名乗る青年が頭を触った感触が、今でも残っている。
頭に手を当てたまま、教室へと入っていった。席に座ると、すぐさま香織が来てくれた。
「おはよ。……どうしたの。頭痛いの?」
「おはよ。いや……頭は痛くないよ。香織こそなんか声に張りがない気がするけど」
そう私が言うと、香織は少し沈痛な面持ちで少し黙った。
「……あのね、ちょっと相談したいことがあるんだけど」
「え、相談?」
香織はどことなく元気がなく、うっすらとくまができているように見える。
「あ、待って。私の席真ん中だしさ、香織の席で聞くよ」
「う、うん」
香織の席は窓側の一番後ろの席で、隣の席はあの池口の席だった。池口はまだクラブから帰っていないようだったのでその椅子に座った。
「で、どうしたの。顔色もよくないみたいだけど」
しょんぼりとしたまま、香織は机の中から何かを取り出そうとしている。一体なにが出てくるのかと、ちらっと机の中を覗き込もうとすると香織がその物を机の上に取り出した。
「うわっ、なにこれ」
思わず顔をしかめた。香織が取り出したノートの表紙に黒のマジックペンで大きく「バーカ」という書かれていた。そのノートを手に取りページを開いてみると、中のページは刃物のようなものでズタズタにされ読めなくなっている。ノートの後ろには、黒のマジックペンで大きく「あんたのこと大嫌い」と書かれてあった。
「ひどい!ちょっと、先生のところに行ってくる!」
「ま、待って!」
ノートを持って立ち上がった私を、香織が私の腕をつかみ止めた。
「どうして?これ、単なるいたずらなんかじゃないよ。明らかに嫌がらせじゃない!香織は黙って耐えるの?」
顔を俯かせ何度も頭を横に振った。
「じゃあさ、犯人を捕まえてちゃんと謝らすべきだよ」
「……だから、らむに相談したの」
あまりの香織のか細く弱々しい声に、興奮した私の頭は一気に冷めた。
「信用できる人、らむしかいないから。……私、らむ以外の人を信じていないの」
「えっ?ど、どうして。香織は学年の間じゃあすっごい有名人で人気者なんだよ。休憩中だって、授業中だって、みんな香織のことすっごい頼りにしてるじゃない」
香織は伏目がちに、私の言葉を聞いていた。
「それってさ、香織のこと一目置いてるからじゃないかな。みんなから意識されてるって私にとっちゃすごい羨ましいことだよ?私はさぁ、頭も悪いし色気はないし、勉強もできないからどうでもいい存在みたいで……」
「なんだ、自分でわかってんじゃん」
聞き覚えのある声が聞こえた。振り返ってみると、学校かばんとスポーツバックを掲げた池口が立っていた。
「どけろよ。おまえがそこにいたらかばんが置けないだろ」
「うっさい!ちょっと黙ってて」
一喝するも池口は怖気づく様子もない。ただ、私が立ち退くのを待っているようで突っ立っている。そんな様子の池口を無視し、そっと香織の肩に手を置いた。香織はゆっくりと顔を上げた。表情は暗い。
「打ち明けてくれてありがとう。……確かにこんなことされたら信じたくても信じられないよね。……香織が嫌なら先生には言わない。でも、このノートは絶対許せない……だから私なりに犯人を捜してみるよ」
香織は頷き、小さな声でありがとうと呟いた。と、丁度チャイムが鳴り、しぶしぶ自分の席へと戻った。戻りながら香織の席を振り返ると、ちょうどノートを机の中にしまおうとしている。隣に座る池口はそのノートを横目でちらりと見ると、驚いた表情を浮かべていた。
私と香織が二人っきりになれるのは、朝か昼休みの時間しかない。というもの、授業の合間合間の休憩時間は香織の周辺に必ず誰かがいる。同じクラスの人だったり、別のクラスの人だったり、時には上級生下級生までもが香織の元へとやってくる。いろんな人に話しかけられる香織は、嫌がる様子もなく笑顔でみんなと接していた。時々手紙を渡してきたり宿題を見せてとやってくる人もいるが、嫌がる様子もなかった。本当に優しい子なのだ。
だが、今日は違っていた。話しかけられてもあいまいにしか返事をせず、素通りに近い対応をしていた。みんなもいつもと違う雰囲気の香織を感じとったのか、話しかけてくる人は少なかった。
「誰か心当たりいないの?」
ご飯を運びつつ目の前に座る香織に話しかけた。相変わらず表情が暗い。
「うーん……いないかな」
「そっか」
言葉数も少なく、黙々とカレーパンを食べている。
「……なんでいきなりこんなことされたのかなぁ。香織に限ってこんなことはないと思うけど、誰かにひどいこと言ったりなんかした?」
「ないと思う。……そういえば、今の席になってからおかしなことが起きてるかも」
「おかしなこと?例えば?」
香織は買ってきたパックのジュースを飲み干した。
「みんなに貸してた宿題のノートの答えが消されてたり、もらった手紙がゴミ箱の中に入ってたり……」
「え……おかしいって思わなかった?」
「間違えて消しちゃったのかなとか、ゴミと間違えて入れちゃったのかなとか思ってたの。今思えばおかしいよね」
そういうと香織は残りの一口サイズのカレーパンを口の中に入れた。
――香織って時々天然よね。
つっこみの言葉を飲み込み、咳を一つしてから相槌を打った。
「そっか……あの席になってからかぁ。ひとまず、前々から狙われてたってことだよね。……くそー現場を押さえられたら私がビンタの一つでもやるんだけどな!こんな風にさ!」
往復ビンタのする真似をしてみせると、くすくすと声が聞こえた。
「ほんと、らむが味方だと心強いよ。ありがとう」
「いいっていいって!お守りいたしますよ、香織様」
いつもどおりの香織とはいかないものの、笑みを見せる香織にほっとした。
犯人を捜す、と香織に言ったもののどうやって捜せばいいのか、頭の中でぐるぐると考えた。当然クラブに身が入らず、何度もエラーをし監督から注意された。が、監督の言葉さえ頭に入らなかった。
クラブが終わりその帰り道、坂都高校を出て道路の向かい側にあるカフェ“ママレード”へ寄った。
「こんばんわ。ケーキセットお願いします」
「いらっしゃい。はいはい、少し待ってちょうだいね」
来店した私を笑顔で迎えてくれたのは、ママレードの店主上村愛子さん。通称、あいさん。花柄のエプロンに黄色のバンダナをつけた上品なおばあちゃん。今年六十五歳らしいのだが、しわが少なくきれいな肌をしている。
「はいどうぞ。遅くまでクラブがんばってるのねぇ。おばあちゃん関心するわ」
カウンターに座った私の前に、コーヒーとイチゴのショートケーキを出してくれた。
「ありがとうございます!……あ、そうだ。なんか悪い話しているやついませんでした?」
「悪い話?……坂都生で?」
「そうです。ママレードって坂都の中じゃすっごい人気のお店なんです。だからもしかしたら、あいさんが何か聞いているんじゃないかなぁと」
「ふふ、そうね確かに毎日たくさんの高校生が寄っていってくださるわね。照明も暗くて小奇麗でもないこんなお店に……。最近じゃこんな喫茶店もないでしょう」
確かに、照明もさほど明るいものではないし、お店のなかも木材を基調としていて古ぼけた感がある。ふと、あいさんが立っているカウンターの後ろの写真立てに目が留まった。若いあいさんと、逆光で見えないが制服を着た人と一緒に写っている。ママレードは創業30年ぐらいだと聞いたことがあった。
「確かに最近のカフェとは違うけど……そこがみんないいんだと思いますよ。それに、あいさんのケーキすっごいおいしいですもん」
といいつつフォークで一口ケーキを口に入れた。甘すぎずあっさりとして、ふわふわのスポンジとイチゴのすっぱさ、香りが口の中に広がる。思わず頬が緩む。
「ふふ上手ねぇ。……あ、悪い話をしている人だったわね。うーんそうねぇ。いろいろな話は聞くけれど……それらしいことは聞き覚えがないわねぇ」
「そうですかぁ」
「ごめんなさいね。どうしてそんなことを聞くのかは知らないけれど、明日からおばあちゃんも聞き耳立てておくから」
あいさんは微笑みながらウィンクをした。