1-3 憂鬱な就職試験
クリスの目の前にあったのは大きな屋敷だった。ここがロジャース家の屋敷らしい。屋敷の中へ通されるとそこには使用人が何人もおり、出迎えられると私は早々にアリスと離されて待合室で待機させられた。
大人しく待っているとほどなくして着替えを終えたアリスがやって来て、私を連れてひときわ目立つ扉の前まで案内する。
……どう見ても目の前は会長室だろう。扉の隣に「会長室」と書かれているし。
会長てことは前の世界の社長みたな役職といったところだろうか?
その推測からアリスの父親がいることは容易想像できた。これから起こることはどう考えても就職面接である。アリスも緊張しているのか少し震えているように見えた。
コンコン
「私です。アリスです」
「……入ってきなさい」
扉の先から了承の返事を受け、アリスは扉を開けて入っていく。
……あ、私も行かなきゃ。
慌ててアリスについて行く。
中に入ると、アリスは礼をし、クリスもそれに真似て続いて礼をした。
「用件はなんだ」
向かった先にいた男性がアリスに問いかける。あまり親子らしくない会話に驚いたけれども何が常識なのかわからないのだからとクリスは沈黙を続ける。
短い沈黙の後、アリスが問いに答えた。
「彼女を私の従者として雇わさせて下さい」
「その娘をか」
男性は私を興味なさそうにクリスに目を向けた。
「はじめまして。クリスティーヌと申します」
「私がこの商会の会長、ウイリアム・ロジャースだ」
ウイリアム会長は中年太りはしているものの、その風格は威厳があり、言葉のひとつひとつに重みを感じさせている。品定めするように見クリスを見たウイリアム会長は再びアリスに目を向ける。
「なぜだ。私がすすめた者はすべて断っていたではないか」
「彼女は私が見つけました。別です」
「え?」
クリスは驚いてアリスを見る。
断っていた?別?どういう意味?元男……前男とばれたとか?いや、転生者と見抜かれた可能性も!?
内容が理解できず、クリスは動揺しているとウイリアム会長は再びクリスを見る。
「ふむ。ではクリスティーヌよ。素質お試させてもらうぞ」
「は、ひゃい。え?」
「……お前にこの問題を解いてもらう」
ウイリアム会長は用紙をお付の秘書らしき人に渡し、秘書は部屋の端に会った場違いな机のうえにペンらしきものとインクと先ほどの用紙を置くとクリスに来いと行った。
クリスはおずおずと緊張しながら向かう。
「お前には砂時計を二回ひっくり返す間にこの問題を解いてもらう」
「ひゃい」
動揺を抑えきれず、クリスは間抜けな返答をするが空気が重く、皆無反応だった。
アリスは心配そうにこちらを見て、ウイリアム会長も本当に大丈夫かと言いたそうにしている。
そして、クリスが席に着いたのを確認すると、ウイリアム会長は砂時計をひっくり返した。
なぜか突然の筆記試験の開始である。
開始されたのを確認し、クリスは恐る恐る用紙を確認すると……
とても簡単な問題だった。この世界の算術のようであったが日本でいう算数レベルだったのだ。
というか十二才なのだから、よく考えなくても小学生レベルの問題しかなかった。それ以前に発展も遅れている中世なのだから複雑な数式も技術ならともかく商売だけならそれほど必要ないのかもしれない。
これなら余裕だ。
そう思ったクリスは羽ペンを手にとるが、ぴたりと止まって問題に解を書き込むことができない。
アリスが心配そうにこちらを見ている。
正直に話そう。私は羽ペンの使い方を知らないのだ。
なんでだよ!と内心ツッコミたかったが農民出身の設定だし、現代で羽ペンを使う機会などないのだから知らないものはどうしようもない。
どうしよう。問題よりもペンの扱いで作法を見ている可能性もあるし。
しばらく悩んでいると、コツンと音がした。砂時計をひっくり返した音だった。
もう考えている時間はあまりなさそうだ。もうどうにでもなれと意を決して尋ねる事にした。
「……ちょっといいですか」
「なんだ」
「問題は解けるのですが、ペンの使い方がわかりません。どなたか教えていただけないでしょうか」
ウイリアム会長は眉を顰めた。心配していたアリスは目が点となっている。
何言ってんだこいつ。
おそらくここにいるクリス以外全員が思ったことだろう。
私はといえば恥ずかしすぎて顔が赤くなるのを感じたが堪えるしかない。
「……わかった。アリス、教えてやれ」
「はい」
ウイリアム会長の指示に、アリスは我に返り、ペンにインクをつけて渡してくれた。
「こうするのよ。はい」
「ありがとうございます」
クリスにペンのインクの付け方、使い方を教え、渡してくれた。
後は解くだけである。
クリスはひたすらペンを動かし続けた。
問題は十問、時間はなく最初の五問も暗算で解に到達していたので結果のみをどんどん記述していく。
小学生の算数レベルなのだから残りの五問に関してもさして時間はかからなかった。
絶え間なく動かす手からカリカリと書いている音だけ響くのは羽ペンの使い方が間違っているのかもしれないがボールペン慣れしているのだからどうしようもない。
「……そこまでだ」
ウイリアム会長が終了の合図を言ったのは、ちょうどクリスが最後の問題の解を書いた後だった。
秘書らしき人が用紙を取り、解を見て顔を顰めた。そしてウイリアム会長へ渡すとウイリアム会長もまた同じ表情をした。
アリスはというと、こちらを見て呆然としている。
……あれ?私は解を間違えたのだろうか。
どう見ても場の空気が重い。クリスはだんだんと不安になっていった。
そしてウイリアム会長がようやく口を開く。
「お前はどこでこれを覚えた」
「え?」
小学生レベルの計算を言われても。いや、今は十二才ではあるけど。
……どこで?
私は首を傾げ、アリスを見てみるとあきれたような表情をしていた。
そういえば、田舎の娘だし学校いっていないんだったっけ?今更ながら設定を思い出す。
「え……えーと、昔少しだけ教えてもらったことがありまして」
「少しだけでそんなにもできるようになるものか!」
クリスは肩を竦めた。
いや、まあ少しといっても義務教育の六年間なんで少しどころかかなりです、すいません。
でもそんなこと言える訳無いじゃないですか!
内心そう思いながらも口には出さない。
「……わかった。認めよう」
ウイリアム会長は唸った。アリスはまだ呆然としているようだったが了承を聞き、笑顔になる。
「ありがとうございます!」
「ただし、使用人は要らないがその娘をただで住ませるわけには行かない。日中は経理部で働いてもらうことを条件にする」
「わかりました」
「お前もそれでいいな」
「はい、ありがとうございます!」
どうやら内定したらしい。よかったよかったこれで一安心。これで路頭で野たれ死ぬこともなくなった。そう思ったのつかぬまであった。
部屋を出ると突然アリスに腕をつかまれた。
「クリス!ちょっと来なさい」
「はい。なんですかアリスさ……アリス様」
「様は不要よ。なんであなたそんなに算術ができるのよ」
「え?どうしてといわれましても」
「まあいいわ。習ったのですものね。確認ですけど文字を書けるの」
「はい」
「地図は?」
「描けます」
「歴史は?」
「大陸史もある程度は」
「料理は?」
「少しだけ」
「裁縫は?」
「人並みに」
「接客は?」
「経験あります」
「農業は?」
「まったくできません」
「力仕事は?」
「苦手です」
「洗濯は?」
「苦手です」
「……はぁ」
「……?」
「あなた本当に田舎から来たの?」
「はい!」
「……なんだか頭痛がしてきたわ」
「え?」
アリスは頭を抱えていた。その姿を見て我に返る。
この時代の田舎といえば農家なのだ。算術と文字がかけるのに農業もできない洗濯は苦手と言った私はどう考えてもおかしいということにようやく気づく。
「……ちなみに武術は?」
「……弓を少々」
ここで嘘をついても今さら仕方ないかと思い正直に答える。
といっても弓は弓でも弓道なんだけどね。
アリスは倒れそうになっている。……あ、倒れる!
私は慌ててアリスの体を支える。
アリスは私に支えられながら話を続けた。
「いいこと。この後すぐに、あなたは使用人の部屋が与えられるわ」
「はい」
「荷物を置いたらすぐに私の部屋に来なさい!」
「アリスさんの部屋ですか」
「そう。すぐにね!」
「え?でもお体が」
「すぐに!」
「はい!」
体調はもういいのかと尋ねたかったがアリスの言いようも無い怒気に圧倒され。そう返事するしかなかった。
しかも俺、元男なんですよ。女性の部屋に入るのは少しどきどきするじゃないですか。
……そんなことは到底言えるはずも無かった。
「……アリスのやつ、どこからあんな娘を拾ってきたのやら」
アリスの父親、ウイリアム・ロジャースは頭を抱えていた。どこの馬の骨とも知れぬ小娘を連れてきたかと思えば、突然傍に置きたいと言い出した。使用人はすでにいらないし、解雇する口実のために算術を出してみれば半分足らずの時間で回答。しかも全問正解。
この算術のみではあったがどう考えてもあれは教育を受けている。レベルを考えると文字も書ける可能性が高い。もしかしたら最近普及した簿記ができる可能性も。
もしそうだとしたら経理部でおけば数年で経理責任者になれる。そして小さい店なら経営すらも……
本能的に欲しいと思い、経理部に所属させたがこれも失敗だった。ロジャース商会は嫡男のアランに継いでもらう必要があるのだ。アリスの従者となった小娘が目立てばアリスも目立ってしまうだろう。おまけに今までわざとアランより劣る従者をすすめて断ってきたアリスが初めて持つ従者。小娘も注目されることは確定なのだ。
「跡目争いなどまっぴらだ」
クリスの過去を知らないウイリアムは、経理部では出すぎずうまくやってくれと願うのであった。




