2-1 はじまりはいつだって理不尽(2回目)
……私、どうしたんだろう。
意識が戻り、ぼんやりとする中で身体を動かそうとすると鉛のように重かった。
そんな身体を動かすことを諦めてクリスは薄っすら目をあけてみると、白い天井が見えた。
そして、ぼんやりと眺めていると徐々に意識がはっきりとしてきてクリスは逃走中だったことを思い出した。
そうだ、アリスさんは!
クリスは無理やり身体を起こそうとして、お腹に突然の激痛が襲う。
「うぐっ!」
クリスは思わず呻き、激痛で自分が起き上がれないことを理解した。
仕方なく身体を動かさずに周囲を見回してみると、ここはどこかの部屋ということはわかった。
その景色をクリスはなんとなく見たことがある気がしたのだが、部屋の天井を見ながら生活したことなどないので場所は特定できそうにない。
今いる場所の特定も諦めて、とりあえずクリスは出来事を思い浮かべてみる。
確か教会へ乱入して、割りこんだんだっけ。そう、確かそうだった。
そして、アリスさんを助け出そうとして……
少しずつ教会であった出来事が蘇ってくる。
それで、乱入したのはいいものの、突然刺されそうになったのを魔法で慌てて回避して、一緒にアリス さんと逃げている途中に何者かが投げたナイフが刺さったんだっけ。
そしてどうしたんだっけ?確かそのときナイフが刺さったまま一緒に逃げて……
ここからの記憶がクリスにはなかった。
「で、今に至る……そういうことね」
今どこにいるかわからなかったがこうして寝ていられるというおとは無事逃げられたということだろう。生きている状況に感謝をしてクリスは日の光に顔を向けた。
窓から光が差し込んでいるらしく、時刻が朝であることがわかった。
「どうしよう。アリスさんは無事だったのだろうか」
早急にアリスの安否を確認するために身体を動かしたいが、今は動かすことすらままならない。
声を上げて人を呼ぼうかとも考えたが、お腹に力を入れれば激痛は走りそうなうえに場所もわからない。誰かが匿ってくれていたら迷惑をかけることになるのでやめることにした。
いろいろ考えたがどうしようもない。
クリスはこのまま諦めて寝ようかと思ったが、静かだった部屋に気配を感じた。
あれ?誰か部屋にいる。
痛みを避けるために慎重に顔を動かし、腰元を見てみるとそこには……
アリスがいた。
しかもクリスが寝ているベッドにうつ伏せになって寝ている。
「よかった」
アリスは無事を確認すると安心感からか急に力が抜けた。
あのときに無事守りきれた。この身体の代償があったとしてもアリスが無事だっただけでクリスは十分だった。
「……ん、んん」
クリスのその声に反応したのだろうか。アリスがゆっくりと目を開ける。
そしてアリスとクリスは目と目が合った。
「……」
「……お、おはようございます」
クリスはベットに横たわりながら精一杯の笑顔で挨拶をした。
しかし、アリスは寝ぼけているのだろうか、何度か目を擦りジッとこちらを見ている。
あ、あれ?
クリスがそう思った瞬間だった。
アリスが思い切りクリスに抱きついてきた。
「よ、よかったー!」
「い、痛ーーーー!」
アリスの突然の行動に身体が動かされ激痛に悲鳴をあげる。
その様子に気付いたアリスは驚き慌ててクリスから離れてくれた。
あまりの痛さに涙目になるクリス。
そして意識を取り戻しことに安堵して涙目になるアリス。
お互いの涙の理由に違いがある気がするが、細かいことは気にしてはいけない。
文字通り感動の涙の再会となった。
そして、アリスが改めてクリスの手を握り感極まっていると、クリスの悲鳴を聞いた使用人のローラが慌てて部屋に入ってきた。
ローラがやってきてクリスはようやくロジャース家の屋敷らしいことに気がつく。そして、クリスは再び部屋を見て、クリスが寝ていた部屋がアリスの自室ということに気付いた。。
ローラは入室後、二人の少女の目に涙を浮かべている姿を見て立ちすくんでいたいたものの、アリスとクリスがローラを見ると我に返り、慌てて医者を呼びに向かう。
そしてアリスはローラが医者を連れてくるまでのあいだクリスに話をしてくれた。
あの後の出来事を。
クリスがナイフに刺された後、アリスはクリスが先導するままに教会を出たらしい。
そして、そのまま近くに待っていたロジャース家でアリスとクリスに面識がある使用人、ローラにに会うと「急いで馬車を」とクリスが叫んだそうだ。
慌ててローラが馬車を連れて来ると、アリスを馬車に乗せてクリスも乗り、そのまま孤児院のマリアのいるところへ向かったらしい。
そのとき何故ロジャース商会の屋敷じゃないのかとアリスは聞いたらしいがクリスはここでロジャース商会の屋敷へと戻れば大商会同士で対立する恐れがあるとして頑なに拒否したそうだ。
そして孤児院に着いたタイミングで安心したのかクリスは意識を失ったらしい。
事実、クリスの予想は当たっていた。カルヴァート商会がクリスの身柄を差し出すようにロジャース商会に求めた。
しかし、ロジャース商会の屋敷に二人が戻っていないことを理由に拒否。
屋敷も調べさせたが当然二人の姿はなく、カルヴァート商会もクリスが犯罪を犯したわけではないので公に探して捕まえることもできずにいたそうだ。
そしてタイミングを見て、アリスが孤児院で応急処置を受けたクリスを密かにロジャース商会の屋敷に連れてきて、今に至るということだった。
ロジャース商会の屋敷へ連れてくる前に、一度は医者には診てもらったものの、意識が戻るかはわからないとのことで、責任を感じたアリスがローラと交代で三日三晩クリスを看ていた。
そういうことらしい。クリスの記憶がないところをアリスは順に丁寧に説明してくれた。
そしてアリスはどこか心なしか嬉しそうに笑顔で話してくれている。
こうしてしばらくの間、アリスがその後の話に花を咲かせていると、ローラが再び入室し、医者を連れてきた。
そして医者の診察を受け、外傷は残るかもしれないが、もう大丈夫だと告げられた。そしてしばらくは無理な運動は避けてゆっくりと休むようにもと言われた。
その日の晩、アリスがローズ商会の事務所へ戻っていった後、クリスは過去を振り返っていた。
アリスに旅の途中で拾われたこと。ロジャース商会で働いていたこと、ローズ商会での立ち上げ。
……あれ?
クリスはそれ以前のことがまったく思い出せなかった。
「それより前は何していただっけ?」
そう、たしか旅立ちは農家から出発した。だけど前の過去がまったく思い出せなかった。父の顔、母の顔、子供の頃の思い出、農村の風景。
普通であれば忘れることのない出来事が何一つ思い出せない。
「いや、そんなはずはない」
そう思い、今から少しずつ遡ってみるがアリスから声をかけられたときより前あたりから記憶はうっすらとしていて全く思い出すことができなかった。まるで記憶が欠落しているかのように。
『記憶喪失』
その言葉が脳裏をよぎる。しかし、アリスと出会ってからのことはすべて鮮明に覚えている。それに文字や算術の知識に関しても問題なさそうだった。
生後からのアリスと会うまでの記憶がない。クリスは自分が何者なのかわからなくなっていき、不安が次第心を支配していく感覚に陥っていった。
どうして何も覚えていないんだろう。
不安とそこからくる恐怖に怯えている内に意識が徐々に遠のきクリスは意識が遠のいていった。
……あれ?いつの間に眠ってしまったのだろうか。
クリスが目を開けるとアリスが傍に居て、笑顔でこちらを眺めていた。
「おはようクリス体調はどうかしら」
「体はまだ動かすことはできませんが、おかげさまで大丈夫そうです」
クリスもアリスに笑顔をむけたが記憶のことは話さなかった。
いや、話せなかった。わざわざアリスを不安にさせることを言う必要もなかったし、アリスとの会話に特に支障もなかったから。そんなアリスにその話をすれば責任を感じてしまうかもしれない。そう思ったからだ。
それでもアリスはクリスが心配なのか休憩の合間にやってきてはクリスに話しかけてから仕事へ戻ることを繰り返している。
そしてそんな日々が続くこと数日。
クリスはようやく立ち上がって歩けるまでに回復した。まだ、運動をしたり馬車に乗ったりすることは難しいが、座って仕事をするくらいなら始められる。
その日からアリスのもとで再び仕事に復帰し、部屋はアリスと入れ替わってローズ商会の事務所でクリスが寝泊りすることにした。
もっとも、ローズ商会の事務所には別室があり、そこには既にベッドもあので寝る場所としては大差はなかったが。
復帰早々仕事はなかなか大変なものであった。体調が本調子でないこともあったが、ローラン王国への事業拡大中ので倒れてしまったため、進捗が大幅に遅れてしまっていた。そして何よりデスクワークの仕事の途中で背伸びができないのは想像以上につらかった。
幸い、今回の件はウィリアム会長の申し出によりロジャース商会がローズ商会の事業に関する遅延の損失を補償することを約束してくれ、当面の事業継続には問題なさそうであった。
また、休止状態であった工房も、無事に再開を果たしたようで、ローラン王国への供給も再開されているらしい。
これら話はすべてアリスが話してくれた。
どうやら自分が居なくても仕事は回る状況ではあるらしい。
そう思うとクリスは少し寂しさや不安はあったが、思うように仕事ができていない自覚があったため、できるだけ回復に専念することにした。
そして日が経つごとに体調も良くなるにつれて、量も少しずつ増やしながら優先順位を付けて順に処理していく。
クリスは経理責任者ということもあり、不在時の経理に関する大事な決定はアリスが代行してくれていたようだが、帳簿のチェック等や業績の状況の書類整理等に関してはクリス以外にローズ商会でできる人がおらず、手付かずのままだった。
クリスは恐るおそる手をつけてみると、記憶はがなくても知識があるので判断や作業進捗は特に鈍ることなくできた。
よくわからない事案に関する質問も、直感で閃いたことを答えていればなぜか不思議と間違いがなかった。
こうして、目が覚めてから一ヶ月くらいが過ぎるころには、クリスはアリスのそばで一緒に仕事をするまでには復帰することができた。
これなら近々ローラン王国へ戻るかもしれない。アリスとそんな話をしたりした。
一方でアリスの様子が少しおかしい日もあった。ときおり相談みたいな話を持ちかけてはしきりにクリスの反応を伺い、時に驚いた表情をしたり、ときに不思議そうな顔をしたりしている。
クリスはその点に関しても思い当たる点があった。
それは、工房での書類を受け取ったときのこと。普段どうり書類に目を通し、話をすすめ、終わりに差し掛かったとき。
いつも言っている一言アドバイスがまったく思い浮かばなかった。
やむを得ず、作業が早くなっている点を少しほめてみるとその者は驚いた表情をし、その後満面の笑みを浮かべて帰っていった。
これまでどうしてアドバイスができたんだろう。自分でも不思議であったけど、記憶を遡ってみてもなぜか自然とそういう言葉がでたことしか思い出すことができなかった。
「やはり記憶喪失が原因なのだろうか」
そう悩んだが、今はどうしようのない。せめてこれまでのことを記録したものでもあれば……
そう思いながらクリスは過去を振り返ってみる。
「……あった」
しばらく考えた後、クリスは思わず呟いた。
そう、思い出してみれば、私は記憶があるときに日記と合わせてメモをとっていたことを思い出した。そのメモのありか。
それはローラン王国にできた新しい屋敷だった。
もしかしたらその日記とメモを見れば何か思い出せるのかもしれない。過去の記憶についても。
そう思うと不安が和らぎ、気持ちが落ち着く感じがした。
そしてクリスはよりいっそう回復に専念することにした。




