1-9 憂鬱
今回はクリス視点ではありません。
クリスがカルロスに帰る1ヶ月ほど前。
アリスは一足先にカルロスへ到着していた。
父親であり、ロジャース商会の会長であるウィリアムにローラン王国へ本拠地を置くことを伝えるために。
会長室では言い合いが既に始まっていた。
「ならん!」
「どうしてですか!」
「ローズ商会はまだ設立後間もない。経営が安定するまでカルロスに残るべきだ」
「ローラン王国からの条件が王都への本拠地移転なんですよ。みすみすチャンスを逃せというのですか」
アリスはいつに無く激怒していた。
「どうしてそこまで反対するのですか」
「それはだな。なんと言えばいいのか」
ウィリアム会長は悩ましい表情をし、いつになく歯切れが悪かった。
ここ2、3日ずっとこんな感じなのだ。
二言返事で了承してもらえると思っていたアリスは失望していた。
そして歯切れのないお父様の返答にも苛々していた。
「いいかげんにしてください。言いたいことがあるならはっきり言ってください。」
「……その覚悟はあるのだな。」
ウィリアム会長はアリスをじっと見つめた。
ようやく話す覚悟を決めたようだ。
「はい」
「でははっきりと言おう。アリスよ、お前に結婚の話が来ている」
「……結婚?」
突然の話にアリスは呆然とする。が我に返り言葉を選びながらを返す。
「相手は誰なんでしょうか」
「カルヴァート商会次男、ロジャース商会の営業責任者をしているダリルだ」
カルヴァート商会はカルロス3商会の一角で、規模もロジャース商会より上である。
そもそもカルロスの意味がカルヴァート、ルーファス、ロジャースのそれぞれ一字をとってつけられた都市名なのである。
それだけ3者が大きな影響力を持っているのだ。
ロジャース家が容易に断わることなどできるはずもなかった。
「カルヴァート商会」
「そういう訳だ。ダリルはローズ商会の物流でも一翼を担ってきたし、ロジャース商会でも重役にいる。カルヴァート商会が婚約を望めば正当な理由なくロジャース商会は断わることができないのだ。すまない」
「そんなあ……取りやめる方法は」
「残念ながらない。ダリルも乗り気のようだ」
アリスは崩れ落ちた。
アリスが困惑しているのは結婚そのものではない。
結婚によってローズ商会を乗っ取られる可能性があるからだ。
そして相手はカルヴァート家。下手をすればロジャース商会の跡目争いにも口を出しかねない。
アリスにとって今回の結婚に利点など皆無に等しかった。
ましてやアリスはダリルが苦手だった。容姿はそれほど悪くないものの、年下の少女だと見下したような言動と、時折見せる嫌らしい目はローズ商会のためとは言え耐え難いものがあったのだ。
アリスは意気消沈し、ローズ商会の会長室へと帰った。仕事する気分ではないが、やらなれば滞ってしまいローズ商会の売上に影響する。
アリスは何かを忘れるように黙々仕事をこなしていった。
そしてふいに思い出したかのように呟く。
「クリスがいれば」
……解決してくれるのだろうか。
淡い期待であった。クリスは経営には詳しかったが権力闘争には無縁そうな雰囲気だった。それでも他に頼れる人もいない。
アリスはクリスに手紙を書くことにした。
少しでもいいからいいアドバイスが欲しい。と。
それから幾日の日が過ぎただろうか。
距離があるので日数はかかるだとうが返事がはまだ返ってこない。
そして、悩みの最中、アリスは使用人達がよくない噂を聞くことになる。
「クリスがローズ商会を乗っ取ったらしい」
話しの内容はこうだった。アリスがカルロスへ帰った後、クリスはローラン王国と手を組み、貴族の屋敷をもらった。そして人を集めて、工房も作っているらしい。そしてローラン王国の国王の庇護のもとでローズ商会をのっとる計画との事。アリスと一緒に帰らなかったのも離れ離れになる口実だったということらしい。
実際、乗っ取りを除けばアリスと事前に打ち合わせにしていたとおりであり、ローラン王国では着々と進んでいることがわかった。
おそらく普段のアリスなら気にも留めなかっただろう。
しかし、アリスを不安にさせるには十分だった。
なぜなら
クリスから手紙の返事が返ってこないのだ。
アリスはクリスが手紙を返さない理由を考えた。
もしかしたら単に忙しいのかもしれない。
手紙の返し方を知らないだけなのかもしれない。
それでも、もしクリスが裏切っていたら。
ローラン王国の支持があるのだ。
容易に商会を継続できるし創業から関わっているクリスはその能力を持っている。
そして残されたアリスは会長としての地位を失いダリルの妻として過ごすことになってしまう。
思えば忙しい日々でほぼ毎日一緒ではあったが、一緒にいたのはせいぜい1年程度。
裏切られたとて文句が言えるほど長い付き合いでもなかった。
だとしても今は自分のところへはローズ商会としての仕事がやってくる。
そのことだけがアリスがクリスを信じる希望となっていた。
しかし、それも長くは続かなかった。日が経つにつれてだんだん仕事がこなくなったのだ。工房も発注がこず休業中らしい。
アリスのもとに仕事がこなくなって何日が経過しただろうか。
いつの間にはアリスは来る日も来る日もクリスのことを考えていた。
自分の懐刀と呼ばれても何も思わなかったが改めてクリスの存在の大きさを思い知らされていた。
クリスは私に従って当然だと思っていた。でもクリスは経理部でも期待の新人だったのだ。
自分よりも優れた人がいればその人のもとへ仕えてもおかしくない。
考えれば考えるほどにアリスは自己嫌悪に陥り、日をおうごとにやつれていった。
そして婚約のための顔合わせの前日。
コンコン
今日は珍しく、社長室にノックがなった。
「どうぞ」
「失礼します」
現れたのは普段、アリスの身の回りを世話している使用人。ローラであった。
「あら、どうしたの」
「はい、実は……」
ローラななにやら迷っているようだ。普段のアリスであれば怒るところであったが今はその元気すらない。
ただボーっとローラの様子を眺めていた。
「クリス様から出発前に預かっているものがありまして、クリス様が戻ってこないときに渡すようにと」
ローラはおそるおそる手紙をアリスに渡した。そして渡し終えると早々に退出した。
「クリスが……」
アリスは渡された手紙を見て考え、思わずゴクリとのどが鳴った。
ここに書かれていること。それでアリスの今後の運命が決まるのだ。
クリスからの謝罪の手紙であればすべて終わりである。
でも、もし違う内容であれば……
アリスは深呼吸をした。
手が震えているのが自分でもわかった。
そして慎重に手紙を開封し、覚悟を決めて読み始めた。
そこに書かれていた内容
『この手紙をもらったということは多忙で猫の手も借りたい状況だということだと思います。
そのときはマリアさんのいる孤児院に行ってみてください。文字を書くことや簡単な計算程度ならできる程度に教えておきましたので。
マリアさんに話しは既につけてあります。 byクリスティーヌ』
まったく持って的外れな内容であった。
しかし、今のアリスにとっては最高の内容であった。
クリスは裏切ったりなんてしていない。
そう信じるには十分であった。
手紙はもしかしたら事故か何かで届かなかったのかもしれない。
そう思うと何だかこれまでクリスを疑っていた自分が馬鹿馬鹿しく思えてきた。
そして疑ってしまった自分を恥じた。
クリスはおそらく今の事情を知らない。というおとはいずれ異変に気づくはず。それまでに手を時間を稼ぎ、手を打たなければ……
アリスは計画を必死に練り始めた。
そして面会の日。
アリスは粛々として面会に望んだ。一時は心が折れかけて自棄もしかけていたが、何とか持ち直せた。
縁談に関する話も無難に終わり、両親は席をはずしてダリルとアリスが残った。
そして話しはクリスの話しへと移った。
「最近、クリスティーヌという方がローズ商会を裏切ったという噂があるとか」
「ええ、私も耳にしました」
ダリルが話しを切り出した。
「アリス様を裏切るなんてふとどきもいいところです。心中お察し致します」
「ありがとうございます」
「そこで提案なんですが、クリスが運営している商会の得意先をロジャース商会に移行してはいかがでしょうか」
ローズ商会に止めを刺す。そう言いたいらしい。
「それだと私が運営するローズ商会は販売できなくなりますわ」
「それには及びません。アリスさんが先頭に立ってロジャース商会として正式に売り込めばよろしいのです」
つまりはこうだ。ローズ商会はクリスに乗っ取られたのでカルロスからは供給を停止、ロジャース商会が同様の商品をローラン王国へ供給すれば何の問題も起きない。得意先もアリスとロジャース商会の名を知っていればすぐになびくだろう。一見すれば名案ではあるが、クリスの能力を知っていればローラン王国がわざわざ乗っかるとは思えないし、営業責任者であるダリルが一番得する仕組みになっている。
そしておそらくダリルはクリスの能力をまだ知らない。
「あらありがとう。でも少し考えさせてくださらないでしょうか」
「そうですね。結婚後にでも決心していただければと思います」
ダリルは繭を顰めたが、強要する気はないらしい。
ここで話しは終わり、結婚は一ヵ月後ということで決まり、解散した。
ダリルからは早めようと言う提案もあったが気持ちの整理がしたいと言ってひたすら逃げ続けた。
縁談後、アリスは馬車に乗り、ロジャース商会へ帰るふりをしながら孤児院へと向かった。
これまで向かわなかったのはローラからの報告で屋敷内ではダリルによってアリスの行動が監視されているのを知っていたからだ。
使用人の中にも通じている者がいる。もはやアリスにとってロジャース家の屋敷も安全な場所ではなかった。
そして孤児院につくと、修道士の先生らしき人に迎えられる。
「お話しはかねがね伺っております。アリス様ですね。私はマリアと申します」
「はい。それでクリスからは」
「はい、こちらにいる3人の子がそうです。全員今年で12歳となります」
「あら、クリスとあまり歳が変わらないのね」
「はい、即戦力が必要になるだろうからとおっしゃっていました。文字や簡単な算術、雑務ができます」
「いつごろからクリスはこちらに来ていたんですか」
「かれこれ半年以上前だったかと思います。最初はお忍びでこられておりましたので口外しないよう言われておりましたが、文字や算術を教えるのが上手だったもので孤児院の子どもたちから尊敬されていました」
「あら意外。信仰心とかなさそうなのに」
「ええ。だからこかもしれませんが、何度も神様は頼る存在じゃないからちゃんと自身を磨いていかないと幸せはやってこないと言っておりました」
マリアとアリスは苦笑いした。
「で、孤児院の子どもたちも頑張ったと」
「ええ。こちらにいる3人の子がそうです。雇ってもらえればすぐにわかると思いますわ」
「わかったわ。けどまだそのときではないの。すみませんがこちらで手紙を預かってもらえないかしら。そしてクリスが来たら渡して欲しいの」
アリスはマリアに手紙を渡した。
「確かに預かりました」
マリアは何かを察したらしい。特に詮索することもなかった。
「それではよろしくね」
そういってアリスは屋敷へと帰っていった。
修道院での出来事。 没ネタ
「ねえねえ、クリスさん」
「どうしたの」
「クリスさんはどうして文字や算術を覚えようと思ったの」
「うーん、例えば君に好きな人ができたとするよね」
「うん」
「そういったとき、言葉で好きっていうのはとても恥ずかったんだ。でも手紙として文字でかけば読んで下さいと渡せるし、気持ちもちゃんと伝えられるでしょ」
「なるほど」
「文字を書けるということは仕事だけじゃなくこういった使い方もあるんだよ」
「わかった。でもクリスさんてすごいシャイなんだね」
「お、女の子ですもん!それに交換日記とかしてみるのも楽しいよ」
「交換日記?」
「そう、今日あった出来事を日記として書くの。最初は大変だろうけど文字を覚えていけばいろんなことが書けるようになって楽しいよ」
「わかった。頑張って文字を覚えてみるから交換日記をしよ」
「ええ、そうしましょ」
「約束ね」
といった会話を孤児院でしていた。相手は男の子でクリスのことを慕っていたのだが、クリスは鈍感であったため、そのことを知るのは数年先の話である。




