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二つの世界と二つの試験

 さらに思え、海において普遍的な同族あい()む習性を。そこでは世界開闢の昔から絶え間なく闘争をつづけ、ありとあらゆる生物が互いに食みあっているではないか。

     ――メルヴィル 『白鯨』 (田中西二郎 訳)




「ここは海の底なのだよ」

〝海の底〟で呆然と立ち尽くす俺に向かって、学院長は語り続けた。

「先程、水精以外の転化者は存在しないと言ったが、本当は水精の転化者というのも存在しない。ここが海の底だから、転化者は水を生み出す――それだけのことだ。もし、ここが地中だったら、転化者は皆、土精の転化者になっていただろうし、燃え盛る炎の中だったら、火精の転化者になっていただろう」

 学院長は述懐を中断し、警戒とも憐憫ともつかない眼差しを突き刺してきた。俺の言葉を待っているらしい。

 でも、俺はなにも言えなかった。なにか言いたかったが、なにを言えばいいのか判らなかった。

「驚いているようだね。無理もない」

 俺はべつに驚いちゃいなかった。ただ、怖かった。学院の最高責任者という立場にある人間が「ここは海の底だ」なんて妄言を口にするという事態が怖かった。

「まだ海が干上がる前、この竜国は――」

 ようやく、学院長は封史について語り始めた。

「――小さな島国だった。今のように広大な領土を有してはいなかったし、人口も多くなかった。取るに足りない国だったのだ。しかも、その命運は尽きかけていた。強大な敵が竜国を滅ぼそうとしていたのだよ。その敵が何者なのか判るかね?」

 判るもんか。

「敵は海だった。海の水位が上がっていたのか、あるいは島のほうが沈み始めたのか……どちらかは判らないが、竜国は海に呑み込まれようとしていた。しかし、当時の人々は負けなかった。自分たちの前に聳え立つ厳しい現実を打ち崩し、最大の危機を脱したばかりか、竜国の領土を広げたのだ」

 俺は久々に声を発した。たった一言。

「……どうやって?」

「世界を自分たちに都合の良い形に作り変えたのだよ。想像力を用いてね」

「想像力?」

「そう、想像力だ。竜国の民は皆、現実を否定し、理想の世界を思い描き、夢見て、強く念じた。その想念が世界を変えたのだ。ある日を境に海は狭くなり、浅くなり、脅威ではなくなった。そして、人々は島から出て、かつて海底だった領域を支配下に置いた」

 眩暈がした。吐き気もした。自分の頬をおもいっきり引っ叩いて、この悪夢から覚めたかった。学院長の言ってることは理解できないし、理解したくもない。

 それでも吐き気を必死に抑え、理解できた振りをして、学院長に問いかけた。

「人々が想念によって世界を変えたというのなら……本来の世界はどうなったんです? 跡形もなく消えちまったんですか?」

「いや、現実の世界はちゃんと残っている。あちら側から見れば、竜国のほうが消えてしまったように思えるだろう。ただ、時々、あちら側の者が紛れ込んでくることもある。クローヴィス君のようにね」

 クローヴィス教授……遠い異国から来たことは知っていたが、その「遠い異国」というのが現実の世界のことだとは思わなかったよ。奴は俺たちをどんな風に捉えていたのだろう。現実から逃避した負け犬? それとも、現実を打ち負かした勝利者?

「先人たちは過去を封印し、『海が干上がった』という虚構の歴史を作り上げた。自分たちの世界観をより強固にするために。しかし、いつの頃からか、想像力の欠如した者が現れ始めた。そういう人間は無意識のうちに世界を本来の形に戻してしまう」

「それが転化者ですか?」

「そのとおり。転化者と呼んではいるが、君もアレクセイ君も外にいる護法隊の娘も転化能力など有していない。むしろ、逆だ。君たちには、世界を変える能力が欠けている」

「……」

「そう、君たちは転化者ではなく、欠落者なのだよ」

「……欠落者」

 その残酷な言葉を復唱しながら、俺は二つの情景を思い描いてみた。一つは、ガキの頃から見ていた〝虚構〟の海原。もう一つは、日の光が届かぬ〝現実〟の海底。後者よりも前者のほうが自然に、鮮明に、苦もなく心に描くことができる。だが、その世界を維持するために必要なものが俺には欠けているという。

 その時になって、俺は気付いた。学院長の荒唐無稽なバカ話をいつの間にか真実として受け入れていることに。

 なんだか深遠の縁に立ち、底を覗き込んでいるような気分だった。深遠に身を投じるつもりはないが、それ以外に選択肢がない者の気分。

 それにしても判らないのは――

「――なぜ、そんな話を俺に聞かせたんですか?」

「君を試すためだよ。君は重度の転化者だ。真水ではなくて海水を再現したばかりか、あちら側の海底で泳いでいた深海魚を引き寄せてしまうほどのね。だから、この世界が偽りであることを認識した瞬間、意図せずに周囲を転化してしまうかもしれない。それを確かめたかった」

 学院長が俺に近付こうとしなかった本当の理由が判った。ずぶ濡れになることじゃなくて、スイアツとやらに潰されることを恐れていたんだ。

「第一の試験は合格だ。君の危険度は、私が予想していたほど高くないのかもしれない」

「第一というからには第二の試験もあるんですね」

「いや、ないよ。申し訳ないが――」

 本当に申し訳なさそうな顔をして、学院長はとんでもないことを言ってのけた。

「――君には死んでもらう」

 まいったね。「死んでもらう」と来たもんだ。その言葉の意味は明瞭。バカにだって判る。でも、俺の脳ミソは理解しようとしなかった。

「い、いや、あの……どういう意味ですか?」

「君には死んでもらう」と、学院長は繰り返した。「君の危険性が完全に否定されたわけではないし、なによりも封史を知ってしまった転化者を生かしておくわけにはいかないのだ」

 そこでようやく俺の憐れな脳ミソも事態を把握して――

「ふざけんな!」

 ――と、怒声を放った。

 礼儀や敬意を放り出して(礼儀はともかく、敬意のほうはそんなに抱いちゃいなかったが)、俺は学院長にまくしたてた。

「バカなこと言ってんじゃねえぞ! 封史を知ってしまったもなにも、あんたが勝手に教えたんじゃねえか! 頼んでもないのによぉ!」

「そうだ。私が悪い。すべて私の責任だ。いくらでも恨んでくれて構わない。しかし、君を試すという過程を省略して、いきなり殺すこともできたんだよ? そんな非道な道を私が選ばなかったことだけは判ってほしい」

「判らねえよ!」

「とにかく、君には死んでもらわなくてはいけないんだ。なるべく苦しまずに逝けるように努めるが……できれば自分の手で命を絶ってほしい。嫌かね?」

「嫌に決まってるだろうが!」

「そうか。実に残念だ……」

 傍から見てれば笑えるやりとりだったかもな。でも、俺は笑わなかった。

 もちろん、学院長も笑わなかった。その代わりに深い溜息をついて、またとんでもないことを言った。

「今のが第二の試験だよ」

「……は?」

 俺の「は?」も二度目だ。

「君が世界のために死を受け入れられる人間かどうかを試したのだ。結果は不合格。やはり、君には死んでもらわなくてはいけないね」

「なんだ、そりゃ? わけわかんねえよ!」

「転化者が世界に疑問を抱いてしまうのはしかたない。重要なのは、その疑問からあえて目を逸らすこと――言い換えれば、自分が属する世界に対して従順に振舞うことだ。そうすることで転化者は欠落を埋めることができる」

「じゃあ、なにか? 死ねと命じられたら、素直に死ねっていうのかよ!」

「それが不条理だということは私にもよく判ってるよ。しかし、この脆い世界を守るためには必要なことなんだ」

 学院長の悲しげな表情と声は俺の背筋を凍らせた。学院長は本気で俺の死を望んでいる。同時に本気で俺に同情し、心を痛めている。そのことがなぜか無性に怖かったんだ。

 憐憫の情に染まった目で俺を見つめたまま、学院長は手を叩いた。

 それに応じて、オリガが詰所に戻ってきた。

「お呼びですか?」

「うむ。すまないが、彼を――」

 学院長は骨張った指で俺を指し示した。

「――殺してくれ。今すぐに。ここで」

 すると、オリガは整った顔を驚愕に歪めて「なんですって!?」と聞き返した……というような光景が俺の脳内で展開した(これでも俺に想像力が欠落しているっていうのか?)。

 だが、現実のオリガは表情を変えることもなければ、理由を問い質すこともなく、あっさりと頷いた。

「承知しました」

「承知するなぁ!」

 俺は喚いた。涙こそ流してないが、それはほとんど泣き声だった(これじゃあヴォロージャを笑えない)。しかし、そんな悲痛な声に耳を貸すオリガじゃない。「下がってください」と学院長に言うと、首から下げていた防風眼鏡を顔に装着し、腰の短剣を抜き、ゆっくりと俺に近付いてきた。

 眼鏡越しに見えるオリガの三白眼はサメのそれを思わせた。相手が俺じゃなかったとしても……自分の家族や恋人や友人だったとしても、同じ目をして同じ行動を取るだろう。きっと、彼女なら第二の試験に合格するはずだ。あるいは俺と同様、試験を受けたことがあるのかもしれない。

 なんにせよ、学院長の言葉は正しかった。彼女は間違いなく欠落者だ。大事なものが欠けている。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。話を聞いてくれよぉ」

 情けない声をあげながら、俺は後退りする……ように見せかけて、いきなり周囲を転化し、オリガに飛びかかった。

 俺の水玉に飲み込まれるより早く、オリガの身体は浮かび上がった。彼女も周囲を転化したんだ。

 で、水中戦が始まった。

 ああ、勝ち目がないのは判っていたさ。相手は武器を持ってるし、水中でも視界を保てるし(そう、あれは防風眼鏡じゃなくて水中眼鏡だったんだ)、なによりも戦い慣れしている。だけど、他に手はなかった。たとえ他の手があったとしても、これが一番良い手だったと思う。現に俺はこうして生きてるんだからな。少なくとも今のところは。

 まず、俺が仕掛けたのは頭突きとも体当たりともつかない無様な攻撃。オリガはそれを躱し、短剣を突き出してきた。その刃が空を……いや、水を切った幸運に気付かないまま(気付いたのは数秒後だ)俺は彼女になんとか組み付いた。

 美人剣士に抱き着けるなんて滅多にないことだろうけども、彼女の肢体の感触を楽しむ余裕なんざなかった(ものすごく柔らかかったことだけは覚えてる)。俺は両足で水を蹴り、相手を壁に押しやり、叩き付けた。壁に掛けられていた名札と武器が水中で散乱し、武器のほうは沈んでいく。その中の一つ――分銅付きの鎖がオリガの足に絡まった。ちょっとした錨だ。

〝錨〟のせいで動きが鈍っているオリガから俺は身を離し、詰所の入り口から飛び出した。慌てて逃げ出す学院長の後ろ姿が見えたが、そんなことを気にしている余裕はなかった。こっちも逃げなくちゃいけなかったからな。

 普通に走るほうが速いことに気付いて(それに息も続かなかったし)転化を解除し、俺はとりあえず学寮に向かって走った。あくまでも「とりあえず」だ。問題はその後。いつまでも、ここにはいられない。「ここ」というのは学院やガルテーニズィヤではなく、竜国そのもののことだ。

 竜国に俺の逃げ場所はない。それ以前に居場所がない。俺に対する学院長の意見は、封史の秘密を知る人々すべてのそれと同じだろうから。彼らにとって、俺は欠落者。危険分子。異物。排除しなくてはいけない存在。

 となれば、俺が行けるところは二つしかない。あの世か、それとも……。

 寮の大部屋に駆け込んだ時、結論が出た。

 ある物が真先に目に入ったから。

 部屋中を泳ぎ回った時に横倒しになった、皆の共有財産。

 手製のリンゴ酒が詰まった樽だ。



 二つの道具を手早く用意した。

 一つは、この逃避行に必要不可欠なもの。

 もう一つは、追手に見つかった時のための武器。

 必要不可欠なもの――リンゴ酒を抜いた樽を壁際まで転がし、窓から身を乗り出そうとした時、下から大声が飛んできた。

「レーフ・テテールニコフ!」

 見下ろすと、そこにオリガがいた。

 彼女の足に絡まっていた武器はなくなっていた。邪魔になると思ったのか、革の胸当ても取っ払っていた。先程まで転化していたので、全身びしょ濡れ。黒髪はほどけ、薄い短衣は体に張り付いている。なかなか色っぽかった。違う状況なら、ずっと見続けていたかったな。

 サメの目で俺を見据えて、オリガは言った。

「抵抗は無駄だし、逃亡は無意味よ。おとなしく降りてきなさい」

「それはつまりアレか? 投降したら、命だけは助けてくれるってことか?」

「いいえ。でも、なるべく苦しまないように殺してあげる」

「学院長も同じようなことを言ってたぜ。ありがたくって、涙が出てくらぁ!」

「それはつまりアレかしら? 黙って殺されるつもりはないってこと?」

「あったりま――」

『――えだろうが!』と言い終える前にオリガは転化し、こちらに向かって垂直に飛んで(泳いで)きた。

 俺は慌てず騒がず(誓って言うが、その時は本当に慌てちゃいなかったぜ)右肩に担いでいた〝武器〟を投下した。ベッドを確保できなかった連中のハンモックを二つほど繋ぎ合わせ、重りを付けた代物――即席の投網だ。

 即席とはいえ、効果はあった。オリガの体は網に絡まれ、地面に落ちて(沈んで)いった。ざまぁ見ろと思ったね。こちとら、漁師の息子だ。魚なんぞに負けるもんか。

 しかし、勝ったわけでもない。ほんの少しだけ時間が稼げたってだけの話。そう、「ほんの少し」だ。一秒だって無駄にできない。にもかかわらず、俺は惜別の情めいたものに駆られて、向かいの学舎に目をやった。

 騒ぎを聞きつけたのか、いくつもの顔が学舎の窓からこちらを覗いてた。転化者の美人護法隊士と学僧の珍妙な戦いっていうのはさぞかし面白い見世物だったろうな。

「目を覚ませ、おまえら!」

 俺は叫んだ。

 窓の向こうの学友たちに向かって。

 転化者/欠落者ではない奴らに向かって。

 仮に転化者/欠落者だったとしても、学院長曰く「自分が属する世界に対して従順に振舞うこと」ができる奴らに向かって。

「ここは海の底だ! 海の底なんだよ!」

 その言葉が切欠になって皆の想念は崩れ去り、一瞬にして世界は海の底に変わった……ってな展開を期待していたわけじゃない。実際、そんなことは起きなかった。

 学友どもは、俺の頭がイカれちまったとでも思ったのだろう。ある者は唖然とした顔で、ある者は呆然とした顔で、ある者は愕然とした顔でこっちを見てるだけ。

 そんな似たり寄ったりの表情の中に一つだけ笑顔が混じっていた。

 クローヴィス教授だ。

 奴はわざわざ両手を顔の斜め横まで掲げて、これ見よがしに拍手をしていた。俺にエールでも送っているつもりなのか。それとも、バカにしているだけなのか……もしまた会うことがあったら、すぐ傍で転化して海水を嫌っていうほど飲ませてやる。

 俺は樽を抱え上げ、今度こそ窓から身を乗り出した。

 眼下では、〝着底〟したオリガが転化を解除して、身体に絡みついた投網と格闘していた。

「あばよ、サメ女!」

 そう言い捨てて、俺は周囲を転化した。

 しかし、今にして思うと、詰所で最初に戦った時(あの無様な真似を戦いと呼べるかどうかはさておき)の彼女の動きには切れがなかったような気がする。たぶん、こっちが発生させた海水の浮力や塩の味に戸惑っていたのだろう。海水を再現するほど重度の転化者ではなかったようだから。

 あるいは俺を哀れみ、手を抜いてくれたのか……って、そんなわけないよな。

 だけど、仮にそれが事実だとしたら、そのことに今頃になって気付いた俺のほうこそ、なにかが欠落しているのかもしれない。



 ガルテーニズィヤの住人たちが空を見上げたら、太陽に近付いていく水玉が見えるだろう。

 その中にいるのが俺だ。

 そう、今、俺は天に昇っている。

 転化して生み出した小さな海の中で。

 ()き樽を抱きかかえ、両足で水をかきながら。

 樽の蓋に刺した筒をくわえて、その酒臭い空気を吸いながら、俺は考える。学院長が言うところの「あちら側」のことを。竜国が消えてなくなった現実の世界のことを。

 竜国の人々の想念の範囲外に出ることができたら、俺は「あちら側」に行けるはずだ。その前に樽の空気を吸い尽くしちまったら? 当然、死ぬだろう。たぶん、俺が生み出したこの小さな海も消える。そして、地上(海底)にまっさかさま……俺にとっては悲惨な最期だが、ガルテーニズィヤでは語り草になるだろうな。空から死体が降ってくるなんて。

 俺は樽の筒から口を離し、頭上に目を向けた。

 太陽がゆっくりと近付いてくる。

 その太陽と俺との間に「あちら側」の海面があるはずだ。

 俺はそこに行けるだろうか?

 行き着くことができたとして……そこに俺の居場所はあるだろうか?

これにておしまい。


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