サメ女とネズミ男
また思え、その極悪な眷族の多くが、たとえば鮫の多くの種属の繊麗多彩な姿態に見るごとく、悪魔的な絢爛と華麗とをほしいままにしていることを。
――メルヴィル 『白鯨』 (田中西二郎 訳)
このガルテーニズィヤに限らず、どの都市の学院にも護法隊の詰所が設置されているが、それは飾りみたいなもんだ。学院に賊が侵入したり、揉め事が起きたり、火事になったりしても、おっかない僧兵の自警団がズバッと解決してくれるから、護法隊はお呼びじゃない。
とはいえ、護法隊の皆様方のお世話になるような事態がまったくないわけでもない。たとえば、学院の誰かが転化者に覚醒してしまった時だ。転化者になった奴は護法隊のところに行って、その旨を申告しなくちゃいけないんだな。
転化者排斥法が廃止されたからといって、転化者が自由気ままに生きられるわけじゃない。お上は転化者の実態を把握し、管理下に置こうとしている。まあ、当然だよな。俺が為政者でも、同じことをすると思う。
で、俺は自分が転化者になったことを伝えるため、護法隊の詰所に行った。
小さな詰所の前に立っていたのは女だった。
女性護法隊士っていうのはそんなに珍しいもんじゃない。悪友たちと街に繰り出した時なんかに何度か見かけたことがある。どいつもこいつも男の隊士と変わらないようなゴツい女ばかりだった。中には男よりも男らしいのもいたもんだ。
でも、詰所にいた女は違った。それはもう、ぜんぜん違った。
まず、衣装が違う。護法隊士が身に付けるのは暑苦しくて野暮ったい甲冑と相場が決まってるが、彼女が着ているのは、護法隊の印章が施された革の胸当て、肌が透けそうなほど薄い生地の短衣、形の良い足にぴったりと張り付いたパンツ。首にぶら下げているのは首飾りよりも高価そうな防風眼鏡。腰の後ろには細身の短剣を斜めに差している。剣劇に出てくる女剣士みたいないでたちだ。防風眼鏡はちょっと浮いているけど。
そして、衣装の中身も違う。いい女なんだが、普通のいい女じゃない。故郷キズィールではお目にかかれない都会らしい洗練された容貌と、このガルテーニズィヤではお目にかかれない野生美みたいなものが上手い具合に混じり合っている。飼い慣らされた猛獣といったところか。肌は白いが、病的な感じはしない。後ろで束ねられた長い髪は黒。瞳も黒。ただし、目の中で黒が占めている領域は広くない。いわゆる三白眼ってやつ。そこんところさえ気にしなければ、百点だ。
学院の詰所に派遣される護法隊士っていうのは入れ替わりが激しい(部外者には把握できない複雑怪奇なローテーションが組まれているらしい)。百点(マイナス三白眼)の彼女が詰所に来たのは今日が初めてだったに違いない。そうでなければ、ずっと前から学院中で噂になっていたはずだ。いや、百点の美女ではなかったとしても、噂になっていただろうな。彼女の両手の甲と額には青い刺青があったんだから。
そう、水精の転化者であるこを示す刺青だ。
俺は常人ではなく、鳥人なので、その刺青を見て眉をひそめたりしなかった。それどころか、親近感を覚えたね。彼女は俺の同族なんだから。
転化者というのは一万人に一人と言われている(たぶん比喩的なものであり、正確な数字ではないのだろうけど)。転化者に出会うことなく一生を終える者も少なくない。だけど、俺は出会った。しかも、自分が転化者に覚醒したその日に。これを運命の出会いと言わずして……なんてことを考えながら、俺は女に見とれていた。
女のほうも俺を凝視していたけど、見とれていたわけじゃない。彼女の視線は、薄汚い野良犬に向けられる類のものだった。あるいは、アホ面をさらしているマヌケな学僧に向けられる類のものだった。
やがて、女が声を発した。
「何の用?」
「は、はい」
俺は我に返り、頷いた。
「実は、その……俺、覚醒しちゃったんですよぉ。転化者にね。で、その報告に来たんですけど……」
「あらそう」
それが女の返事だった。
一瞬、自分の耳がおかしくなったのかと思ったよ。一万人に一人の同族が目の前に現れたんだぞ? 普通、驚いたり、喜んだりするもんだろう。それなのに「あらそう」と来たもんだ。
もしかしたら、俺の言葉がちゃんと伝わっていないのかもしれない――そう思って、俺はさっさの言葉を繰り返した。
「俺、転化者になったんですよ。で、その報告に来たんです」
「二度も言わなくていい。こっちに来て」
女は背を向けて、詰所の中に入った。
暫しの間、俺は案山子みたいに突っ立っていた。学寮の大部屋で自分の能力を試した時と同じように。でも、今回の「暫しの間」はそんなに長くなかった。すぐに詰所の中から――
「なにをやってるの? はやく来なさい」
――と、女の声が飛んできたからだ。
俺は詰所に入った。
女は棚をあさっていた。その棚の横には、いろんな武器が掛けられていた。剣とか、弓とか、刺股とか、刺だらけの棍棒とか、戦鎚を兼ねた手斧とか、分銅付きの鎖が結び付けられた棒とか、武器だか楽器だか調理器具だか判らない珍妙な代物とか……。
それらを物珍しげに眺めていると、女が俺に問いかけてきた。
「貴方の名前は?」
「レーフです。レーフ・テテールニコフ」
俺は、武器の群れの上に掛けられている幾つかの木札に目を走らせた。例の複雑怪奇なローテーションに従って学院の詰所に勤めている隊士たちの名札だ。そこに女の名前は一つしかなかった。
『オリガ・アクーリャノワ』
それが彼女の名前なのだろう。本人に訊いて確かめることはできなかったから、本当のことは判らないが。
「水精の転化者よね?」
「そうです。よく判りましたね」
「その格好を見れば、バカにでも判る」
「なるほど」
俺は自分の身体を見下ろした。ずぶ濡れだ。大部屋で転化能力を試した後、着替えもせずに(他の服も濡れちまったから、着替えようがなかったんだが)ここに来たからな。
オリガは棚から一枚の紙を取り出し、傾いだ机の上に置いた。その紙の上部には、彼女の額と両手の刺青と同じ文様が記されていた。
「この申告書に目を通して署名しなさい」
「署名すれば、それで手続きは終わりですか?」
「いいえ。あたしと一緒に市庁舎に行って、申告書を提出するの」
「提出して終わり?」
「そんなわけないでしょ。貴方は市庁舎に拘束されて、いろいろと話を聞かれる。覚醒した時に居合わせた人も呼び出されるかもしれない。そして、転化者であることが証明されたら、この――」
オリガは左右の手を顔の両横に持ち上げて、手の甲と額を彩る三つの刺青を並べてみせた。
「――刺青を施されて、それでおしまい。なにか質問は?」
「刺青って痛いですかぁ?」
……ああ、判ってるよ。もっと重要なことを訊くべきだった。でも、真先に頭に浮かんだのはその疑問だったんだ。
さすがにオリガは呆れ返ったのか、両手を顔の横に掲げた姿勢のまま凍りついた。今にして思うと、あれはなかなか可愛いポーズだったな。本人は自覚してなかっただろうけど。
数秒後、彼女は冷ややかな声で聞き返した。
「なんですって?」
「だから、刺青ですよ」
「……」
「俺、刺青をやったことないから、どれだけ痛いのか判らないんですよね。昔は刺青じゃなくて焼印を押されていたっていうから、それに比べればマシなんだろうけど……でも、やっぱり、痛いのは嫌だなぁ。貴方が刺青をされた時はどうでした? 痛かったですか? 泣いたりした?」
「忠告しておくね、レーフ・テテールニコフ」
オリガはようやく両手を降ろして、バカな犬を叱る飼い主めいた語調でそう言った。
「痛かろうが、痛くなかろうが、それは一時のこと。あんたが考えなくてはいけないのは、刺青を施された後――転化者としての人生についてよ」
「と、言いますと?」
「あんたはもう普通の生活はできないの。皆から敬遠されるし、家族や友人に縁を切られるかもしれない」
クローヴィス教授と同じ言葉が彼女の口から出てきたので、俺も教授の言葉を盗用させてもらった。
「でも、火事や日照りの時は重宝されますよね」
しかし、オリガはその軽口を無視して、話を続けた。
「それに特定の場所に出入りすることは禁じられるし、特定の人物に近付くことも禁じられる。職業も制限される。気の毒だけど、あんたは竜僧にはなれない」
「べつに構いませんよ。俺が学僧になったのは勉強するためであって、正式な僧籍を得るためじゃありませんからね。将来の希望は公証人。それが無理なら、代書屋です。そういう職業なら、転化者もなれますよね。ああ、それとも、貴方みたいに護法隊に入るのも悪くないかも」
「……冗談でしょ?」
「いやいや、半分くらいは本気ですよ。水精の転化者っていうのは護法隊に向いているんじゃないかなぁ。たとえば、身の軽い泥棒なんかが屋根から屋根に飛び移って逃げたりしても、こっちは空中を泳いで追いかけることができますよね。それに敵と剣を交えるような事態になった時も自分の周りを転化して、相手を動揺させちゃったりなんかして」
転化能力を使いこなせるとはいえ、荒事に慣れていない素人が一朝一夕に護法隊士になれるわけがない。でも、俺は気にしなかった。護法隊士として活躍する自分の姿を思い描き、酔いしれた。
「なるほどね。よく判った」
オリガの声を聞いて、俺は妄想を中断した。
「なにが判ったんですか?」
「転化者に対するあんたの考え方よ。あんたは転化者を……いえ、自分のことを特別な存在だと思っている。常人とは違う上等な人間、一万人に一人の逸材、自由に陸を泳げる鳥人――そんな風に見做しているんでしょ?」
「それがいけないことですかね?」
「いけないというよりも間違っている」
「間違っちゃいない。言っておくけど、俺はただの転化者じゃないんだ。自分の意志で自由自在に周囲を転化することができるんですよ」
「それぐらい、あたしにもできるよ。たぶん、あんたより上手くやれる。あたしのほうが経験を積んでるから」
「じゃあ、貴方も特別な存在なんですよ」
「特別かもしれないけど、特別に優れているわけじゃない。転化者というのは……」
オリガは言葉を切ると、俺の後方に目をやり、軽く会釈した。
振り返ると、詰め所の入り口に小柄なジイさんが立っていた。派手な刺繍に飾られた丈の長い僧衣を着ているが、その上に乗っかっている顔が餓死寸前の鼠みたいな代物なので、威厳は微塵も感じれない。
しかし、この貧相な顔をした鼠ジジイこそ誰あろう、学院の最高責任者イノーホ・グリネフスキー学院長なのだ。
「レーフ・テテールニコフ君だね?」
しなびた黒豆みたいな目をショボつかせながら、学院長は俺の名前を口にした。
「そうですが……なにか?」
「君に話がある。大事な話だ」
学院長は詰所に入ってくると、俺を避けるかのように壁際を歩いてオリガに近づき、小声で(といっても、俺には聞こえていたが)尋ねた。
「奥の部屋に誰かいるのかな?」
「いえ」
「そうか。では、ここで話そう。君は外で待ってなさい。私が呼ぶまで入ってこないように」
「はい」
蔑むような目で俺を一瞥した後、オリガは詰所の外に出た。もし、学院長がいなかったら、俺は彼女を呼び止めて、さっきの言葉の続きを問い質していただろう。
『特別かもしれないけど、特別に優れているわけじゃない。転化者というのは……』
彼女は何を言おうとしたのか? 俺にはそれが判らなかった。でも、今は察しがつく。彼女の言葉に同意もできる。転化者は特別に優れている存在じゃない。それどころか……いやいや、話が先走りしすぎたな。
さて、詰所に残された俺とグリネフスキー学院長は居心地の悪い空気の中で対峙していた。
最初に口を開いたのは学院長のほうだ。
「先程、授業を終えたクローヴィス君が私のところに来て、いろいろと話してくれたよ。君は水精の転化者として覚醒したそうだね」
「はい。それで、ここに報告に来たんです」
「君が転化した際、魚が出現したそうだが、それは本当かね?」
「まあ、本当と言えば、本当です。でも、魚の出現と俺の転化との間になにか関係があるのかどうか……それは俺自身にもよく判らないんですよ」
そう言って、俺が何気なく頭をかこうとすると――
「動くんじゃない!」
――いきなり、学院長が甲高い声で怒鳴った。
「不用意に動いてはいけない。君はそこに立っていなさい。頼むから、私に近付かないでくれ」
頼まれるまでもない。俺は学院長に近付くつもりはなかった。でも、向こうはそう思ってないらしい。顔は真っ青になってるし、身体は小刻みに震えている。猫に追い詰められた鼠みたいな有様。いや、鼠が猫に狩られるところを見たことは一度もないんだけど、きっとこんな感じだと思うんだ。
俺は笑いを堪えつつ、哀れな鼠に言い聞かせた。
「大丈夫ですよ、学院長。俺は転化能力をちゃんと制御することができるんです。いきなり転化して学院長もろとも溺れ死ぬなんてことはありません」
しかし、学院長の顔から恐怖の色が消えることはなかった。
「レ、レーフ君」
「はい?」
「今から君に聞かせる話は……封史に関することなんだ。だから、自分の胸の中にだけ秘めておくように。他言は無用だよ。いいね?」
「……」
封史――それは海がまだ干上がっていなかった時代の記録だ。闇に葬られて、市井の人々に忘れ去られた歴史。皇族や高名な学者や竜僧だけが知ることを許された歴史。正直、俺はそんなものを知りたくなかった。知ってしまったら、厄介なことになるに決まってるからな。
しかし、拒絶する暇を与えることなく、学院長は語り始めた。
「転化者にはいろんな種類がある。四大精霊だけでなく、光精や闇精や樹精の転化者もいるし、感情を司る精霊の転化者という変り種もいると言われている。樹精の転化者になって巨万の富を得た樵の成功談や、怒精の転化者として覚醒してしまった道化役者の悲喜劇を耳にしたこともあるだろう?」
「はい」
本当はそんな与太話を聞いたことなど一度もなかったが、とりあえず頷いておいた。
「しかし、転化者に憑く精霊の種類には偏りがある。圧倒的に水精の転化者が多いのだ。それをおかしいと思ったことはないかな?」
「ありません。火精や土精の転化者は覚醒した瞬間に死んでしまう可能性が高いですから、お目にかかることがないのは当然です」
「なるほど。そういう考え方もできるね。だが、それは間違いだ。実は……この世には水精以外の転化者は存在しないのだよ」
ここで俺が仰天して「な、なんだって!? それは本当ですか?」なんて聞き返したりすれば、絵になったかもしれない。たぶん、学院長もそんな展開を期待していたんじゃないかな? だけど、俺はその期待に添うことができなかった。
(このジイサン、頭のネジを何本か落としちまったらしいな……)
そんなことを思いながらも、その思考が表情や声に現れないように気を付けながら、俺は臆病者の鼠に言った。
「べつに学院長の言葉を疑っているわけではありませんが、水精以外の転化者がいないなんて話を信じることはできませんよ」
「では、水精以外の転化者を見たことがあるか?」
「ありません。しかし、この学院の教授が土精の転化者になったという話を聞いたことがあります」
「修辞学教授のアレクセイ君のことだね。どうやら、彼の話は歪んだ形で伝わっているようだ。彼は君と同様、水精の転化者だったのだよ」
「だけど、土塊に押し潰されて死んだって……」
「アレクセイ君は土塊に押し潰されたのではない。水圧に押し潰されたのだ」
「スイアツ?」
「水の重みのことだ。アレクセイ君は重度の転化者だったからね。君のように海水を発生させるだけに留まらず、水圧までもを忠実に再現してしまったのだよ」
「……?」
俺は優等生じゃないが、救いようのないバカでもない。一応、学院に身を置いているんだから、人並み以上の知識や知恵は有しているつもりだ。それでも、学院長の言葉を理解することはできなかった。
「申し訳ありませんが、学院長の仰っていることはさっぱり判りません。『水圧までもを忠実に再現して』というのはどういう意味ですか?」
「言葉通りの意味だよ。転化者とは、狂った水精に取り憑かれて自分の周りの空間を転化してしまう者のことではない。世界を本来の形に戻してしまう者のことなのだ」
「は?」
「つまり、こういうことだ。ここは……この世界は……今、我々が立っている場所は……」
学院長は両腕を広げ、滑稽なくらい厳かな語調で世界を根底から揺るがす事実を口にした。
「……海の底なのだよ」
次回(最終回)「二つの世界と二つの試験」は2015年6月27日頃に投稿予定。