表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

自己満足に築くもの

作者: 岸上ゲソ


「マスター、モーニングセットちょーだい」

 午前七時半とちょっと過ぎ、その女性はいつも歪な鐘の音と共にやってくる。

「今日も滅茶苦茶外暑いしさ、ここ寄んないととてもやってられない。何でこんな異常気象が続くのかしら・・・あ、今日は私ともう一人くるから二つ用意してくれる?」

 真っ白いシャツを腕まくりし、女性は髪をかき回しながらカウンター席の隅に腰掛けた。そこは私とマスターが経営するカフェの中で、常連客の彼女がいつも腰掛ける場所だ。半ばそこが彼女の指定席となっている事は否めないが、それがいつも通りの風景であったし、そんな彼らの姿を”私の職場”から見下ろしているのが私の日常である。

「今日も風が強いね、マスター」

 彼女が欠伸を噛み殺し、私の方を見上げた。この店には明り取りの為中央に小さな天窓があるが、私はいつもそこにいてそこで彼らを見下ろしている。少し色褪せた赤い屋根――その場こそが私の「職場」だからだ。

 マスターが女性の指差したこちらを見上げた。くるくると働く私を見ると、黒い大きな瞳を細く長くした。手にしていた卵を台に置き、あぁ本当だ、と言った。――"彼"があんなに動いているなんて、相当だ。

「"彼"?」

 私を見つめるマスターに女性が目を瞬く。

 マスターが頷き、私に何事か語りかけるように微笑んだ。

「何、もしかしてアレ名前ついてたりする?」

 驚く女性にマスターの口が弧を描く。ええ。マスターが言った。黒い瞳は私を満足げに見ながら、手に持っていたフライパンをガスコンロに置いた。

 女性が私を呆けたように見上げる。私たちの故郷の空に良く似ているその瞳の色は、今日の空にもよく似ていた。

「マスター、"彼"の名前を聞いても?」

 ――お知りになりたいですか。

 マスターが卵をかつんと割る。微笑が口に乗った。

「え、なになに、聞いたらまずい系?」

 女性は不可解そうに首をかしげた。いいえ。マスターがそれに否定の微笑みを返す。

「・・・よく解んないけど。で、結局名前はなんての?」

 じゅ、と卵がフライパンに広がった。

 からり、と私は風を受けて回った。マスターの黒い目が少し遠いものを見るように細まった。


「あ」


 歪な鐘の音が鳴った。女性が入り口を見て軽く口を尖らせ、新たな客到来の合図にマスターも扉を見た。

「あやめちゃんごめん、遅れた」

「――もう、遅いよ」

 少し薄暗い店内、早朝の光を纏った客に女性は眉を顰める。どうやら気安い仲らしい。女性の目の形は笑み以外の何物でもない。マスターの手が少し止まったのが解った。

「ごめんって。担当から電話があったんだ。何か急に巻頭にカラーで一枚とか言われてねぇ」

「先生そればっかじゃないの。売れっ子は辛いわねぇ」

「うわ、嫌味ー」

 短髪の紳士然とした男が苦笑する。色男だと思う。だが色男なのは間違いないが、年齢はどうにも判別がつかない。私の人間観察は長けている方なのだが、これは難しい。

 からり。風を受け損ねて私の繋ぎ目が妙な音を立てて回った。私は内心穏やかならぬ気持ちでマスターを見た。マスターは、―――微笑んだままだった。

 代わりに、目に疲れの滲んだ色を乗せていたけれども。

「マスター」歯を見せる女性が向き直る。「――何度か話したでしょ?半年くらい前に引っ越してきた、私のお隣さん」

「初めまして、池田と申します。絵を生業にしています」

 にこやかに頭を下げた男に、マスターは軽い吐息を落とした。僅かに強張っていた肩が解れ、普段どおりの穏やかな声でいらっしゃいませと言った。

 それはマスターの、緊張が切れた合図だった。マスターはゆっくりと目を細め、私を見上げた。

 終わりの時が来たのだ。


 ―――自己満足は終わりのようだな、アーカー。


 からり。

 熱風が吹き、私は回った。

 マスターは頷き、もう一つ卵を割った。

 空は青い。その青さはどこにでもどこへでも広がり、昔も今も変わらぬままそこにある。

 そうして小さな喫茶店は、今日も歪な鐘の音を張り上げるのだ。



「マスター、先生のコーヒーはブラックにしてやってくれる?」


 ―――かしこまりました。



 マスターが微笑んで、戸棚からコーヒー豆を取り出した。私は吹いた風に身を任せ、溶けそうな陽に身を奮わせた。からり。からりからり。――そう、全ては自己満足。

 私の名はアーカー。

 アフトマート・K・マスード。

 とある町のとある小さな喫茶店、『風街ムジャヒド』に住む、黒塗りの鋼鉄製風見鶏である。




 * * *




 私の名はアフトマート・K・マスード。とある町のとある小さな喫茶店、『風街ムジャヒド』に住む黒塗りの鋼鉄製風見鶏である。

 鮮やかな赤い屋根に黒塗りの私は案外目立つが、私のミッションは風の向きを全身で教える事にある。多少目立つ方がミッション・コンプリートをしやすいものだし、そもそも目立たない風見鶏など存在価値はあるのか疑問だ。故に私はこの黒い塗装に文句も無ければ、このミッションにだって不満はなかった。確かに風見鶏など地味な職種であることは違えようも無い事実であるが、少なくとも転職前の仕事よりは何万倍も天職だと思っている。我々鋼鉄材質にも人と同じく花形職業と言われるものがあるのだが、私の前職はまさしくそれだった。そしてその現場第一線からやっと引退した現在、前職に対し何を思うかと言えば二度とあんな職業に就くものかと言うただこの一言に尽きる。いくら花形とは言え我々にも限度がある、あんなもの私は今後一切御免こうむりたい。

 まぁ人と違い、我々に職業の選択権が無いのが悲しい事実ではあるのだが。


 私が住み、そして働く『風街ムジャヒド』は、田舎と都会の中間的規模の街に店を構えている。私の「職場」である赤い屋根は風雨と強い日光に晒され多少色褪せているが、まだまだその頑丈さは隙が無い。左に隣接する濃い藍色の屋根には皹があるし、右のダークグレーの屋根は見えないところに苔が生えている。色褪せていても三ヶ月に一度磨かれている私の職場とは雲泥の差だろう。私の雇い主であり『風街ムジャヒド』のマスターは歳こそ五十を過ぎているが実に働き者の良い男なのだ。私の黒い塗装だってしょっちゅう塗り替えてくれるし、マスターのおかげで私の鋼鉄のボディは艶やかさを失った事が無い。いつだって日に反射し、まさしく汚れ知らずの身体である。前職の職場である故郷ではいつも汚れをまとい不衛生だったのに、ここでは三ヶ月放置されても私は輝いている。私を磨きながら良く呟くマスターの言葉を借りれば、「麻痺してしまいそうなほどにここは平和過ぎている」から、仕方ないのかもしれないが。

 『風街ムジャヒド』のマスターは日本人ではない。浅黒い肌に大きな黒い瞳、一見してイスラムの教えを身に叩き込んだ事が解る生粋のメラネシア人だ。東南アジアに位置する東ティモール民主共和国出身で、今でこそ流暢な日本語を操るが元々はテトゥン語とポルトガル語しか操る事は出来なかった。寡黙で笑顔を絶やさない温厚さが私のマスターの人気を上げていたが、元はただ言葉が不自由だった為に黙るより他無かったのが事実である。世の中どう動きいかにして回るか解らないものだが、結果的にマスターの店はそこそこ繁盛しているので運が良かったのだろう。当然、私の風の見方が冴えていたからという理由もそこに加えられるが。マスターと私の努力の賜物と私は断言する。

 『風街ムジャヒド』がこの街にオープンしたのは今から十年前の事、私のマスターが来日したのが十五年前、つまり来日して五年後にオープンした。来日当初私の姿は既に今と変わらぬ艶やかな風見鶏になっていたが、同行していた私のマスターは今よりもっと艶やかな肌をしていた。浅黒い肌の中に黒目が爛々と輝き、だがそこに宿っていたのは今からは想像もつかないような闇を宿す虚無に満ちた廃人の目だった。しかしそれも仕方が無い事としか言えない。私とマスターが日本にやってきた十五年前、日本は現在と変わらぬ平和の真っ只中にあっても、東ティモールは延々と続く地獄のような内乱に溢れていたのだから。

 私とマスターの故郷、東ティモールが一つの国として独立が認められたのは1999年8月30日とわりと最近の出来事だ。それまではインドネシアの不法侵略による占領下におかれ、事実上植民地と化していた。侵略当時国連はこの不法占領を非難する決議を採択したようだが、アメリカやヨーロッパなどの西側有力諸国は反共インドネシアとの関係を重視し、侵略を黙認した。平和を唱えるこの日本も例外ではない、黙認した有力諸国内のうちの一つだ。どのような理由があろうとなかろうと、東ティモールは先進有力諸国により侵略を暗黙内で了解された。それが私の理解する全てであり、事実である。

 東ティモールは現在独立している。だが独立したといっても、それは定義上のようなものだった。その後もインドネシア併合派民兵組織により独立派住民に対し凄まじいテロ行為が行われていたし、支援の為来ていた国連東ティモール派遣団”UNAMET”も酷い脅迫行為を受け9月に完全撤退したのだ。私とマスターはその頃既に国に居なかったが、それから国際社会の目が消えた東ティモールは更に破壊行為が進んだようである。結局その後崩壊の進む東ティモールには国連安全保障理事会使節団により多国籍軍”INTERFET”が派遣され、テロ行為を行う民兵は西ティモールへと追い出された。そして同年10月に国連は一時的に国を統治する権利を預かり、国連東ティモール暫定統治機構”UNTAET”ミッションを発動、DDR――Disarmament Demobilization Reintegration、武装解除・動員解除・社会復帰という一連の平和プログラムだ――を開始した。それは2002年には一応終了しているが、残念ながらその後も何度と無く暴動は起き、再び国連は新たな治安維持のミッションを立ち上げねばならなかった。そして現在どうなっているのかと言えば、未だ私とマスターの故郷は暴力と混乱の中にあると言うのが答えだ。

 憎しみの連鎖が織り成すメビウスの環は愚かしい。だがその愚かしさは、その環から外に居なければ人は気付く事が出来ないのである。


 私を磨きながらマスターが良く言っていた事だが、どれほど穏やかな人間であろうと死と飢餓と恐怖の中で育ち、優しさを保つことなど絶対的に不可能だ。戦場には己が殺される恐怖だけでなく、人を殺さねばならぬ恐怖も存在する。両方の狭間で生きねばならぬ事は想像を絶する程に人を追い詰め、また駄目にするものだ。

とある調査機関の心理調査で兵士に「戦争において何が恐怖か」と問うたことがあるという。それに対し戦争未経験の兵士は「己の死亡と負傷」と答えたそうだが、戦争経験者である帰還兵士達は別の答えを返した。ーーー「戦場で何より恐ろしいのは、己が死ぬ事より、ただ己が他人を殺さねばならぬということだった」。

 第一次世界大戦でも第二次世界大戦でも、戦場において殺人のため銃を発砲した人間は十五から二十パーセントにしか満たないのだという。戦闘爆撃機による空戦でさえ撃墜の為発砲したのは僅か一パーセントの者でしかない。現在と違い速度がそう速くなかった機体は、コクピットに乗る人間の姿を見る事が出来た。そしてそれを見た途端空士は撃つ事が出来なくなった。人間を人間として認識できてしまう距離があり、また間に人間を意識しないスコープやレーダーを挟んでいなければ、人は殺人を本能的に拒否するのである。

 確かに適切な訓練と適切な条件付けさえすれば、人は躊躇無く殺人を行える。現代においては既にその条件付けが行われ、発砲率は九十パーセントを越しているのが実際だ。だがその条件が満たされる環境下になければ、人は殺人を簡単に犯せないのである。過去の戦争でもそうだった。戦場に出た人間は「敵」を殺そうとしなかったのだ。例え仲間を救うためであっても、そして自分自身が殺される状況下にあってさえも。殺人は衝動的な感情行為に違いないが、人間の本能において決して「簡単」ではない。

 マスターが恐れたのも結局はそれだった。人を殺し続ける己に恐怖し、虚しさに絶望し、組織脱退を決意した。当時マスターと私はインドネシアに武装闘争を繰り返していた武装組織、<東ティモール独立革命戦線>”FRETILIN”の一員だった。私がマスターと出合ったのはその組織内での事になるが、当然私は風見鶏ではなく、我々鋼鉄の花形職業であり内乱に必要不可欠な形状をしていた。

 私の前職、それは銃である。

人を殺すためだけに作られた、自動小銃―――アサルトライフルという代物であった。

 人は人を殺し続けていると、麻薬のような中毒症状が現れ段々と残忍になっていく。脳内に分泌されるアドレナリンにも関わりはあるだろうが「血に酔う」とは正に的を得た言葉で、銃である私はそんな人間をたくさん見てきた。若くして殺人を覚えたマスターもその典型で、私と出会ってからというものその顔は日に日に殺人の狂気に溢れて行った。だがそれは私にとっていつもの経過だったし、特に珍しいことでもなかった。そしてその狂気こそが私の持ち主が変わる合図でもあった。戦闘中毒になった者の末路は決まっている。中毒を出した者は異様な勇気に駆られ、なにもかもの注意と恐怖を無くしてしまう。そうなった人間は逆に戦場では邪魔である。つまり効率のため味方に殺されるか、或いは無防備に敵に殺されるか二つに一つだ。早く言えば、どちらにせよ助からない。

 しかしマスターはそうならなかった。そこには数々の偶然もあるだろうが、一番の理由はインドネシア軍から発砲を受けた日の事が原因だろうと私は思う。倒れていたマスターを、とある一人の西洋人医師が発見し治療したのだが、彼は朦朧とするマスターにただ一言尋ねたのである。

 《血の上に、求める何かは築けましたか?》

 医師は治療を終えるとすぐに立ち去った。マスターは運び込まれた救護用テントの中で、没収されること無く傍に立て掛けられていた私を見ながら呆然としていた。自由と開放。マスターが欲したものはそれだ。自由と開放、だが己が行ってきたのは。手に持っていたのは。

 ―――何が築けるというのだ。

 マスターの瞳は、去った狂気の代わりに深い絶望の闇が宿っていた。

 その後、マスターは私と共に組織を抜けた。組織の上官は抜けると言ったマスターに銃を向けたが、マスターは上官に銃を向けることなく振り切り、逃げ出した。マスターはもう殺したくなかった。傷だらけとなったマスターの手の中、私はマスター自身に叩き潰されただの鉄塊となっていたが、それでも私はマスターから手放されることは無かった。マスターは自分を助けた医師の行方を捜していた。名物医師だったらしく、素性だけはすぐ知れた。医師はNGO団体に所属する、フリーのボランティア医師だった。マスターは医師に礼を言いたかった。一切の孤独であり人間という領域から遠のきかけていたマスターは、己を現に引き戻してくれた医師に、一方的ではあるが途轍もない感謝を感じていたのだ。

 マスターには家族が居ない。以前はいたが、全員インドネシア軍により目の前で皆殺しにされ死んでいた。父は両耳と鼻を削がれて首と胴を切り離された。母と姉は幾人もの兵士に強姦を受け銃殺された。弟に至っては頭蓋を踏み潰されて人間の形状すらとどめていなかった。正義など口にするのも馬鹿らしいほど凄惨である。けれどそれは珍しいことではない。それがマスターの居た故郷の、東ティモールの『日常』だった。だからマスターがFRETILINに入ったのも復讐に血を沸騰させたのも、さして珍しいことではなかった。そして復讐の復讐を受け更に復讐し、復讐の中で死ぬのも全く珍しいことではなかった。―――だが、正気に返るのは稀である。普通の戦争より内乱の方が残虐で長引きがちなのは、過去の歴史から良く知られたことだ。

 ほどなくして、マスターは医師が既に亡くなっているという情報を得た。

 武装勢力同士の銃撃戦に巻き込まれ、流れ弾に当たって死んだとの話だった。医師の妻は日本人だった。医師は彼の妻の出産の報を聞き妻の待つ日本に帰ろうとしていた所だったと言う。すべては偶然だ。運が悪かった。運が悪い偶然だったのだとしか言えない。その弾を放ったのがマスターが居た組織の上官、マスターが殺さなかった、あの上官だったと言うのも、きっと運の悪い偶然でしかなかった。

 マスターが日本に向かう決意をしたのはその時だ。別に日本にマスターの知り合いが居た訳でも何かツテがあった訳でもない。ただ日本は医師の妻が居る国で、彼女が出産後まもなく亡くなったとNGOの人間に聞いただけである。私が製鉄師の手で風見鶏になったのは、マスターが日本に発つ直前の事だった。



 ―――さてアーカー、つまらない自己満足をしよう。



 これはマスターと私の、一生をかけた、しかし単なる自己満足である。

 私たちの自己満足は、『風街ムジャヒド』と名を変えひっそりと医師の子を見守った。彼女が事故に遭わぬよう、面倒に巻き込まれぬよう、絶望の淵に立たされぬよう。

 ただしそれは、彼女に唯一無二の存在が出来るときまでと決めて。


 医師の娘の名はアヤメ・フジサワという。

 私たちの故郷の空に良く似た瞳を持つ、医師とよく似た不器用な―――常連の女性だ。




 * * *




「――て言うからさ、そんなに自信あるなら自分でやりなさいよっつったのよ。そしたらあの野郎技術云々以前に操作自体が全ッ然できないでやんの」

「へぇ。それはそれで凄いな」

「でしょ。アドバイスが聞いて呆れるわ」

 笑う短髪の男に頷き、サンドイッチにかぶりつく彼女の瞳が笑みにゆがんだ。

 私の見下ろす店内はコーヒーの香りにやんわりと包まれ、マスターも笑みを絶やすことなく使ったフライパンを布で磨いている。

「で、私が一番になったんだけど――そこでいきなり課長に見つかってさぁ。結局私たち全員その場で御用。まぁ勝手に会社のパソコンにゲームダウンロードしたのが悪ィんだけど。でもどさくさで景品ナシってのは酷くない?」

「さてねぇ。悪ノリしたのはあやめちゃんもだしねぇ」

 彼女は会社で誘われた昼休みのゲーム大会の話をしていた。どうやら同じ課の同僚全員で集まってこっそりやっていたらしいが、そこを上司に見つかって雷を落とされた、ということらしい。

 短髪の男はそれに相槌を打っていたが、言葉は結構に手厳しかった。その様は取り繕いや建前というものの一切が無く、素直というより遠慮が無いと評した方が良いのではないかと思う。

「・・・先生少しは私の味方してくれても良いんじゃない?それいくらなんでも薄情!」

「生憎、俺情が薄く出来てますから?大体味方できる要素が見つからないんだから俺にはどうしようもないねぇ。知りませーん」

「ひどい!鬼!――マスターはしてくれるよね!?」

 大げさに首を振った顔は、膨れ面と称して良いだろう様をしていた。マスターは微笑んでそれを迎え、手にしていたフライパンを置き懐に手を入れる。

 取り出したその手には、銀細工の装飾が施された懐中時計が輝いていた。それを彼女の天の瞳の前に掲げてみせて、針の位置が良く見えるよう静止させた。

「―――あっ」

 彼女の両眼が大きく開いた。マスターの無言の忠告に気付いたようで、顔がしまったという色に染まる。

「いいいいつの間に!もう電車出るじゃない!早く行かないと―――ごめん先生っ先出る!マスター、メシ代ここおいとくね!」

「時間見てなかったのか?ホントうっかり者だね君は・・・」

「ほっといて!――じゃねマスター!先生行って来ます!」

「いってらっしゃい。こけるなよ」

 こけないわよ――椅子の背にかけていたジャケットを取ると、彼女が中指を立てながら慌しく体を翻した。私の体越しからの光が黒髪に反射しきらきらと絹糸のように輝く。

 マスターはそれを短髪の男と共に見送った。他に客はおらず、声や音の大きさに気にする必要は無かった。

「―――さてと。それじゃ俺も帰ろうかな」

 男が立ち上がり、マスターは時計を戻しながら頷いた。彼女が置いていった食事代と皿を回収し、男がレジの方へ移動するのを見てマスターをそこへ向かう。

 からり。吹いた風に私は回った。マスターが微笑みを口に浮かべる。

「イケダさん」

「はい?」

「一つ、伝言をお願いしても宜しいでしょうか」

「――伝言?あやめちゃんにですか」

 財布を手に首をかしげる男に、マスターは微笑んだまま頷いた。

「実を言うと、店は今日で閉めることになりまして。明日からはもうここはありません―――ですから、あの子に今までありがとうございました、と」

「――・・閉めるんですか」

「はい。初対面のお客様に大変な失礼なお願いとは存じますが、何卒」

 男が困惑を両目に湛え、しかしマスターは知らぬ振りをし黙って頭を下げた。最初は慣れなかった日本式の礼を今は優雅とさえ言える仕草でこなす姿には、私も苦笑じみたものを覚える。

 きっと敢えて困らせているのだ。それぐらいしてもバチは当たらないだろう、と。

 私は光と風の中で、それをからからと見下ろしていた。"幕引きは潔く、援助は決して悟られず、そして条件が満たされればすぐ消える"。日本に来た当初から、マスターが私に言っていた言葉だった。

「―――解りました。伝えます」

 観念した、という顔だった。意味も理由も解らないだろうが、男はそれを聞こうとしなかった。

「そう頼まれたら仕方ありません。・・・ではご馳走様でした。私はこれで」

「―――Obrigada」

――――――ありがとう。

 男は微笑んで、ただ黙って背を向けた。光が髪に降り注ぐのが見え、私はそれを見送るマスターの背をいつものように見下ろし―――

 今日も風が強いものだと、青い空に故郷を想った。


 ―――からん、ころん。


 歪な鐘の音が鳴り、男が扉の向こうに消える。

 ありがとうございました、とマスターが言った。

 こうして何年、風を受けながらマスターの背中を見てきただろう。この鐘の音を聞いてきただろう。マスターの顔が本当の穏やかさを纏うまでに、一体どれだけかかっただろう。

 青の瞳の彼女を見守り、私とマスターは何年の時を過ごしただろうか。

 どうしてか、こうして終わりの時が来るのを私たちは想像していなかった。けれど想像していなかったからこそ、こうして潔く幕が引けるのかもしれない。

 マスターが私を見上げ、私はからりと感慨のままに身体を回した。


「さてアーカー、片づけを始めようか」



 ―――からん、ころん――・・・



 私の名はアーカー。

アフトマート・カラシニコフ・マスード。

 とある町のとある小さな喫茶店、『風街ムジャヒド』に住む黒塗りの鋼鉄製風見鶏であり、昔AK-47と呼ばれたアサルトライフル、元"歩兵用カラシニコフ突撃銃"だった者である。






<了>



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 淡々とした描写の中に重い世界情勢と平和な日々の対比が見事でした、とても素敵な読後感をありがとうございました。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ