覚醒と後悔 ― 1 ―
「いきます」
―― 気合いを入れ直しての第一声。恍惚とした表情のイブキ先生の顔の前でガチガチに反らせた掌をかざす。
「しゅ…集中よタイセーくん……」
ハァハァと甘い吐息を漏らし、潤んだ瞳で僕を見上げるイブキ先生に「了解です」と返事をしたけど、ジャージの胸元付近がかなりの早さで前後に揺れ動くのだけはどうにかならないだろうか。特訓続行のやる気は出してほしいとは思ったけど、ここまでくると出し過ぎじゃない?
それに前から密かに思っていたけどこうしてまじまじとイブキ先生の胸元を上から見下ろすと、この人も相当大きいや。イブキ先生の場合は背が高いせいもあるんだろうけど、ランコ・コダチの胸とどっちが大きいんだろう。
降って湧いたこの疑問を陶酔状態のイブキ先生に直接尋ねてもいいんだけど、
「分からない事があったら絶対にそのままにしておかないで必ず聞きなさい。でも尋ねる前にまず自分で調べて、それでも分からなかったら聞きなさい」
と、母さんやシヅル姉さんに以前教わったから止めておく。
勉強のことだけに限らず、自分で解決する努力を全くしないで何でもすぐ誰かに尋ねてばかりの甘ったれた人間にはなっちゃいけないっていう戒めみたいなものなんだろうけど、母さんや姉さんはいい事を教えてくれたと思う。
だって今の僕にはイブキ先生にいきなり尋ねなくても、この疑問を自己解決できる術があるんだもん。
なにせ僕はメディカルルームで傷ついたコダチさんの生バストをすでに閲覧している身。
もし「スライダーを念動力のみで下げる」というこの与えられた第一ミッションをうまくクリアできたら、記憶を遡っての比較ができるわけだから、自ずと解答も目の前に転がり込んでくるはずだ。だから自力で調べるよ。
「あぁタイセーくん……その顔いいわ……! キュンキュンしちゃう……! もっともっと私だけを見て……っ!」
マズい。幼い頃に言い聞かされた家訓を真剣な顔で復唱していたせいか、イブキ先生の様子がさらに悪い方向に進化してしまったようだ。
「今日のタイセーくんってワイルドでいつものタイセーくんと違う感じ……! でもそんなあなたも素敵よ……!!」
ショタコン先生の荒い息が止まらない。だから胸の揺れも止まらない。結果、獲物までもがかすかに揺れてしまっている。
これって地味に困る。自分の力で動かせているかどうか判断がつかないじゃん。
「あのイブキ先生、すみませんがもうちょっと呼吸を抑えてくれませんか?」
「えっどうして?」
「先生の息が荒すぎてスライダーが動いちゃってるから捕捉しづらいんですよ」
「そんなこと言われても無理よ! だっだって、今のあなたの顔を見ていたら私ってば少し……、いえ、もういっそこのまま全部……!」
……えーとイブキ先生、一体何を全部でしかもそれをどうするおつもりなんでしょうか。そこまでどストレートに発情されると、その対象物である僕としてはそろそろ本気で引きそうです。
「ほら先生、また身体がずれてますよ。ちゃんと座ってください。特訓になりませんから」
興奮のあまりどうしてもお尻が椅子からずり落ち気味になるイブキ先生を再びきちんと座らせ、再び左の掌に意識を極限にまで集中。
まずはいつも自分の家でやってる感じで行こうかな。体内のエネルギーを掌中央に一気に集めるイメージを頭の中に描いてみる。
よし! さぁ動けスライダー!! …………っ!?
「うぁわっ!?」
驚いて思わず変な声を出してしまった。
僕のありったけの本気で銀の金具が見事動いたからじゃない。
動いたのは僕の右腕だ。
右腕の中で何かがどくんと大きく震えた。間違いない。
慌てて右斜め下に目線を送ってみる。
外見的にはいつもと変わりない。けど、絶対に今、中で何か動いた。
なんの生き物かは分からないけど、長い冬眠から目覚めた生物が、起きぬけにぶるんと身体を震わせたような感じに似ていてちょっと気持ち悪い。
まさか腕の中に超巨大な寄生虫が住み着いているとも思えないし、サイコキネシスを発動させようと全力で集中したからかな?
いや、でもそれだったら矛盾点が出てくる。
毎朝起床時に、念動力を発動させるプチ訓練をしている時にこんな風になったことないじゃん。
小学生の頃から密かに始めた、羽のように軽いティッシュに念動波を送り、BOXから取りだせるよう頑張ってみる特訓。今まで自己流で色んな練習をしてきたけど、この日課だけは一日も欠かしたことがない。
今日もどうせ上手くいかないんだろうなぁ、と思いながらも毎日毎日これをせっせと行っているのは、年に一度程度の超低確率だけど、実際に何度か成功したことがあるからだ。
とはいっても白い羽紙を何とか一枚取り出せてもそれを自分の所まで持ってくる事まではできないというオチつきだけど。
このプチ特訓の時だって僕はいつも全力で集中しているつもりだ。
でも今まで一度だって右腕がこんな反応を見せる事はなかったぞ。
……ってことはッ!?
待って待って! 来たんじゃない!? もしかして僕、ついに力を発動させることができるんじゃない!?
うわぁ、すっごくテンションあがってきたぞ!!
よしっ、とにかく先生のこのスライダーを下げる! 意識はこの銀の金具だけに集中だ!!
腕の鈍い痛みが少し増したような気がするけど、この程度の痛みなら全然耐えられる!
幼い頃に右腕を怪我した時の痛みや、小学生の頃同級生に毎日苛められていたあの辛さからすれば、この痛みなんてせいぜいレベル1ぐらいの微々たるものだ! よしっ、行くぞ!!
―― すると今度は頭の中でキィィンという甲高い音が鳴った。
打楽器のような心地よい音色じゃない。思わず焦りを感じてしまうような、心がささくれ立つ嫌な異音だ。なんだこれ……?
落ち着け、とにかく集中だ。
こんな奇怪音にビビッてる場合じゃない。
だって予知なんて全くできないのに、なぜか今は感じるんだ。
きっと僕はこのミッションをクリアできるって。
でも同時に今これをクリアできないと、僕は一生何もできないダメダメな男のままで生きていくっていうバッドエンドの未来も感じる。
もしかしてこれが予知とか虫の知らせってやつ? だとしたら冗談じゃない!! 僕はやる! 絶対にやり遂げる!!
「くぅううっ!!」
集中集中集中集中ッ!! 動けえええええええええええええ!!
…………うううううううううううう!! くそっ!! なんで!?
力を入れ過ぎて手の筋がつりそうなのになんでスライダーは微塵も動いてくれないの!?
嫌だよっ! このまま何の力も出せない男で一生を生きていくなんて嫌だあああああああああ!!
「力み過ぎちゃダメよタイセーくん!! 気がすごく不安定になってるわ!!」
僕の気が不安定になってるだって!? そんなのうまくできなくて苛々してるからだろ!? 当たり前じゃん!! 喋る余裕があるならそんな事実なんかよりもっと役立つアドバイスをくれよ!! つーかなんでまた勝手に立ちあがってんだよ!?
「落ち着いてタイセーくん!! それじゃ力は発動できない!! 一度力を抜きなさい!!」
「立つなって言ってんだろ!! 座れよっ!!」
「きゃあっ!!」
ちくしょう!! なんでだよ!! もうちょっとで力が出せそうな感覚はしてるんだ!!
なのになんで発動しないんだよ!! 動けよっ!! 動けってば!! 力が使えないとカリンを守ってあげられないじゃんっ!!
―― その時、またどくんと右腕の中で何かが大きく蠢いた。
まるで僕の憤りに応えてくれたかのような絶妙のタイミング。
そして何かを僕に伝えたいかのように腕の痛みもさらに増してきてる。
突然、頭の中である考えが閃いた。
こっちの腕でやってみれば成功するんじゃない!?
限界を超えたせいでビクビクと小痙攣を始めている左手を下ろし、痛み続ける右腕を斜め下に突き出す。
右腕の痛みが秒が進むごとに増してきているけどそれがなんだってんだよ!!
ならこのじくじくと続く嫌な痛みを外に吐き出すイメージだ!! それをあのスライダーに全部ぶつけてやるっ!!
いっっけぇえええええええええええええええええ!!!!
…………結果から言えば失敗だった。ミッションの標的は真下へ動いてはくれなかった。
でも。
「タ、タイセーくん……あなた……」
イブキ先生の言葉もそれ以上続かない。僕だって言葉が出ない。信じられない。
でもそんな猜疑心に凝り固まった目で見ても、現実は、いや、僕の創り出した世界は、微塵も揺らぐことはない。
すごく、綺麗だった。
僕と先生の目の前で、把握できないほどの無数の銀粉が、小宇宙に浮かぶ星々のようにキラキラと輝きながら空中を舞っている。
それは苛立ちと憤りをこめまくった僕の死に物狂いの一撃が、イブキ先生の銀の金具を跡形もなく完全粉砕したせいだった。