だってもう今は治ってるんだし < 前篇 >
「ヤマダさん、君の助けはいらないからもう僕に構わないでほしい」
心配してくれているナナセ・ヤマダをそう冷たく突き放し、踵を返してメディカルルームに向かったけど嫌な汗が止まらない。
背を向けたからもう見えなくなっているのに、青い眼鏡をかけたとってもお人よしなあの女の子のすごく消沈した顔が目の前に何度も何度もちらついて、これ以上ないくらいの後味の悪さが身体の隅々までじわじわと侵食してきている。
……どうしよう、吐き気まで催してきちゃったかも。
喉の奥がかすかに酸っぱく感じるし、目まいに拍車がかかったような気もする……。
マズイぞ、このままここで吐いちゃったらおそらく大惨事は免れない。
ただでさえ超能力が使えない落ちこぼれとして校内でもすでに噂のこの僕が、ピカピカに磨きあげられているこの綺麗な廊下で胃の未消化物を盛大に巻き散らかすなんてことまでやらかしたらどうなるだろう。そんな黒歴史伝説のページを増やすことは避けたい。
なので万が一のことを考え、メディカルルームに向かう前にトイレに寄って、個室で強引に胃の中の物をすべて吐き出すことにした。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
HRが始まるからか、幸い男子トイレには誰もいなかった。
急いで個室に入り、喉の奥に指を突っ込む。だけど結局うまく吐けない。何度やっても。
ついさっきまで何でもなかったのに急にどうしちゃったんだろう?
もしかして、“ もし自分が二人いたら、カリンとヤマダさんと二人同時に付き合えるのに ”なんてものすごく自己中な考えをしてしまった事に対するばちが当たったのかな……。
喉の奥に指を突っ込みすぎたせいでげほげほと無様にえづく中、そんな自虐的な考えが頭の中をよぎる。
しかたない、吐くことは諦めよう。
個室を出て手を洗い、再びメディカルルームに向かった。
相変わらず吐き気はするけど何とか目的地に到着。扉横のボードに目を凝らしてみるとそこに表示されていた名は――、ん? 【 サユリ・ミズノ 】?
ミズノさんって昨日のあのミズノさんだよね?
イブキ先生と仲が良くて、昨日コシミズさんの使い魔に引っかかれた頬の傷を直してくれたあの人。
うちのシヅル姉さんと容姿はよく似ているけど、クールな姉さんと違ってとても人懐っこくて優しいスタッフさんだ。良かった、知ってる人で。
メディカルルームのドアを開けて中に一歩足を踏み入れるより早く、「わぁタイセーくんじゃなーい!! おっひさ~っ! 元気だったぁ?」と、ミズノさんの明るい声が僕を出迎えた。
……久しぶり、ってどういうこと?
「お、おはようございます。でも昨日会ってますよね? それに元気だったら普通ここには来ないと思うんですが……?」
「やーね、真面目に受け取らないでよタイセーくん! ただのアイサツよ、アイサツ!」
アハハと楽しげに笑うミズノさん。短い丈のスカートから伸びている組んだ脚はどうみても生脚だ。
大人の女の人って普通ストッキングとか穿かないっけ?
しかしこの人、うちのシヅル姉さんと見かけが本当に良く似てるなぁ……。
だけどうちの姉さんと違ってすごくフランクな性格っぽいから、この人と話す度に妙な違和感がして身体の奥がムズムズしてくる。
だってうちのシヅル姉さんなら間違ってもこんなに朗らかに笑わない。声を荒げて怒ることだって絶対にしない。怖いぐらいにいつだって淡々としてる女性だから。ミニスカートの時はストッキング穿いてるし。
突然の雨でびしょぬれになってしまったヤマダさんを僕が家に連れて来て、彼女と廊下で鉢合せをした時は珍しく声を上げて笑ってたけど、あれは姉さん達が実の弟である僕に欲情してるってことをうっかりヤマダさんに聞かれちゃったから、それをごまかすための演技だったしなぁ……。キサラ姉さんもそうだけど、女の人ってホント本性を隠すっていうか猫をかぶるのが上手いよね。
そんなくだらないことを考えているとミズノさんが椅子から軽やかに立ち上がり僕に近寄ってくる。
「それでタイセーくん、朝一番にここに来るなんてどしたの? お腹でも痛くなった?」
「いえ、お腹じゃなくて実はさっき急に目まいがして……ってっ!?」
―― あれっ!? 目まいが治まってる!?
っていうか目まいだけじゃない!
身体の中で何かがぐるぐる動いているようなおかしな感覚まできれいさっぱり無くなってる!!
なんで!? なんで急に治っちゃったんだ!?
「目まいがするの? それは大変~。ちょっと顔を見せてっ」
「エ!?」
うわわわ、近い近いッ!! 近寄りすぎですよミズノさんっ!! 顔と顔の距離、10センチも無いんですけどッ!?
あたふたと視線をあちこちに泳がせて口ごもると、お互いの吐息がかかりそうなぐらいまで無遠慮に近づいてきたミズノさんからは何かの薬品の匂いがした。でもこの匂い、嫌いじゃないな。キツい香水の匂いよりよっぽどいい。
「ん~、顔色は特に悪いようには見えないけどねぇ。眼球もブレてないし、気は若干不安定っぽいけど全然許容範囲だし。他に具合の悪いところってある?」
「すみません! 治りました!」
「治った?」
「目まい止まりました!」
「あらあらずいぶんとお早い完治だこと」
興奮気味の僕に向かって「せっかくの私の出番がないじゃない」と笑うミズノさん。
もしかしたら授業をサボルための仮病と思われちゃったかもしれない。それは嫌だなぁ。
「ついさっき廊下にいた時は結構ひどかったんです。かなり強い吐き気もしましたし。今は治っちゃいましたけど」
「あら、じゃあここに来る途中で吐いちゃったの?」
「いえそれは大丈夫です。でもここに入った途端に急になんともなくなっちゃったのはどうしてなんでしょうね」
「どうしても何も、私の顔を見たからでしょ?」
「……?」
最初はミズノさんの言っている意味が飲み込めなかったので一瞬キョトンとしてしまったけど、目の前で悪戯っぽく笑っているミズノさんを見て、彼女の言いたい意味がなんとなく読みとれた。
ここは話を合わせておいた方がいいのかなぁ。
「ねぇタイセーくんってどんな女の子がタイプなの? イブキみたいにメガネはかけてる方がいい? それともかけてない方がいい?」
……急に何を言い出しているんだろうこの人。
「すみません、その質問の意図が分からないんですが」
「ん? どんな女の子がタイプなの、って聞いてるだけじゃない」
「だから僕の好みの女の子のタイプを今ここで答える意味が分からないんですが」
「細かい事はいいじゃないの教えてよ」
「…………」
「そんなに困った顔で黙りこくられるとは思わなかったわ。そこまで答えに窮する質問をしたつもりないんだけど?」
「いえ、十分答えに窮します」
「じゃあタイセーくんが答えやすい質問に変えましょっか? イブキと私ならどっちがタイセーくんのお好み?」
―― その質問の方がもっと答えづらいよ!!
「そっそんなの考えたことないんで分かりません!」
「じゃあ今考えてみればいいじゃないっ」
「無理です! 先生たちをそういう目で見られませんからっ!」
頭をぶんぶんと振って必死に回答を拒否すると、なぜかミズノさんのテンションがぎゅんと上がった。
「いい~!! その初々しい反応すっごくいいわ~っ!! イブキが君にあれだけ夢中になってるのもちょっと分かってきたかも!! 実は私も昨日タイセーくんと初めて話をしてみてからずっと君のことが忘れられなくなってるのよねっ!」
ええええええええ――!! まさかこの人も僕のことをっ!?
「ふふふっ、でもそんなに警戒しなくてもいいのよタイセーくん!」
ミズノさんは僕の額をツンと押してニコッと笑うとまた椅子にストンと腰を下ろす。そして素早く脚を組んだ。
「私はイブキじゃないから。特に年下好きってわけでもないしね。でも確かに君は母性本能をくすぐるタイプだわ。君と二人っきりでいると君のために何かをしてあげたくなってきちゃうもの」
「ありがとうございます……」
―― 咄嗟にお礼を口走っちゃったけど、これって単純に喜んでいいことなんだろうか?
結局はさ、僕がいかにも頼りない男に見えるからつい世話を焼きたくなっちゃうってことなんじゃないの?
なんかやっぱり素直に受け取れないや……。
表面にいびつな針を何本も突きたてたちっぽけなプライドの塊が、僕のコンプレックス部分を絶妙な角度からチクチクと突ついてくる。
「あ、そうだ。ねぇタイセーくん、今日から毎日イブキと放課後に特訓をするんですって?」
「はい。イブキ先生から聞いたんですか?」
「そ。こっそり教えてもらったの。頑張ってと言いたいところだけど、気をつけてねタイセーくん」
「気をつける? 何にですか?」
「イブキってばね、タイセーくんとの個人レッスンが嬉しくってたまんないって感じで浮かれてて凄かったのよ。イブキのあの様子を見たら教室でタイセーくんと二人きりになった途端に暴走しないか心配で」
うわぁ……なんかすごく嫌な情報を仕入れてしまったよ……。
―― いや、イブキ先生を疑っちゃダメだ。
先生が公私混同なんかするはずない。
少し浮かれちゃってるのだって、学園一の落ちこぼれの僕をなんとか救おうという担任愛からきているんだよきっと。
確かに先生は自分はショタコンで入学当時から僕の事がずっと好きだったと突然カミングアウトしてきたし、その気持ちを抑え込むために後ろ髪を常に短くして己を律していたと暴露もしてきたし、この間も頬に熱烈なちゅーとかされちゃったけど、でも僕はあの人を、イブキ先生を信じる!!
「それでねタイセーくん、今日は救護室にずっといなきゃいけないから無理だけど、明日の放課後から私もあなた達の特訓の様子をたまに覗きに行くわね。これは君のためでもあると思うの。どうかしら? 行ってもいい?」
「ぜっぜひお願いしまぁすっっ!!」
「返事早っ!」
光の速さで即答した僕にミズノさんはクスクスと笑ってる。ちょっと勢い込みすぎちゃったかな。
もちろんイブキ先生のことは信じてる。だからミズノさんに来てもらうのは万一のための救護措置だ。
アクシデントが起こっても溺れないようにライフジャケットを着込むようなもんです。
「それで目まいの方は本当に大丈夫? 気分は悪くない?」
「はい。全然大丈夫です。お騒がせしました」
「でもタイセーくん、たかが目まい程度って軽く考えちゃだめよ? 何かの原因があるから目まいが起こるんだからね。もし次に目まいが起こってまたすぐに治まってもここに来なさい。私がここに詰めていない日は他のケアスタッフが対応できるように記録にも残しておくから。いいわね?」
「はい」
……そっか、また目まいがいきなり起こることもありえるよね。
実はあの時、目まいよりも身体の中で何かがぐにぐにと蠢いているような感覚の方が気持ち悪かった。体内の血管とか筋肉とかを内部からグイグイ押されているようで。お腹の辺りと左腕がぼわっと熱くなったような気もするしなぁ。
でもミズノさんにもうこれ以上いちいちさっきの様子を更に詳しく話す必要もないだろう。だってもう今は治ってるんだし。