知ってたんだね 最初から
……どうしよう、コシミズさんにハンカチを返しそびれてしまった。
同じクラスなんだからハンカチを返すチャンスなんてまだまだいくらでもありそうだけど、うまく返せる自信なんてまったく無くなってる。
だってきっとこれから先、あの無口な女の子は僕が近づこうとする度に、ああやってすごく悲しそうな目をしながら使い魔のネコたちと一緒に逃げて行ってしまうんだろうから。
はぁ……、こういう形で女の子を傷つけちゃうとこんなにも気が滅入るものなんだなぁ……。
こんな気持ちになるくらいなら、今まで通り嫌な思いをする側の方が全然いいや。僕はそっちの方がよっぽど耐えられる。
これからはどんなにカッときても二度とキレないようにしよう。そうしないと後で結局ひどく後悔する羽目になるってことがよく分かったよ。
そろそろ予鈴が鳴る時間だから教室に戻らなきゃ。
でも校舎裏ではまだ女の子たちのバトルが続いているかもしれない。
PSIが使えない僕にあの修羅場を止められるとは思えないし、情けないけど正面玄関から校舎に入ったほうがいいのかな……。
「タイセー!」
「うわああぁっ!?」
誰かがいきなり背中にしがみついてきた!!
身体がグラリと大きく前のめりになったけど倒れる寸前で何とか踏みとどまる。
もう誰だよっ! 危ないじゃないか!
ほんの少しムッとしながら振り返ると、見覚えのあるとっても強い目力が僕に向けられていた。
「会いたかったわタイセー!」
―― あっカリンだっ!! カリンが来てるっっ!!
大好きな女の子を目にした途端、コシミズさんのことでブルーになっていた気持ちがわずか一瞬ではるか後方に弾け飛んでいくのが分かった。
つい数秒前まで落ち込んでいたはずなのに、今は感情が180°反転してしまっている自分の現金さに嫌気がさしたけど、嬉しくてたまらない気持ちは抑えられない。
「おっ、おはようカリン!!!!」
僕のすぐ目の前で亜麻色の髪が朝の涼風でサラサラとなびいている。
せっかくカリンがこんなすぐ近くにいるのにドキドキしているせいで正面からまじまじと顔を見られない。だから朝日が眩しいフリをして瞬きの回数を多くしてみたりした。
「ねぇどこか痛いところはない? 食欲はちゃんとある? 昨日は何時に家に戻ったの? 夜はきちんと眠れた? レドはちゃんとあなたを送った? 怪我はしてませんでしたって言ってたけどそれは本当かしら?」
朝の挨拶をすっ飛ばし、こっちがビックリするぐらいの超早口で矢継ぎ早に質問をしながらカリンが僕の腕を両手でペタペタと触りだす。
その身体チェックがくすぐったいせいと、僕だけじゃなくてカリンもテンパっているみたいだということが分かって思わず小さく笑ってしまった。
「カリン、いっぺんに言いすぎだよ。何から答えていいのかわかんない」
「だってタイセーのことが心配だったんですもの。タイセーってばいくら呼んでも全然目が覚めなかったし……!」
「ごめんね心配かけて。あの後目を覚ましたらもうどこも痛くなかったよ。今日も全然元気だし」
咄嗟についた嘘を信じたカリンはホッとした顔で僕の顔を優しくさすさすと何度もさすってくれる。
なんとなくあやされているような気分もするけど、すごく労わられているのは伝わってくるからこれはこれでかなり嬉しい気持ちにもなった。
気絶だなんて情けないところを見せちゃったから愛想つかされてたらどうしようかとビクビクしてたけど、どうやらそっちの方は大丈夫みたいだ。
「それにしてもレドったら大人げないわ。本気であなたに超電撃を浴びせるなんて最低よ。私、レドを許せないから昨日から口をきいてないもの」
カリンがレドウォールドさんに対して静かな怒りを燃やしだす。
でもその場にいない人の悪口を陰で言うのは好きじゃないし、カリンがレドウォールドさんに怒るのもそれはなんか違うと思ったのでやんわりと諭すことにする。
「でもそれは僕らがいた場所が場所だったからだよ。僕は仕方ないと思ってる」
「ど、どうして? だってタイセーが無理やり私をあそこに連れて行ったんじゃないわ。私だって納得してあなたについていったのよ? それなのにタイセーにだけあんな酷いことするなんて絶対にレドが悪いわ」
「でも最初に誘ったのは僕じゃん。レドウォールドさんの言いたいことは僕なりに分かる部分はあるし、怒られても仕方ないよ。だからカリンもレドウォールドさんと口をきかないとかそういうのはやめなよ。僕はもうなんともないんだしさ」
「タイセーって大人ね……」
カリンが尊敬の眼差しで僕を見てきたけど、本当は内心ちょっぴり複雑だった。
レドウォールドさんがPSIを使えない僕に大人げなく自身最強の技を繰り出してきたのは、あの場所にカリンを連れ込んだ事を怒っているんじゃなくて、きっとあの人もカリンのことが好きだからだ。
“ お嬢様のことは諦めろ ” と潮風が吹く崖の上でレドウォールドさんから淡々と言われたあの言葉が、一人の男としての発言だったのか、それとも一人の大人としての発言だったのか分からない以上、今も僕の中であの人に対するコンプレックスが嫌な色の霧を出しながらぐるぐると渦巻いている。
「ねぇタイセー、あのね、また私をあそこに連れて行ってくれる?」
「エ!?」
「あっ、えと、もっ、もちろんタイセーが良かったらなんだけどっ。もう行きたくないなら別にいいからっ。またレドに見つかったらタイセーがいじめられちゃうしそれは私もイヤだしっ。だからイヤならイヤってちゃんと言ってくれていいからっ」
うわ、カリン、顔真っ赤だ……。
慌てたように言葉を付け足していく度に顔の赤みもどんどん増していってる。
きっと女の子の方からそういうの言い出すのって勇気いるよね、多分。
僕は女の子じゃないけど、なんとなく今のカリンの気持ちは推測できるよ。
「嫌なわけないじゃん!」
恥じらいながらも一生懸命なカリンが愛しくてたまらない。「レドウォールドさんに見つかってまた怒られても平気だから行こうよ」とニコッと笑って答えるとカリンはお嬢様の仕草としては少々不似合いなほど大きく首を振った。
「もう二度とタイセーをあんな目に遭わせたりしない。絶対に」
―― だけどあのダイナモは本当に凄かった。
痛みに耐えるのは結構自信があるほうなのに最後は気絶しちゃったもんなぁ……。
でもカリンが好きだって言ってくれるのは僕だ。あの無敵の従者さんじゃない。
だけど、きっとあの従者さんなら好きでもない男と婚約させられそうになっているカリンを救うことができる。
それに引きかえ、今の僕は何もこの娘の力にはなってあげられない。
好きだって言われてるのに。
自分にふさわしいのは僕しかいないって言ってくれてるのに。
だから、早く力を使えるようにならなくっちゃ。
負けたくない。
絶対に負けたくない、あの人だけには。
「でもねカリン、次はカリンの予定の無い時にしよう? 本当は昨日アシヤバラっていう財閥の人と食事の予定があったのにそれをすっぽかして僕のところに来ちゃったんでしょ? ダメだよ、予定があるのに勝手に家を抜け出してきたら」
アシヤバラって人の名前を出した途端、カリンの表情が硬くなる。そして僕から目を逸らし、「だって嫌だったんですもの」と小声で呟いた。
「でもカリンに婚約者がいるなんて知らなかったからビックリしたよ」
「待ってタイセー、勘違いしないで。親同士が勝手に決めたの。だから私には関係ないの」
「関係ないってことはないんじゃない? 思いっきり当事者なんだし」
「そ、そうだけど……」
カリンはくっと下唇を噛む。
そしていつもの強烈な目力で僕を捉えると、「でも私、絶対その男とは結婚しないからっ」と勢い込んで言い切る。
「だってこの私にふさわしい男の人はタイセーだけですもの」
―― すぐには言葉が出なかった。
神童と呼ばれていた幼い頃と違って今の僕はただの落ちこぼれなのに、こんな僕をそんなに想ってくれるなんてどうしたらいいか分からないくらいの嬉しさがこみ上げてくる。
カリン、僕、必ずPSIを使えるようになるよ。
そして君にふさわしい男になってみせるよ。
「あなたならできる」って言ってくれた君の言葉を信じて頑張るから。
だから少しだけ待ってて。
「そのアシヤバラって婚約者、何歳なの?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「だって婚約者なんて言われたら気になるもん。教えてよ」
そう尋ねるとカリンは本当に嫌そうな顔で渋々と教えてくれた。
「同い年よ」
「じゃあその人も高一なんだね。どんな人なの?」
「デリカシーゼロの最低男よ。うるさくって無神経でエッチで大嫌い」
うわぁー……、なんかすごい嫌われようだな、そのアシヤバラって男。
レドウォールドさんと違ってそっちの方は僕があまり心配しなくてもよさそうだ。
「気分が悪くなるからもうその男の話はいいでしょ? そろそろ授業始まっちゃうわ。教室に行きましょっ」
カリンが手を差し出してきたので急いで繋ぐ。
柔らかくてすべすべしている感触が伝わってきて、ずーっと握っていたいなぁ、って心の底から思った。
でも手を繋ぎ始めてすぐ、遅刻しないようにと早足で少し先を歩いていたカリンが急に立ち止まる。
「……おはよ、ナナセ」
―― えっナナセって……、ヤマダさんっ!?
目の前にヤマダさんがいる。
校内から出てきたところみたいだ。
「おはようカリンさん」
ヤマダさんは握り合っている僕らの手に一瞬だけ視線を落としたけど、すぐに顔を上げてニッコリと笑いかけてくる。
「イセジマくんもおはよ」
「お、おはようヤマダさん……」
……うぅ、昨日振ったばかりの女の子に会うだけでも気まずいのに、カリンと手を繋いでいるところを見られてしまった。タイミングが悪いにもほどがある。
昨日ヤマダさんには僕はカリン・タカツキが好きだとはきちんと言ったけど、だからといって振ったばかりの女の子の前でカリンといちゃついているところを見せるのはやっぱり気持ち的に落ち着かない。
これ以上ヤマダさんを傷つけたくないから繋いでいたカリンの手をそっと離そうとした時、カリンがぎゅううっと僕の掌を握ってきた。
それが予想以上の強い力だったので思わず「いぃっ!?」と声が出る。
「どうしたのイセジマくん?」
ヘンな声を上げた僕をヤマダさんが心配そうに見上げる。
なんでもないよと言おうとしたけど、「行きましょタイセー」とカリンに手を引っ張られた。
「うわっ!?」
すごい力だ!
これ、多分念動力使ってるぞ! 女の子の出せる力じゃないもん!
僕とヤマダさんを強引に引き離し、カリンはぐいぐいと廊下の先へ先へと進んでいく。
「カリン! 超能力使うの止めてよ! 自分で歩けるから!」
ようやく強引に引っ張られていた力が止まった。
イタタ……、腕が抜けるかと思ったよ。
「どうしたのさ急に」
「タイセー、私知ってるのよ」
カリンは僕を見ないで突然そう切り出す。
「な、なにを?」
「あなたがナナセを好きなこと」
―― エ……!?
「昨日のランチの時、あなた、ずっとナナセを目で追ってた。ううん、ランチの時だけじゃない。体育の時とか教室移動の時とか、ナナセがあなたの視界に入る度、あなたはいつもナナセを追ってたわ。無意識で」
振り返ったカリンの表情に彼女特有の勝気さは無かった。
そして僕の右の掌辺りに視線を落とし、一気に喋る。
「だけどそれは昨日までの話。だって今はもう私がいるもの。私はあなたが好きだし、あなたも私が好きだって言ってくれた。これから先あなたの魅力にたくさんの女の子が次々に気付いていって皆どんどんとあなたの虜になってしまうんでしょうけど、その度にいちいち眦を吊り上げて身構える気もないわ。たぶんキリがないし。でも、ナナセだけは別。あの娘があなたの側に行くとどうしても焦ってしまうの。だって、あの娘は、ナナセ・ヤマダは今まであなたが好きだった女の子だから」
―― 全部見抜かれてた。
コシミズさんだけじゃなくてカリンにも……。
二人が言うように僕はナナセ・ヤマダが好きだ。
最初に指摘されたコシミズさんには八つ当たりしてしまったけど、これは間違いない事実だ。
言葉を失っている僕にカリンはきっぱりと言う。
「昨日も言ったけど忘れないでタイセー。あなたを一番好きな女の子は私よ。この気持ちは絶対に誰にも負けない。あなたは誰にも渡さないしあなたはこの私が幸せにする。何があってもどんなことがあっても絶対にそうするって決めているの。あなたと出会ったあの頃からずっと」
透き通るきれいな瞳にとても強い意思の光を滲ませたカリンが宣言する。
……でもどうしてかな。
カリンがこんなにまでも僕を好きだって言ってくれているのに、なんで僕はこんなざわついた気持ちになっているんだろう……?
なんだか不自然すぎるぐらい頑なに見えるカリンの態度が、僕の心に漠然とした不安を落とし始めていた。