それでも僕はこの二人が愛しいです 【 3 】
「あーあ、エロいことを一切考えないでキサラを大切にしてくれる男がどこかにいないもんかねぇ……」
赤信号で再び停車中のハンドルに両肘を乗せ、シヅル姉さんが胸の内を吐き出す。
その口調があまりにも切実だったせいで、その空気に当てられた僕は「でもそれってかなり難しい条件のような気がするよ」と大真面目に答えてしまった。
「分かってるさ、無いものねだりの願望だってことくらい。だがキサラのいない所でぐらい少しは愚痴を言わせてくれ」
「あ……ごめん」
「謝るな。お前が謝る理由など無い」
「でも今までこの問題をシヅル姉さんが一人で抱え込んでたんだろ? 姉さんだけに負担をかけてごめん。これからは僕も出来る限り協力するよ」
「フッ、優しいなお前は……」
シヅル姉さんは小さく笑うと半分くらいの大きさにまで縮んだ棒付きキャンディを口中から取り出し、「ホラ」と僕の鼻先に差し出す。
「なに? これを持ってろってこと?」
「いや、飽きたからお前にやる」
「いっ要らないよっ! そんな口つけの物!!」
「いいから食べろ。今日ナナセを送ってやったのは誰だ?」
「エエエーッ!?」
そっその交換条件はズルいよ姉さん!! しかもそれって完全に後出しじゃん!!
「血の繋がった者同士なのに何をためらう? いいからさっさと口を開けろ」
「うぐっっ」
言い返せない僕の口の中に無理やりキャンディがねじ込まれた。うぅ……実の姉と間接キスかよ……。
抵抗を諦めて口に押し込まれたラムネ味のキャンディを渋々味わうと、確かに姉さんの言う通り、ほんのちょっぴりだけどどことなく切ない味がしたような気がした。
「なぁタイセー」
口中からキャンディが無くなったシヅル姉さんの言葉が急に明瞭なものになる。
「お前は私が苦手だろうが、キサラは好きだろう? 何せいつもお前のことを心配し、見守ってきたんだからな」
「な、なんだよその言い方。何が言いたいのさ?」
「いいから黙って聞け」
気付けばシヅル姉さんはまた僕を一瞥もしなくなっている。
お次は我が家のどんな恥部話を言い出してくるんだろう……? 緊張で硬く握りしめた手の中が段々と汗ばんできている。
しかし二発目の爆弾情報に備え身構えていた僕にとって、一番上の姉から告げられた内容はまったく予想外のものだった。
「小学生の頃、超能力がまったく使えないという理由で、同級生の悪ガキ共に苛められていたことをまだ覚えているか?」
── 本気で驚いた。
「シヅル姉さんもその事知ってたのっ!?」
「あぁ無論だ。ではお前もまだ覚えているんだな」
「う、うん。覚えているよ」
クラスの皆からイジめられていた事は正直今もあまり思い出したくないけれど、でも嫌な思い出ってなかなか記憶から消しづらいから困る。
それよりも今僕が一番気になっているのは、僕とキサラ姉さんしか知らないこの秘密をシヅル姉さんも知っていたということだ。
「それ、キサラ姉さんから聞いたんだね?」
ひどいや、キサラ姉さん。シヅル姉さんに話しちゃうなんてさ。あれは僕たち二人だけの秘密だって約束してくれたのに……。
僕らの約束を勝手に破ったキサラ姉さんに失望していると、シヅル姉さんは「いや違う」と僕の問いを即座に否定した。
「キサラ姉さんが話したんじゃないの!? じゃあどうして知ってるのさ!?」
「お前はキサラしか知らないと思っていたのかもしれんが、母さんの千里眼や父さんの接触感応で私たち家族は皆知っていたんだぞ」
「そうなの!? 父さん達からは何も言われなかったから気付かれていないと思ってたよ!!」
「馬鹿だな、同じ屋根の下で暮らしていて気付かないわけがないだろう? あれだけ毎日のように不自然なすり傷を作って帰ってくれば、お前の身に何かが起っていることぐらい嫌でも察するさ。だがケガをした訳を何度聞いても、お前は転んだとばかり言い張って、超能力が使えないから苛められているとは絶対に言わなかったな。それは何故だ?」
「…………」
「これだけ月日が流れた今でも自分の口からは言いたくないか?」
左手をハンドルから一時的に離し、シヅル姉さんが黙り込む僕の膝の辺りを励ますように軽く二度叩く。
「だがその理由もおおよその察しはついている。きっと幼いお前なりにプライドがあったから話さなかったんだろう? 違うか?」
「……うん、そうだよ」
完全に見透かされていた。自分の格好悪さを噛み締めながら残りの理由も素直に話す。
「それに家族に心配をかけたくなかったんだ」
「何を言っている。助け合ってこそ家族だろう? 何事にも我慢強いところはお前の美点でもあるが、同時に欠点でもあるな」
僕を横目で見つめてそう呟いた時、シヅル姉さんの視線にほんの少しだけ憐憫の情が混じったような気がした。
「だがお前のその気持ちを尊重し、私たちは気付かないフリをしていたんだ。そして万一どうにもならないレベルの所まできたら、その時はお前を守るために私たち家族が出て行こうと決めていた。だがキサラ、あいつは」
シヅル姉さんはここで急に一度言葉を区切り、深く息を吐く。
「あいつは私たち家族のその取り決めを守れなかった」
「ど、どういう事?」
「あいつはお前が学校帰りに毎日同じ場所で苛められていることを突き止め、私たちにも黙ってお前を一人で助けに向かったんだ」
「あっ僕も覚えてるよ、それ……」
「あの時キサラは中学生だったな。学校を早退し、お前を助けるためにあいつが家から何を持ち出したか覚えているか?」
「うん」
僕は静かに頷き、その答えを告げる。
「芝刈り機だったよ」
「ありがちな凶器じゃなかったのがキサラらしいよな。おそらく悪ガキ共に立ち向かうために、あいつなりに我が家の中で一番強力な武器はなんだろうって考えてそれを待ち出したんだろう」
「そうだね、キサラ姉さんらしいよ」
「普段は臆病なくらいにおとなしいくせに、時にこちらが仰天するような大胆なことをやらかすからな、あいつは」
「うん」
当時のキサラ姉さんと、大勢の同級生から集団で苛められていた日々を思い出す。
人目の付きにくい空き地に連れ込まれ、毎日毎日クラスの皆から同じ悪口を言われていたあの頃──。
「やぁい、この落ちこぼれぇー!」
「悔しかったら反撃してみろよー!!」
「PSIがまったく使えない、お前の人生オワッテル~~!!」
皆、自分が出せるそれぞれの能力で僕を苛めて楽しんでいた。
あちこちから僕目掛けて小石が飛んできたり、目の前には誰もいないはずのに、正面から胸を突き飛ばされたり、突然足を払われたりした。何度もぶざまに地べたに転がされ、その度に頭上からは僕を嘲る甲高い笑い声が浴びせられる。
あの頃の僕は、身体も、そして心も、どちらも毎日傷つけられていた。
その中でも、『PSIがまったく使えないお前はすでに人生が終わっているも同然』という事実を突きつけられたのが一番ショックだった。
まだ僕は小学生なのに、未来だって絶対にあるって信じていたのに、すでに僕の人生は終っているようなものなんだ、そう思い知らされたあの時。
すごく悔しかった。どうにかして皆を見返してやろうとしたけれど、だけどどう必死に頑張ってもやっぱり超能力を出すことはできなかった。だからせめて何をされても絶対に泣かない、と固く決めて僕は毎日を必死に耐えていた。
そんな僕に突然、救世主が現れる。
いつものようにイジめられていた僕の耳に「止めなさい!」という大きな声が響き、制服姿のキサラ姉さんがいつもの穏やかさとは打って変わった気迫のこもった表情で空き地の入り口に佇んでいた。
「大勢でよってたかってタイちゃんをイジめるなんて許さないわ! あなた達、これでもお食らいなさいっ!」
キサラ姉さんはそう叫ぶとエイッと大きな動作で芝刈り機のスイッチを引っ張った。
途端に刃が超高速で回転する音が始まり、ゆっくりと芝刈り機が前進を始める。そして復讐の役を命じられたその芝刈り機は襲うスピードを徐々に上げ始めた。
「うわあっ!」
「あぶねー!」
「何だよこいつー!?」
キサラ姉さんのPSI能力の補助を受け、芝刈り機はどんどんとスピードを上げ、苛めていた同級生を追い回し始める。万一、逃げ遅れてその下敷きになってしまえば背中の表面がスッパリと刈り取られてしまう恐怖に脅えたクラスメイトたちは、「逃げろっ!!」と叫ぶと蜘蛛の子を散らすようにあちこちへと消えていった。
「はぁはぁっ、はぁっはぁっ……!」
得意ではない念動力を使い果たしたキサラ姉さんがその場にガックリと膝を着いた瞬間、芝刈り機も同じようにガクガクと大きく震え、急停止する。
「キサラ姉さんっ大丈夫ッ!?」
慌てて側に駆け寄ると、キサラ姉さんは泥だらけの僕をギュッと抱きしめた。
「もう大丈夫よタイちゃん。悪い子たちは姉さんが追い払ったから……」
「キサラ姉さん、どうしてここに来てくれたの?」
「聞いてタイちゃん」
二番目の姉がすごく真剣な表情で僕の顔を覗きこむ。
「これからはイジめられたらすぐに姉さんに言って。お願いだからこうやって一人で抱え込まないで。超能力が使えないのはタイちゃんのせいじゃないの。だからあなたがイジめられる理由はどこにもないのよ。ね? 分かったわね?」
優しい言葉をかけられてあの時思わず泣きそうになった。鼻の奥にツンとした熱さを感じ、慌ててグスンと鼻をすする。
「ね? お願いタイちゃん、姉さんと約束してくれるわね?」
「う、うん。分かったよ」
涙をこらえてコクリと頷くと、キサラ姉さんが安堵の表情を浮かべる。
「いい子ねタイちゃん。絶対に約束よ? さ、帰りましょ」
姉さんはそう言って地面から立ち上がったけど、まだ少しよろけていたので急いでその華奢な身体を支える。
「姉さん、力を使いすぎたんだよっ」
「ふふっ、大丈夫よこれぐらい」
そう言うとキサラ姉さんは芝刈り機に歩み寄り、それをウンウンと押し出した。しかし芝刈り機はまるで第二次反抗期に入ったようにピクリとも進まない。
「それ、僕が押すよ姉さん」
「ホント? ありがとうタイちゃん」
疲れきった姉さんに代わって芝刈り機を押す。
メインの左手に全力をこめると何とか動いたけど、それはかなり重かった。キサラ姉さんは非力なのに、家からこれをずっと一人で押してきてくれたんだ、と思うとなんだかまた涙がこみ上げてきそうになったのを覚えている。そして、僕がイジめられていることはお父さんやお母さん、シヅル姉さんには言わないでと頼んだ僕に、キサラ姉さんはニッコリと笑って「えぇ、絶対に言わないわ。私とタイちゃんだけの秘密ねっ」と約束してくれた。
……そうだ、よくよく思い返してみれば、僕は今までキサラ姉さんに叱られたことが一度もない。PSIが使えない僕の心配ばかりしてくれる心優しい姉だった。今、一人ぼっちで僕らの帰りを待っているキサラ姉さんのことを考えると、なんだか目頭が急に熱くなってくる。
「分かったよシヅル姉さん。帰ったら僕がキサラ姉さんのフォローをしておく」
頭で考える前に自然とその言葉が口から出ていた。
「あぁ頼む。お前に全ての事情を話すことができて、正直私も肩の荷が下りたような気がするよ。キサラの今後のことはこれから私たちで引き続き考えていこう。あいつはお前の大切な姉なんだからな」
「うん」
食べ終わった棒付きキャンディの棒を口中から抜き、車内のクズ籠に捨てる。
「それとさシヅル姉さん」
「なんだ?」
「僕、シヅル姉さんのこと苦手なんかじゃないよ? そりゃあヘンな気持ちで見られるのは嫌だけど、シヅル姉さんだってキサラ姉さんと同じくらい大好きだし、僕のとても大切な姉さんだからね?」
「……タイセー、お前……」
シヅル姉さんは僕の顔を数秒見つめた後、急に車を左折させた。
「うわっ!?」
車は家の方角じゃない方にグングンと進んでいる。
「帰る前にどこかに寄るの!?」
すると姉さんはハッとした表情で今度は車を右折させ、あわただしく本来のルートに戻った。
「……危ないところだった」
「何が?」
「お前が急に私の胸を震わすような可愛いことを言い出したせいで、危うくお前を連れてラブホに直行しそうになったぞ」
「ぶっっ!!」
再び車内で盛大に噴き出す僕。
「だっだからその性癖をなんとかしてくれよ!!」
「無理だな。このショタコンは一生治らんっ」
僕の必死の抗議にも悪びれることなく堂々と答える一番上の姉。そこには恥じている様子など微塵も感じられない。
「胸を張るなヘンタイ!! じゃあせめて僕だけは攻略対象から外してよ!!」
「では最大限の努力だけはすることをここに誓おう」
「だから努力だけじゃダメなんだって姉さん!! 確実に実行してくれよ!!」
あぁもう! 結局最後に行き着くオチはここになるんじゃないか!! そのままショタコンランドにでも転生して人生やり直してくれよもう!
どっと疲れを覚えた身体でキサラ姉さんの待つマンションへと戻る。
落ち込んで部屋に引きこもっているかと思ったら、姉さんはキッチンでプリンを作っていた。
「あらお帰り、タイちゃん!」
ウエーブのかかった髪を白いリボンで一つに縛り、エプロンを身に着けたキサラ姉さんが笑顔で僕を出迎える。
「今日はタイちゃんに彼女ができた記念日だから、タイちゃんの好きなプリンを作ってお祝いしようと思って! あともう少しで蒸しあがるからテーブルについて待っててね!」
キサラ姉さんが無理をしてはしゃいでいるのが痛いほど分かった。視界の端に、黙ってリビングを出て行くシヅル姉さんの背中が映る。その場で少し考えた後、結局僕はテーブルにつかないでそのままキッチンに残った。
「キサラ姉さん」
「なぁーに、タイちゃん?」
二人きりになったキッチンで、僕は二番目の姉を思い切り抱きしめる。
「タ、タイちゃん!?」
驚くキサラ姉さんをもっと強くギュッと抱きしめる。イジめられている僕を必死で助けてくれたあの時のように。
「……姉さん、僕はヤマダさんとは付き合っていないんだ。だからあの娘は僕の彼女じゃないよ」
耳元でそっと真実を告げると、キサラ姉さんが驚きで息を飲み込んだのが分かった。
「ほ、ほんとに!? ほんとにナナセちゃんとは付き合ってないの……?」
うん、と返事をする前に頭の片隅にカリンが浮かんだ。
だけどあんなひどい言葉を投げつけて思い切り傷つけてしまった今の僕は、カリンの彼氏になる資格なんかすでに無くなっている。
「うん。僕に彼女はいないよ」
キサラ姉さんは僕の腕の中で身じろぎをすると、慌てて目元を拭う。
「や、やだ私、なんで泣いてるのかしら?」
たぶん僕に彼女がいないと知って安堵したせいだろう、キサラ姉さんがぽろぽろと涙をこぼし出している。優しいキサラ姉さん。大好きなキサラ姉さん。でもこんなに綺麗なのに普通の恋愛が出来ない姉さん……。
そんな姉が不憫でたまらなくなり、キサラ姉さんの左の頬にそっと口付けをした。すると僕からキスされたことにビックリした姉さんが左頬を手で覆う。
「タ、タイちゃん、今、私のここにキスした……!?」
「う、うん。しちゃダメだった……?」
そう尋ねると姉さんは桜色に上気した顔でぷるぷると全力で首を振る。
「ううん! そんなことないわ! 姉さん、とっても嬉しいっ!!」
うわっ、超喜んでるっ!!
予想以上の好反応に一気に焦る僕。
「でっでもねこのことはシヅル姉さんには内緒だよ!? だだっ、だってほらウチは年功序列みみみたいだからさっ!」
若干噛み気味でそう伝えると、キサラ姉さんは「じゃあこれも私とタイちゃんだけの秘密ねっ!」と本当に嬉しそうに微笑んでくれた。
どうしよう、フォローをやりすぎちゃったかな……。
これからシヅル姉さんと協力してキサラ姉さんを矯正させなくっちゃいけないのに、結局僕も問題を先送りにしてしまった。
その事に後悔の気持ちはある。あるんだけど、でも今はこの優しい二番目の姉を悲しませたくない気持ちのほうがはるかに強かった。
「え、えっと、プ、プリン一緒に食べようか姉さん?」
「えぇっ! きっと美味しくできてると思うわ!」
その後僕らはリビングで仲良くキサラ姉さんお手製のプリンを食べた。
ミントの葉が添えられたプリンは甘くてとても美味しかったけど、明日のことを考えると心の中が重くなる。
だって明日学校でカリンとどんな顔で挨拶をして、まず何を話せばいいのか、今もまったく分からなかったから。